デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 2011

「百人一緒」冬号にようこそ! 「せせらぎスタジオ」と「木版館」からのニュースをお届けします。毎号お読みの読者ならば、私が何から書き始めるか、きっとお分かりですね。そう、断熱工事をした工房は、とても快適に変身しました!

10年以上もの間、戸外とほとんど変わらないような環境で作業をしてきたので、薄いセーターだけで作業ができるのが信じられない思いです。ドアーを開いて一歩この部屋に入ると、誰もが同じ事を言います...「暖かい!」

でも、この新しい状況になったことによるマイナス面もあるのです。この部屋にまだ断熱材が張られていなかった頃、私はヒーターを入れることを拒み続けていました。熱は無駄に逃げていくだけなので、耐えられなかったからです。でも、「適切な」内装を施した現在は、ほんの少し電気パネルヒーターを点けるだけで、断熱材が保温してくれます。という訳で、選りに選って東京電力が昨年よりも消費電力を減らすようにと節電を呼びかけている今、私共の電気メーターは上昇中です!

とは言うものの、あ〜〜〜、それだけの価値はあるのです!

職人を訪ねて

最近はこんな事をする機会は減ってしまいましたが、私が東京で一日楽しく過ごしたいと思ったら、電車に乗って神保町へ行き、古本屋街で何時間もかけて版画店をじっくり見て回ります。ここ数年は、掘り出し物の版画を見付けられる店はめっきり減ってきていますが、まだ数件は残っているのです。そういった店のほとんどは、目抜き通りにある階段を上がった所など、一般の通行人には目立たない場所にあります。

そういった店に行けば、掘り出し物がいつも見つかるのでしょうか? 毎回という訳にはいきません。山積みの版画を端から端までめくっても、納得のいく版画が見つからないこともあります。でも根気よく探せば報われることが、しばしばあります。私の場合、そういった掘り出し物は、戦前に作られた版画という形で現れます。中でも私が気に入っているのは、アダチ・高見澤・悠々堂といった、一流の版元が昭和時代に出版した浮世絵の復刻です。

そういった版画を作った戦前の職人は、今では全て過去の人となり、その次の世代の人達も多くは一線を退いています。でも、数少ないとは言え、伝統の残る工房で技術を学んだ職人がいて、今回ご紹介するのは、貴重な時代と直接の結びつきを持つ希少な存在です。

彫師の朝香元晴氏は、私と同じ年の生まれで、現在は私と同じように彫りの仕事をしていますが、ここに至るまでの道は、まったくと言っても過言ではないほど私と違っています。私は版画制作に関わるまでに色々な分野に手を出してきましたが、朝香さんは在学中に彫刻刀を握り始めています。若い時から版画に興味を持っていたので、版画工房に見習いとして入る機会があった時に、決心して飛び込んだそうです。彼は、伝統的な形式で仕込まれた最後の世代になるのですが、ここで「機会」という言葉を使っていいのでしょうか? 朝香さんは、休憩などほんの少ししかない状態で毎日長時間作業をし(戦後の浮世絵ブームでした)、一日の仕事が終わるとアルバイトをしました。見習い期間は無給に近く、それが何年も続くのですから、家賃や食費を稼がなければならなかったのです。

当時の事を話すとき彼は、経済的な苦労ではなく、与えられた仕事や訓練を思い出すと言います。今から40年前にちょっとお腹が空いたまま布団に潜り込んだことなど、誰が覚えているでしょう。そんなことではなく、その後に仕事を続ける上で必要となる基礎を、その時代にしっかり身に付けたということです。この点も、私たちが大きく違うところです。私は独学で、自分で「解決策を導き」ながらやってきましたが、朝香さんは、伝統的な彫りの基本技術全てを学んできました。たとえば、葉の形は決まった一連の手順で彫るというように、基礎となるしっかりとした知識があります。ある言語を(厳格な教育を受けて)母国語として身に付けた人と、外国語として場面毎にバラバラに覚えた人との違いに似ています。朝香さんのような人は、版画の彫りを正しく「話す」ことができますが、これは、私には決してできないでしょう。

