最近はこんな事をする機会は減ってしまいましたが、私が東京で一日楽しく過ごしたいと思ったら、電車に乗って神保町へ行き、古本屋街で何時間もかけて版画店をじっくり見て回ります。ここ数年は、掘り出し物の版画を見付けられる店はめっきり減ってきていますが、まだ数件は残っているのです。そういった店のほとんどは、目抜き通りにある階段を上がった所など、一般の通行人には目立たない場所にあります。
そういった店に行けば、掘り出し物がいつも見つかるのでしょうか? 毎回という訳にはいきません。山積みの版画を端から端までめくっても、納得のいく版画が見つからないこともあります。でも根気よく探せば報われることが、しばしばあります。私の場合、そういった掘り出し物は、戦前に作られた版画という形で現れます。中でも私が気に入っているのは、アダチ・高見澤・悠々堂といった、一流の版元が昭和時代に出版した浮世絵の復刻です。
そういった版画を作った戦前の職人は、今では全て過去の人となり、その次の世代の人達も多くは一線を退いています。でも、数少ないとは言え、伝統の残る工房で技術を学んだ職人がいて、今回ご紹介するのは、貴重な時代と直接の結びつきを持つ希少な存在です。
彫師の朝香元晴氏は、私と同じ年の生まれで、現在は私と同じように彫りの仕事をしていますが、ここに至るまでの道は、まったくと言っても過言ではないほど私と違っています。私は版画制作に関わるまでに色々な分野に手を出してきましたが、朝香さんは在学中に彫刻刀を握り始めています。若い時から版画に興味を持っていたので、版画工房に見習いとして入る機会があった時に、決心して飛び込んだそうです。彼は、伝統的な形式で仕込まれた最後の世代になるのですが、ここで「機会」という言葉を使っていいのでしょうか? 朝香さんは、休憩などほんの少ししかない状態で毎日長時間作業をし(戦後の浮世絵ブームでした)、一日の仕事が終わるとアルバイトをしました。見習い期間は無給に近く、それが何年も続くのですから、家賃や食費を稼がなければならなかったのです。
当時の事を話すとき彼は、経済的な苦労ではなく、与えられた仕事や訓練を思い出すと言います。今から40年前にちょっとお腹が空いたまま布団に潜り込んだことなど、誰が覚えているでしょう。そんなことではなく、その後に仕事を続ける上で必要となる基礎を、その時代にしっかり身に付けたということです。この点も、私たちが大きく違うところです。私は独学で、自分で「解決策を導き」ながらやってきましたが、朝香さんは、伝統的な彫りの基本技術全てを学んできました。たとえば、葉の形は決まった一連の手順で彫るというように、基礎となるしっかりとした知識があります。ある言語を(厳格な教育を受けて)母国語として身に付けた人と、外国語として場面毎にバラバラに覚えた人との違いに似ています。朝香さんのような人は、版画の彫りを正しく「話す」ことができますが、これは、私には決してできないでしょう。
何年間か見習いをすると、朝香さんは所属工房の中心的存在のひとりになり、数えきれない程の版木に責任を持つようになりました。そこで何年も生産性のある仕事をした後、遂に独立します。以後はずっと個人の彫師として、摺師たちと協力した仕事などをするようになります。
以前は、版元が企画をして職人を雇うという伝統方式がありましたが、現代はこの図式がほぼ失われているので、個々人が「自己努力」をする時代になっています。朝香さんは、様々な方法で新環境に適応しています。数年前のことですが、アメリカで活躍している芸術家から、自分がデザインした絵の版画を作ってくれる工房を探して欲しいと頼まれました。そこで私は、朝香さんを紹介したのです。浮世絵を現代風にアレンジした作品でしたが、彼らの共同作業は実を結んで、出来上がった版画はまもなくカリフォルニアにあるギャラリーの壁面に飾られました。
朝香さんはまた、教室も開いています。趣味の版画であっても、初歩段階を越えた彫と摺を学びたいと希望する人達向けで、中にはかなり優秀な作品を制作している生徒さんもいます。
伝統木版画が将来どうなっていくかは、誰にも分かりません。朝香さんは教師として終わるのか、あるいは、目を見張るような作品をこれからもたくさん作っていくのか。たとえどのような方向に進むにせよ、朝香さんが彫った版木から作られた数えきれない程の版画が世界中の人々の手元にある、という事は動かし難い事実です。ひとりの彫師が受け継いできた内容は、本当に知る術もありませんが、それでも、とにかく実存するのです。
朝香さんは私とまったく同い年ですから、この先まだまだ何年も確実に生産的な活動をしていけます。私たちが航行するのは、地図にない水域のようなものです。そこをどのように進んでいくのか、今後の彼の活動が楽しみです!
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