デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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柔軟性と一貫性

私が子育てに忙しかった頃、様々な教育論がちまたにあふれていた。ベビーブーマーが子育てを始める時期であったことも大きな要因だったのだろう。そんな社会の風潮を横目に見ながら、私が最も不本意に感じたのは、百人百様の子供達を十束ひとからげに論じられる時であった。お尻をたたかなくてはどうにもならないときもあるかもしれないし、とことん根気よく言って聞かせることが功を奏することもあるはず。同じ子供だって、時々の精神状態によって対応の仕方は変化するのではないだろうか。感情的になって叱るのはいけない、というのは当然とはいえ、親の怒りや弱さをストレートに出しても良い時だってあるんじゃないだろうか。私はそう思っていた。だから私は、傍から見れば一貫性のない母親だったかもしれない。

一方デービッドの方はどうだろうか。子供達が小さかった頃のことは彼に聞くしかないが、私が見るところでは、子供を大事にする子煩悩な父親だった。いつも、まるで友達同士のように話をする様子を良く見た。ひとつだけ、彼が徹底していることは、だだをこねれば首を縦にふる父親では決してないということ。つまり、パパがNOと言えば取り付く島なしと教育したらしい。優しさの中にちょっぴりの厳しさありといったところだろうか。

彼も私も、双方共に子供達は無事成人し、人並みの社会人に育った(ちつつある)のは、子育て云々よりも、ひょっとすると、ひとえに子供達自身がしっかりしていたからかもしれない。過ぎてみれば、「親はなくとも子は育つ」という格言が目の前を去来する。

ともあれ子育てを終え、さて己の後半生を生きる段階になってくると、私はよりいっそう、題に掲げたふたつの言葉の中で揺れ動くようになった。長く生きていると、ある事柄を裏側から見ることも幾分できるようになったこともあるが、社会における道徳感や価値判断が、大きく揺れ動く時代に生きているからでもある。伸びやかに振る舞える良い時代に生きていると思う反面、凛とした筋金を通さないと、限りなく優柔不断になりそうで怖くなる時代に生きていると感じる。ということは、ともすると、頑固になりがちということか。

さて、そんなことを話題にしていると、デービッドがこんな事を言い出した。「あのさあ、僕が年をとってさ、意味もなく頑固になって見苦しくなったらさ、教えてよね。」

困ったなあ、今だって、取り付く島のないほど頑固なところがあるんだから...。まてよ、その頃にはこっちの頭も固くなっているだろうから、... 固くなった頭で頑固者に... やっぱり無理だわ!

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