何年間か見習いをすると、朝香さんは所属工房の中心的存在のひとりになり、数えきれない程の版木に責任を持つようになりました。そこで何年も生産性のある仕事をした後、遂に独立します。以後はずっと個人の彫師として、摺師たちと協力した仕事などをするようになります。

以前は、版元が企画をして職人を雇うという伝統方式がありましたが、現代はこの図式がほぼ失われているので、個々人が「自己努力」をする時代になっています。朝香さんは、様々な方法で新環境に適応しています。数年前のことですが、アメリカで活躍している芸術家から、自分がデザインした絵の版画を作ってくれる工房を探して欲しいと頼まれました。そこで私は、朝香さんを紹介したのです。浮世絵を現代風にアレンジした作品でしたが、彼らの共同作業は実を結んで、出来上がった版画はまもなくカリフォルニアにあるギャラリーの壁面に飾られました。

朝香さんはまた、教室も開いています。趣味の版画であっても、初歩段階を越えた彫と摺を学びたいと希望する人達向けで、中にはかなり優秀な作品を制作している生徒さんもいます。

伝統木版画が将来どうなっていくかは、誰にも分かりません。朝香さんは教師として終わるのか、あるいは、目を見張るような作品をこれからもたくさん作っていくのか。たとえどのような方向に進むにせよ、朝香さんが彫った版木から作られた数えきれない程の版画が世界中の人々の手元にある、という事は動かし難い事実です。ひとりの彫師が受け継いできた内容は、本当に知る術もありませんが、それでも、とにかく実存するのです。

朝香さんは私とまったく同い年ですから、この先まだまだ何年も確実に生産的な活動をしていけます。私たちが航行するのは、地図にない水域のようなものです。そこをどのように進んでいくのか、今後の彼の活動が楽しみです!

「美の謎」シリーズ

予定よりも数か月遅れてしまいましたが、「版画玉手箱」美の謎シリーズは終わりを目前にしています。この記事を書いている今は、最終作品の摺をしているところですから、間もなく忍耐強く待っていてくださる皆様の元にお届けすることができるでしょう。

様々な時代に飛んで、多様な手法の作品を鑑賞しながら続けてきましたが、最後は開始した時と同じく北斎の富士に戻ります。今回のシリーズにおける名目上の「使命」は、日本の伝統木版画の美しさをご紹介するということで、振り返ってみると、その成果は上がっていると思います。たくさんの版画をお持ちの経験豊富な収集家の方々には、すでにご存知の内容が多かったかも知れませんが、それでも何か新たな発見があり楽しんでいただけたのでは、と思っています。

また、木版画を集め始めたばかりの方々にとっては、優れた木版画の入門体験になったと思います。

私自身の立場からすると、このシリーズは、多くの点で成功していると思います。職人としての実力が十分発揮されて満足していますし、60才代に入ってもまだ「出来る」と自信も持てました。正直、驚異的に優れた技術を見せる作品も含まれています。

また月並みですが、事業面からもとても順調です。シリーズ終盤には、予約者数170人という過去最高記録に達しました。私は長年、1作品につき200枚摺り、制作段階で収集家の元に送った残りは、「バックナンバー」として、その後の予約者に販売するようにしてきました。このシリーズの場合、残りが手元を離れて行くのは間もないことでしょう。

ここで困るのは、来月になると私の収入が、安定した状態から(再び!)急にゼロに落ち込むことです。これを回避する唯一の策は、直ちに彫台に戻るしかありません。この先は、どうか後のページで読んでください!

