デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 2004

今まで右側にあった丸の列はもうなくなり、代わりに楕円が一番下にあります。表紙のページは、レイアウトの創造性に欠けているのですが、もっと良い案が浮かばないのですよ!

版画をしようと日本にやってくる以前は、それで生活して行けるのかどうか、まるで見通しが立ちませんでした。まだカナダにいる時に、実験的に試してみたところでは惨澹たる結果でしたし、私の計画について話をすれば、「今の仕事を続けなさい」というのがたいていの反応でした。それが、とにかくここまでやってきたのですから、伝統木版画で生活していけるというのは確かな事実です。でも、どの程度の生活ができるものなのか。もしも私が、いまだに傍観者としての立場を取り続けていたとしたら、とても気になるはずです。それで今回は、私の版画に支払われたお金がどのように動いて行くのかを書いたら面白いだろうと思い、話のなかに入れてみました。即座にだって言えるんですよ、浪費される部分はほとんどありません!

その他の内容は、ほとんどいつも通りです。「ハリファックスから羽村へ」、「貞子のコーナー」、「エッセイコーナー」です。どなたにも楽しんでいただけると思いますが...。

ハリファックスから羽村へ

「ハリファックスから羽村へ」シリーズのこの時点で、デービッドは34歳になっていました。(お気づきかと思いますが、このシリーズを始めてから10年以上が経ちました...信じられません!)34歳、妻と子どもひとり...おっと、子どもはふたりでした。ふたりめの娘、富実がこの年の春に生まれていました。私が工芸品祭りで版画の展示をやっていた年です。表面上、物事はうまくいっていました。そして筋書き通りにいけば、私は今頃バンクーバーにいて、おそらくは音楽店の経営にかかわり、緑豊かな郊外の素敵な家に住み、ふたりの娘はそこの大学に通っていて、私は趣味として木版画をつくる、というような生活を営んでいたことでしょう。


With friend Terry ...

しかし、私の心の中には迷いが生じていました。どちらの道を進むべきだろうかーこの仕事を続けるか、木版画の夢にかけてみるか。様々なことが浮かんできて、私のなかでごちゃごちゃになっていました。様々なことというのは...

私たちの小さな心地よい家を出なければならなくなりました。2階に住む家主さんは話のわかる人で、もともと独身として入居した私が、ひとりまたひとりと入居人の数をふやしていく間も黙っていてくれたのですが、ついに「一ヵ月後に明渡しをお願いします」という通知を出され、私は文句を言えませんでした。

娘達と彼女らの母親との間でうまくない事態が生じてきていました。子どもがひとりの時は、すべて順調だったのですが、ふたりめが生まれると、事態は急変したのです。下の子が生まれた時の上の子によくある話ですが、日実もぐずぐず言って困らせるようになり、彼女の母親はそれにうまく対処することができませんでした。仕事が終わって家に帰ると、部屋の中は涙とストレスでいっぱいの状態、ということがしばしばでした。「もうがまんできないわ。あなたが日実の世話をしてよ!」時には、「帰ってきて手伝って」という電話が職場にかかってくることもありました。

ここで、男女のそれぞれがどういう責任を担うべきかということについて議論するつもりはありません。次のような考えが浮かんできた背景について言いたかっただけなのです。もし私が毎朝家を出ることなく生計をたてることができたなら、私たちの生活はもっと快適なものになるのではないだろうか...

もうひとつ考えなければならなかったのは、彼女の両親のことでした。彼女は、両親にとって遅く生まれた子供で、その当時には彼らはもう70代後半になっていました。まだ畑仕事をしたりしていましたが、もう長くは続けられないだろう、というのは明らかでした。私たちは、2ヶ月毎にいくばくかのお金を送っていましたが、この先彼らにどういうことが起こるかは不確定な状態でした。

これらの糸がからみあって、新しい絵を描きはじめました。私が音楽店の仕事を離れ、家族の持ち物を倉庫に入れ、日本へ行って「しばらくの間」暮らす。最低限の生活費は、自宅で英語を教えることで稼げるだろう、それでいろいろなことがうまくいきそうな気がしました。私は子どもたちと過ごす時間をもっと持つことができる。私の版画の技量を高めるための情報も得やすい。彼女は、子どもたちに日本語と日本の文化を身につけさせるための幸先よいスタートをきることができる。それらは、ある時機を逃すとなかなか後から身につけるのは困難だったりするものですから。そして彼女の両親にも近くなる。

