デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
41号から最新号まで
1号から40号まで
Categories:
東京は夏です!版画制作にはあまりいい季節ではありませんが、今年のスケジュールはびっしりで余裕がありません。隔週毎に作品を発送するので、温度計の示す目盛がどうあろうと、仕事を継続するのみです!
今回の「百人一緒」は、内容が色々です。「収集家の紹介」と「デービッドの選抜き」、そして私のホームページに加わった新しいページの紹介。いつも通り「貞子のコーナー」もありますが、その前にまず、一緒に散歩に出ましょう!
(このニュースレター、今回は60号ですから、丸15年も継続していることになります!)
私の住まいは東京です。ほとんどの方は、ここがどんなところか知っているとお思いでしょう、でも、ほんとうにご存知でしょうか?ちょっと調べてみると、東京都の人口は1200万人に近づいていますから、私の住むところがどんなところかは、きっと想像できます... よね。
では、ある朝の散歩にご招待しましょう。リュックの中に飲み物とおやつ入れてカメラも忘れないようにして。では出発!
数分も歩けば、裏山への入り口に到着です。朝のうちは、あたりがひんやりしていますが、ちょっと歩き始めればすぐ暖かくなるでしょう。
私の家は海抜180メートル、これから行く裏山の高さは300メートルですから、山登りというほどの高さではありません。でも、ちょっと息切れがするくらい急な登りもあります。
このような道は、一般の人たちが通行できるように開放されていますが、どの土地もきっちり所有者が決まっています。ちょっと前の世代の人達は、このような場所も平地と同じくらい有効に利用していました。平でさえあればどんなところも開墾して作物を育てていましたしまた斜面には植林をしていたので、杉の木が列を作って整然と並んでいました。
今ではすっかり様変わりして、山の中の畑は随分以前から草ぼうぼう、植林された木もほぼ同じ状態です。あちらこちらには、間引きや枝落としといった手入れが、現在もなされている区画がありますが、ほとんどはかなりなさけない状態です。
ここで横切る秋川街道が、今回のハイキングで出会う唯一の幹線道路です。
安全に横断して再び森の中に入ったら、休憩時間にしましょう。
これから、都内ではあまり知られていない桃源郷ともいえる「大荷田」を見下ろす地区に入ります。このちょっとした谷間にある地域は、戦後の開発が中断したままになっています。聞く所によると、このあたりの木は、戦後の復興に必要な木材として、すっかり切り尽くされ、続いて住宅開発を進める計画があったのですが、東京への水資源との関連などで、うやむやになったままになっているようです。(この谷のすぐ下を流れる多摩川は、東京都の水源となっています)
そういった訳で、谷はそのまま残されています。木が切り取られたまま、不動産会社が周囲を囲っていました。それから50年以上が経過、この近くに住む村人たちが枝広いをしている御陰で、このあたりは、とても心地よく散歩のできる雑木林になりました。
薄暗い杉林であった以前とはまるで違います。
この谷間には、数件の農家が住み作物を育てていますが、ほとんどの所は手を入れること無く自然のままです(写真7)。この地域を所有している不動産会社が、将来どのような計画を持っているのかわかりませんが、ここ大荷田を貴重な里山として注目している市民環境保護団体がいくつかあるので、このまま保存される可能性があるかも知れません。
散歩を続けるために、再び尾根に戻って30分程歩くと、多摩川に向かって少しずつ下って行きます。ここまでくると、自動車道路が出現、もう文明の気配は避けられなくなります。
実際、避けるというよりも、ほら、向こうからやってきました、文明の利器です。このバスに乗って家に帰りましょう!(写真8)
さあ、家に着きました。出発してからちょうど4時間です。お昼ごはんを食べたら、版画制作に向かう前にちょっとお昼寝しましょう。デービッドの自宅近くの散歩、お楽しみ頂けましたか。
私の展示会に、ヘルメットをかぶってやってくる人はめったにいません。でも、今年の1月、お孫さんの璃音(りょうね)ちゃんと一緒にいらした大前ジャネットさんは、白い自転車用のヘルメットを手にしていたのです。ちょっと驚きました。ほとんどのお客さんたちは、電車や地下鉄に乗って来るのに、四谷の自宅から有楽町まで、自転車で来てくださったのです。実際、便利な乗り物ですから、娘が小さかった頃は私も、後に乗せてどれほどの距離を移動した事でしょう。
ジャネットさんと私の共通点は、この乗り物だけではありません。このように、彼女と私を取り替えても内容が通じてしまうような話は、まだあるのです。
まず横笛、予想していた通りご紹介することになりました。写真は、日本画家の石田和歌さんが画いた絵です。そう、ジャネットさんはかなり横笛に打ち込んでいるのです。彼女は、納得のいく師を求めて、かなり高度な技術を習得しました。今この話を書きながら、彼女が中国の琵琶奏者とデュエットしているCDを聞いていますが、とても素晴らしいのです。このCDをお返しする時には、もっと多くの人達が楽しめるよう、一般向けに販売するべきだと伝えるつもりです。日本の伝統木版画と同じように、横笛に興味のある人は世界中のいたるところにいると思うからです。
ジャネットさんの家には、とても広い居間があり、ちょっとしたコンサートを開けるほどです。実際、そのような目的でも使われるらしく、最近デンマークの音楽家たちと、ここで共演した時に録音したCDも聞かせていただきました。ヨーロッパでは、自宅で小演奏会を開くのは昔からよくあることなので、テレビやビデオなど電化が進んだ現代になっても、そういった習慣を維持し続けているのは喜ばしいことです。友人や家族が集まって一緒に演奏をする、しかもプロ級のレベルで。私のように、独り黙々と作業をする版画の分野では、とてもできないことです。(この2枚のCDを聞いて思ったのですが、「アットホーム」というレーベルを作って、彼女のCDを発売したらどんなものでしょうか!)