この企画に参加して、私を支え続けてくださった皆様に、心から御礼申し上げます。収集された方々は、真の「玉手箱」所有者になられたと、確信しております。

摺師デビュー

夏号で、現在手伝いをお願いしている主婦の方たちのひとり、對馬さんをご紹介しました。工房を訪ねてくる人達が、私の弟子なのかと聞く事がありますが、たいていは「ちょっと違うんです」と答えています。昔は、摺師の道に入ろうとしたら、まず見習いになったものでした。若い職人は、いつか自分の工房を構えて親方になろうとしたのです。對馬さんに(他のパートさんたちも)そのような考えは、まるでありません。

彼女たちがここで働き始めた動機は、仕事が必要だったからです。「キャリア」を積むことは念頭になく、生計の足しにすることが目的です。でも、面白い現象が起きました。對馬さんは、この仕事が彼女の性格や能力に向いていることが分かったのです。ですから、労働時間を加算するだけが目的ではなく、摺の仕事自体に興味を持っています。それは、彼女の上達ぶりに現れています。

彼女の労働時間はかなり不規則なので(主婦ですから)、ちょっと計算しにくいのですが、時間計算表を見ると、だいたい分かってきます。彼女がここへ来るようになったのは真夏で、12月の始めまでに160時間働き(あるいは練習)しました。これを1日8時間として計算すると、ちょうど1ヶ月になります。

このことに言及するのは、彼女が12月に、今年の年賀用版画のほとんどを摺ったという業績をなしたからです。たいていの工房がそうであったように、経験を積んだ摺師(今回は私)が墨版を摺り、見習いの摺師(今回は對馬さん)が残りの色版を全て摺りました。これは、見過ごしていい仕事ではありません。摺ったのは300枚だったのですから! 1ヶ月の訓練期間で、今までバレンを握ったこともなかった全くの素人が、工房から発送できる大事な仕事をするまでになったのです。

次の段階は、明確です。彼女に、木版館のカタログに載せられる版画を作ってもらいます。実は、この企画はすでに開始していて、彼女が初めて制作した版画が2作公開してあります。私が10年以上も前に制作した、摺物アルバム第1集にある北斎の作品と、私が木版館用に彫った、明治時代の絵師、三島蕉叟の「月明かりの梅」です。

作品は、ウェブショップからも購入できますが、同封の振込用紙をお使いいただいても結構です。今回は、「デビュー記念」として、割引価格を設定致しました。みなさんが對馬さんの努力に応援してくださることを願っております。私は、彼女とこの先も長く協力して仕事をし、彼女の摺台から美しい版画がどんどん生まれていくことを楽しみにしています。

何故、木版館

最近耳にするのですが、日本国内の会社が方針を変更して、より海外のようになってきているというのです。もしもアメリカで、ビジネスの目的を問えば、「株主に利益を還元すること」という答えが返ってくるでしょう。投資家は資本を提供する代わりに、利益を還元することを要求します。従業員を雇い、商品あるいはサービスを提供し、それを市場に送り出す。ビジネスの活動全てが、目的を達成すべく貢献するのです。

一方日本の企業は、伝統的に異なった概念を持っていました。投資家に利益を還元するという考えは本来の目的の中になく、従業員や客や社会の立場を優先するというのが、一般の理論でした。

木版館には、私以外の投資家が存在しないので、上記のように相反する運営方針のバランスに臨機応変な対応をすることができます。ここで私の考えを大まかに示してみましょう。私の脳裏にある木版館事業の「原理」を、優先順にいくつか記述してみます。

1)この組織が存在する基本理由は、ここで働く人達が生活の糧を得る道となることだが、その方法は、彼らが生きる意義をより深めるような方法でなされること。

そう、ここが大事なのです。自分自身と従業員達を、顧客や利益やその他の何よりも優先すること。ここを読んで気を悪くしましたか? とにかく、続けて読んでください&#...。

2)「従業員に生きる意義」を提供するためには、この組織の活動が、社会に価値ある物を提供するという本質を持たなくてはならない。つまり私たちは、自分が消費する以上のものを提供できれば良いのだ。もしも、今まで存在しなかった場所に、美と価値を作り出すことができるのならば、手に入る資源(地域と地球規模の両面から)を活用して、有意義な方法で実行する。こうして、この活動を始める以前よりも良い方向に環境を変えることができれば、私たちの人生は意味のあるものになるだろう。

3)...