この計画の主な欠点は、彼女がカナダでの英語の勉強を一時ストップしなければならない、ということでした。しかし、当面、彼女の一番大事な仕事は、子どもたちのよい母親であることでした。子どもを持つ、という人生を選択したのは彼女です。彼女は本当に子どもをほしがっていました。ですから、子どもの世話、というのが何よりも優先されなければならなかったのです。

人生における決定をくだす時、それが大きなものであれ、小さなものであれ、3つの段階があります。まず、どんな道を選びうるか考えます。これは簡単ですから誰でもできます。次に、それをよく考えた後で、ある時点で、自分の選ぶ道を決めなければなりません。しかし、それで十分ではない。ある夜決めた決定が、次の朝には全然いい考えとは思えなくなっていたりするのですから...最終段階へ進み、実行しなくてはいけません。

その春のある日、私は音楽店の社長に言いました。今度こそ最後です。仕事をやめたい、と。彼はわかってくれ、おたがい、最後の日をいつにすれば都合がいいかを話し合い、数ヶ月先の日を決めました。私は旅行会社に電話をして成田行きの飛行機の切符を予約したり、今のアパートを出てからカナダを離れる日まで一時的に住むためのアパートの手配をしたりしました。それからバンクーバーの日本領事館へ行き、文化交流のためのビザを申請しました。旅行者が日本に滞在できるのは3ヶ月ですが、これがあればそれ以上の期間滞在することができるわけです。

私たちは大きな一歩を踏み出そうとしていました...

というわけで、この話も終わりに近づいたようです。しかし、「ハリファックスから羽村へ」なのですから、次の号では、最後の「数キロメートル」と日本での生活の始まりについて書こうと思っています。ついに、「次号に続く...」のかわりに、こう言う時がきました...

土井利一様

摺物アルバムを集めていらっしゃる読者の方達に、ちょっとしたクイズがあります。この下に、木版で作られた千社札が印刷してありますが、同じものを御覧になったことがありませんか?

満点の解答は、次のようになります。数年前の、摺物アルバム第3集にある扇の形をした版画に使われていました。この版画のデザインには、武蔵野市にお住まいの土井利一様が所有する千社札を使わせていただいたのです。土井さんは、明治時代の版画をたくさん集められているので、その貴重な作品の中から宝さがしでもするように、必要な作品を選ばせていただきました。

この件について彼にお願いをすると、それこそとても気持ち良く承諾してくださいました。マニアなら誰でもそうでしょうが、互いの楽しみを分かち合う楽しさがあるからです。この夏のある日、土井さんは版画の入った大きな袋を提げて私のところに遊びにみえました。そして、そうなんです、私達の話にはどんどん花が咲き、帰られたのは終電ぎりぎりでした。

このような版画を、一枚ずつたくさん見て行くと、時としてやっかいな事が起こります。二人とも話したい事が山ほどあるからです。私は制作者の立場から「ドウサがちょっと弱いですねえ。そうかぁ、桜の花が自然に見えるように、輪郭をぼかすためなんですねえ。」一方、土井さんは長年培った蒐集家の肥えた目で、「こちらの方は、ちょうちんに書かれている名前が違うでしょう?戦前に作られた初版の方は、色合いがずうっとまろやかですよね。」などと、版画の出所や背後にある事情について語ります。こうして私達は、お互いの持つ情報を交わしたりして、色付きの紙を前に時の過ぎるのも忘れて、双方の鑑識眼に感動し合いました。

土井さんは、20世紀の「新版画」を研究する国際的なインターネットグループのメンバーです。この会では、版画がどのように作られたかについての謎を詳細に解明し、その結果報告を書いて仲間達に公開します。私は、彼が落款の位置について、6ミリタイプか7ミリタイプかなどということにこだわっていたりすると、破顔一笑します。でも、そんな話の中からとても役立つ情報を教えてもらい、形勢が逆転して自分の方が笑われてしまうことが何度もありました。今回もその例にもれず、今から50年前に、当時の職人が版画を制作する様子を映像に収めた、とても貴重なビデオを頂戴したのです。これは私にとって、非常に参考となる内容でした。彼とその仲間達にとっても、版画史の埋蔵された山のようなもので、どんどん掘り進めて行って欲しいと思います。無駄になる知識など、ないのですから!