ジャネットさんは、私よりも以前に日本に来ています。彼女の子供たちは日本で育ち、現在は、私の娘たちと同様、独立して暮らしています。自分たちの経験してきたことについて、彼女と話し合うのは、とても興味深いことでした。私達のように、異文化の交錯する家庭を築く場合については、言語や教育に関する様々な意見があるなか、自分たちは最善の道を選んで来ただろうかという点です。彼女も私も、なんとか無事に成し遂げてきたのでは、と感じていますが、... 時の経過が答えを出す事でしょう!
最後に、とっておきの話をしましょう。少なくとも、私に取っては一番良いところなんですから!この記事を書くためにジャネットさんの家を訪ねると、大きくて素晴らしい木製のテーブルのあるダイニングに通されました。そこの席に着くと、1分と経たないうちに、入れたてのコーヒーとオーブンから出したばかりの熱々アップルクランブルを盛りつけたお皿が目の前に並べられたのです。「アットホーム」とは、正にこのことだと思いました!
ジャネットさんありがとう!私の版画活動を支えてくださっていることもそうですし、外国人にも日本の伝統文化を深く理解してそれを身につけることができる、ということを示す、もうひとりの存在であることもです。(でも、僕にはアップルクランブルが一番!)
今年の展示会で「デービッドの選抜き」に展示した中から、続けてふたつを選びました。
これも、私が感動のあまり言葉を失ってしまった作品です。着物の柄の目録で、おそらく、お客さんが柄を選べるように、製造業者から着物の販売店へ送られた冊子だと思います。当時の機械印刷は、まだ未発達な状態だったので、正確な色を示す必要のあるこのような見本は、作れなかったのです。でも木版画ならば、極めて精巧で緻密な表現ができるので、着物の柄に関する微妙な点までも表現ができました。
それにしても、このような本を作るためには、かなりの労力を要したことでしょう。何枚もの色版を彫らなくてはならない頁が多いし、この目録は広範囲に配られたでしょうから、どの頁もたくさん摺らなくてはならなかったはずです。ですから、私のような個人の工房では(たとえ彫師と摺師のふたりがいても)、このような冊子を生産することはできません。何組もの人達が共同で作業したのです。
こういった作業方法に関しては、ちょっと複雑な思いがあります。美しい作品をたくさん作ることのできる、このような集団のひとりとして働くことは、きっと楽しいことでしょう。素晴らしい冊子や版画が、こういった仕事場から次々と生まれてくるのですから。でも、その一方で、私ひとりの工房から作品を送り出す喜びも打ち消し難いのです。どの線も一つ残らず私の手で彫っている、どの色もすべて私の手で一枚一枚摺っている...
確実に、生産量は低くなりますが!
これは、「十竹斎書画譜」として知られている、16巻からなる木版画集の中にある一枚です。17世紀に中国で作られたもので、多色摺版画としては、世界で最も初期に作られた中のひとつです。
ある日、娘の富実と一緒に東京の神保町を見てまわっていると、一件の店の棚に、古い和紙がごちゃごちゃに入っている箱を見つけました。中を見ようと近くに引き寄せて、何枚かをひっくり返してみると、心臓が止まるかと思うようなときめきの瞬間があったのです。ほこりに隠れた宝探しです。
目にしている物が何かは、すぐに解りました。有名な「十竹斎書画譜」で、美術書に載っている写真でしか見た事がなく、実物を見るのは初めてでした。手にしている紙切れが、昔の中国で作られた版画ではなく、19世紀半ばに日本で作られた復刻版だということは、ほぼ間違い無いと判断できたので、百万ドルの発見とはいきませんでしたが、それでも、ゾクッとするほど珍しい代物だったのです。富実には、私の感動が理解できなかったので、箱ごと全部を買おうとすると、あまりいい顔をしませんでした。
でも、家に戻って、美術書にある資料を見せながら、「竹についての巻、石についての巻、...」というように、16巻がどのように構成されているかを説明すると、彼女は謎解きの方に興味を示しました。そして、猫を部屋から閉め出すと、部屋中に版画を広げて、頁の順序を復元し始めたのです。たいしたもので、どのページが重なるか、虫食いの穴まで観察しながら、何時間もかかって遂に順序を復元して見せました。
その結果、全体の約80パーセントがある、ということが判りました。箱の中に入っている紙の量から予想したよりは、ちょっと多めでした。きっといつの日か、きれいで完全な状態の版を手に入れることができるでしょうが、それまでは、これで十分!