「3」は存在しません。投資家への利益還元は? そもそも利益は存在しません。利益を生み出す事ができないと言っているのではありません。利益を取ってしまう存在がないという意味です。短期的には、収入の全てが事業の運営資金や従業員への支払いに回ってしまうでしょう。でもいつか「純利益」を生み出せる程度に事業が成功するはずで、もしもそうなれば、その資源は企業運営に回されることになるでしょう。新企画を開始したり、もしもこの地域に大震災が起きたら営業停止の事態は避けられませんし、事業拡大のための資源獲得も必要です。収益の使い道は限りなくありますが、「投資家」への還元金は皆無です。

現在のところ、木版館の法的分類は個人事業です。私がすべてを所有し、責任のすべては私にあります。事業が発展して、たとえば「会社」のように、より公式の営業形態に変更する必要が出て来たら、組織はもう私の所有物ではなくここで働く人達の物になります。私たちがその段階に達する時には、私の収入は「株主」としてではなく、自身がバレンと彫刻刀で働いて得た分になります。

現実を見れば...、なんたる「大風呂敷」! まだまだ手と膝で這い回っているような状態で、2本の足で立ち上がることすら出来ないというのに! でも、開始時点で将来の展望をしっかり持つのは、とても大事なことだと思います。実際、すでにこの哲学は日々の決断に影響を与えています。たとえば、あるひとまとまりの版画を摺るときに、「販売可能」として決断するか(私たちは利益が必要です!)、あるいは「ただ練習用」として考えるのか(プレッシャーを受けずに練習できる環境を作り出す)。

ここまでお読みになれば、私の経営方針が典型的な西洋方式でなく、より日本的である、という印象をお持ちになったと思います。でも、私が望む職場環境は、自身が今まで見てきた、どの日本の会社とも大きく違っています。この工房に来てドアーを開き、一歩中に入ると、みんなが楽しそうにしている様子を見られますよ!

次は何?

「美の謎」シリーズが終わった今、次の企画について決断をしなくてはなりません。試みたい事を列挙すれば、長い長い目録になりますが、ここで全てを書き連ねても仕方がないでしょう。みなさんが、そんなことに興味を持たないと思うからではなく、そうすることは、あまり適切ではないからです。というのは、現在の社会状況を考えると、どの案もまったく「現実的ではない」のです。

私は、版画家達が集まるインターネット上のグループに入っていますが、その中に「最近は何も売れないよ。経済状況は最悪だからなあ!」などと言う人たちがいます。でも私は、そうは言いたくありません。経済状況はそれほど悪くないのであり、ただ「変化」しているだけ、とも言えると思うからです。自分の生きている今がこういう時なのであれば、悪い状況を愚痴っても仕方のないこと。人は、適応しなくてはならないのです。

こうした厳しい環境にあっても、非常に多くの裕福な人達がいるようですし、市場のそういった層を標的にした仕事を作り出すことは可能だと思うのです。私自身は、そういった方針に食指は動きませんが。私は、自分が欲しくなるような版画集を制作していますから、自身が収集家の典型的な「標的」です。自宅の郵便受けに美しい版画が届くのなら、ほぼひと月の間隔で3500円を払うだろうか? もちろん! しかも私は、裕福とは縁遠い存在です。

と言う訳で、今年も比較的小さなサイズの版画 ー とは言え、惜しみない細部へのこだわりと完璧性はあり! ー に焦点を当てることになるでしょう。第1作目は4月頃に出来上がる予定ですが、どのようなテーマになるかは、今こうして書いている時点では正直決めていません。いろいろな可能性をじっくり考えているところです。

「美の謎」シリーズをお集めになられた方ならば、「デービッド、もう1年続けてよ!」と声を掛けて欲しいし、このように素晴らしい作品集を1組でも手にしたいとお思いの方は、どうか「収集するよ!」と連絡してきてください。

内容豊かで楽しく、皆さんをとりこにするような作品をお送りすることを、約束します!

(題)

近頃私は、電車の中で本を読まない。年齢的に根気がなくなってきたのが一因だが、そのかわりイヤホーンで聴ける音源を用意することにした。目を閉じて音に集中することもあるが、たいていの場合は、用のない目が車内や車外を見渡すようになる。

座っている時に、自分よりも高齢あるいは幼児を抱いた人が近くに来れば、すぐに気付いて素早く立ち上がるようになった。活字に夢中になって乗り越しをすることはなくなった。だが、好ましくないことを目撃する不運もある。車内で化粧をする女性は、見ても驚かなくなったのだが、...。

先日、自分の隣に若い男の子が座っていた。ある駅で彼が立ち上がり、私の目の前を横切ってドアーに向かって歩き始めた時、ちょうど目線に彼の尻の付け根が見えた。ギョッとした次の瞬間、気分が悪くなった。

これが、超ハンサムで超美的な体だったら、私の体は正反対の反応を示したかも知れないが、次の駅で下車する時にはわざわざ遠い別の出口を使ったくらい嫌悪感が残った。

以前から、今にもずり落ちそうなズボン(パンツと呼ぶのが今風かな?)の履き方を見ると、「あんた、自分の後ろ姿見てご覧!」という台詞が、のど元でトグロを巻く。そして、この「ファッション」がまだ続いているのがちょっと不安にすらなる。人間の美観とは移り行くもので、流行る音楽も、服も、はたまた生き方にまで時代の流れがあるが、それでも、動かし難い核となる価値観は存在しないのだろうか。理屈では説明できないが、誰もが共通に持つ感性があって欲しいのだが!

ここで、ある童話を思い出した。ある国では、誰もが逆立ちをして生活しているので、足で立つ人は「妙な存在」になる、というような筋だったと思う。もしも私が、今にも腰からズルリと落ちそうなズボンを履いた若者の中に紛れ込んだら、まさしく私は逆立ちをして歩く世界に飛び込んだような存在になるだろう。

えっ、何? 女性が胸の谷間をチラリと見せるのは男性共に歓迎されるのに、せっかく見せた男性の「谷間」を何故歓迎しないですって? ふむふむ。 そう言えば、チラリとでも見せると「恥ずかしい・だらしない」とされた女性の下着も、近頃は「見せる下着」などといって堂々と見せたりしている。

何が何やらわからなくなってきた。人々はこうして抵抗することに疲れ果て、やがて妥協をするようになるのだろう!

「美の謎」シリーズが終了した今、展示会の知らせを期待している方もいらっしゃるかと存じます。「自然の中に心を遊ばせて」の企画を終了した時点で開催した前回から、2年が経過しています。でも色々な理由から、現時点で展示会を開催するのは無理だと判断しました。

最大の理由は、もちろん経済的な要因です。新たに始めた木版館関連の企画で資金も時間も使い果たしていますし、次の企画を開始するまでの数か月は無収入になるので、都心で開催する余裕がないのです。この近くの画廊で開催することも考えましたが、収集家の方々(作品を見たく思っておられる方々も)の多くが、はるばる青梅まで足を運んでくださるかは、疑わしく思えます。

でも、皆様とお会いする機会ができました。今年の春に開催されるデザインフェスタという大祭典に、再び参加することに決めたからです。5月ですから、次回のニュースレターで詳しい内容をお伝えいたします。とても有意義な催しで、すでに安定した基盤を持つ美術家やデザイナーがいるかと思うと、美術の世界で自己を確立しようと意欲を燃やす、若くて新鮮な顔ぶれも混じっています。

木版館からの参加者たちを形容したら、どちらになるでしょうか?