「木版円卓」が開催されています。
私のインターネット上のホームページは、近頃とても重要になってきています。今から8年前にこれを立ち上げた時には、ごく付随的な存在でしたが、ここを通じて十分な情報を発信しつづけているため、成果が出てきているのです。現在のところ、私の作品の収集家は、半数以上がインターネットを通じて申し込んでいます。私の版画ビジネスは、世界規模で発展しているのです!そして、私のwoodblock.comというサイトにある内容はとても充実しているのに、まるで情報が不足しているかのように、新しい内容が追加されました。「木版円卓」です。
私の作品を収集家の方たちにお送りするようになって、もう何年も過ぎましたが、その間に次のようなことを何度も質問されました。「デービッドさんの作品を集めているのは、どんな人達ですか」とか、「この作品について、他の方がどんな風に思っているか知りたいですねえ...」。どうやら、集めている方たちの多くは、他の人がどう思っているかについて興味があり、知りたいと思っておられるらしいので、そんな方達が私の作品について感じたことや意見を交換できるように、「木版円卓」という場を作ったのです。
この場で話し合われる主だった内容は、私が版画を制作するための参考資料になるとも考えています。この円卓には「デービッド、今回はすごくいいじゃないか、嬉しいよ!」などといった類いの意見を述べてもらうためではありません。もちろんこのような投稿は嬉しいのですが、他の人達にとってはあまり面白いはずがないのです。いつも、私が作品をエッセイと一緒に送るたびに必ず、収集家の方から色々なメールを頂戴します。それは、作品や私が書いた内容に関して、希望を述べていることもあれば、何かを伝えてくださることもあり、間違えを指摘して下さることもあれば、質問であったりもします。ですから、意味のある議論をしたり情報を交換したりする下地はすでに十分あると思います。
そんな訳で、作品をお送りする都度、その画像とエッセイをこの木版円卓に掲載することによって、単に私宛に感想を伝えるのではなく、互いに思いついた事など意見を交換し合う場を提供するのです。(たまたまここを訪れた人がその内容を読むかもしれません)
では、円卓で「お会い」しましょう!
「版画漫画」はいかがですか?
日本の漫画は、世界で有名ですね。そこで、版画の作り方を漫画を使って説明してみたら面白いかと思ったのです。
私に絵が描けるはずはないですよね。でも、制作の行程を示す写真とマッキントッシュ向けの漫画制作ソフトを使えば、面白くて役に立つ話が作れるのです。
私が子育てに忙しかった頃、様々な教育論がちまたにあふれていた。ベビーブーマーが子育てを始める時期であったことも大きな要因だったのだろう。そんな社会の風潮を横目に見ながら、私が最も不本意に感じたのは、百人百様の子供達を十束ひとからげに論じられる時であった。お尻をたたかなくてはどうにもならないときもあるかもしれないし、とことん根気よく言って聞かせることが功を奏することもあるはず。同じ子供だって、時々の精神状態によって対応の仕方は変化するのではないだろうか。感情的になって叱るのはいけない、というのは当然とはいえ、親の怒りや弱さをストレートに出しても良い時だってあるんじゃないだろうか。私はそう思っていた。だから私は、傍から見れば一貫性のない母親だったかもしれない。
一方デービッドの方はどうだろうか。子供達が小さかった頃のことは彼に聞くしかないが、私が見るところでは、子供を大事にする子煩悩な父親だった。いつも、まるで友達同士のように話をする様子を良く見た。ひとつだけ、彼が徹底していることは、だだをこねれば首を縦にふる父親では決してないということ。つまり、パパがNOと言えば取り付く島なしと教育したらしい。優しさの中にちょっぴりの厳しさありといったところだろうか。
彼も私も、双方共に子供達は無事成人し、人並みの社会人に育った(ちつつある)のは、子育て云々よりも、ひょっとすると、ひとえに子供達自身がしっかりしていたからかもしれない。過ぎてみれば、「親はなくとも子は育つ」という格言が目の前を去来する。
ともあれ子育てを終え、さて己の後半生を生きる段階になってくると、私はよりいっそう、題に掲げたふたつの言葉の中で揺れ動くようになった。長く生きていると、ある事柄を裏側から見ることも幾分できるようになったこともあるが、社会における道徳感や価値判断が、大きく揺れ動く時代に生きているからでもある。伸びやかに振る舞える良い時代に生きていると思う反面、凛とした筋金を通さないと、限りなく優柔不断になりそうで怖くなる時代に生きていると感じる。ということは、ともすると、頑固になりがちということか。
さて、そんなことを話題にしていると、デービッドがこんな事を言い出した。「あのさあ、僕が年をとってさ、意味もなく頑固になって見苦しくなったらさ、教えてよね。」
困ったなあ、今だって、取り付く島のないほど頑固なところがあるんだから...。まてよ、その頃にはこっちの頭も固くなっているだろうから、... 固くなった頭で頑固者に... やっぱり無理だわ!