土井さんは、古い版画を購入するという、受け身の蒐集だけをしているのではありません。新しい版画を創り出すことにも力を入れています。職人に依頼して、現代の千社札を実際に作ってもらう会のメンバーであり、また個人的に特別注文をすることもあります。こうして、少しでも長く版画職人達が生活していけるための、助けとなっているのです。

ほぼ私と同じ世代の彼は、そろそろ定年について考える時期にきています。(30年来、大手醸造会社<ビール会社>の多角化部門に勤務されていて、その間に海外での生活も長く経験なさっています。)情熱を注げる趣味のある人は誰もそうですが、彼の場合も、定年後の活動課題は有り余る程あります。彼のコレクションについての情報を公開することはもちろんですが、私が興味深く思っているのは、彼が作成している、20世紀の彫師や摺師についての膨大な資料です。私としては、そういった職人について学べば学ぶほど身に付くのですから!

土井さんの定年後は、間違いなく実り多い日々となることでしょう。私がその時を迎えたのは、もう20年も前のことになります。土井さん、人生の最高潮がやってきますね!

僕は億万長者! ... (違う!)

このニュースレターの準備を始めた今、新シリーズ「四季の美人」の1枚目は、やっと収集家の皆様の元に送られている頃です。この新シリーズを計画する時には、きちんとした予算を立てるために、過去2つのシリーズにおける経費や収入がどうであったかを示す記録を調べる必要がありました。以前なら、およそ不可能な事だったのですが、昨年に自分で新式簿記を開発したお陰で、とても簡単にできるようになっています。

こうして、数値自体は難無く引き出せるようになったのですが、他の数値までも見えてしまい、興味深さを通り越してショックを受けてしまいました。

百人一首シリーズは1989年に開始し、私達家族の友人でもあるパン屋の長さん夫妻が最初のお客様でした。あれから15年も過ぎましたが、このシリーズは現在もお客さま達にお送りしています。でも、一体どれくらいの数を発送したのかを計算する機会は、今までなかったのです。そこで調べてみると、10枚ひと組のセットが計 1,110 組、計 11,100 枚の版画が収集家の元に送られています。1枚は、どれもきっかり1万円ですから、総額 111,000,000 円です。最初にこの数字をはじき出した時には、ゼロを付け過ぎたのかと思い計算をし直したのですが、やはりこの通りでした。

摺物シリーズについても同じく計算すると、10枚ひと組のセットが計 539 組発送されています。ということは、1枚6千円の作品が 5,390 枚ですから、総額 32,340,000円です。

これらを統べて合わせると、... 過去15年間に 16,490 枚の版画を発送し、 143,340,000 円を得たことになります。なんという数値でしょう、私は億万長者です!

ところが、誰もが知っているように、経理の「総収入」と「純利益」の間には大きな違いがあります。当然の事ですが、15年のあいだ営業活動を続けるためには、たくさんの費用が掛かりました。一体私には、どのくらいの実収入があったのでしょう。伝統木版画の制作はお金になる仕事なのでしょうか、それとも、私はかろうじて切り抜けている状態なのでしょうか。お客様達が私の作品を集める理由は、ずいぶんと様々なようです。私が切実に助けを必要としているので活動を支える一員になろうと考える方、私がちょっとばかり有名で成功しているから集めようと思う方、また、こういった事には一切関係なく単に作品が好きだからという方もいらっしゃいます。これから出てくる数値を御覧になれば、どのような理由をお持ちの方でもきっと満足してくださるでしょう!

ここに3種類の表やグラフがあります。この表は、過去15年間における私の事業の収支全体を記す「総括」です。

必要経費を取り除いた残りの収入は、ここ数年かなり安定していて、年間5百万円前後です。とはいっても、この段階ではまだ実収入といって、手取り金額ではありません。税金や健康保険料などの非消費支出を更に取り除いてやっと、自由に使える金額です。

この額を12で割ると、月々の収入となる140,000円に到達します。この中から、食費・衣料費(ほとんどなし!)・新聞書籍費・旅行費用などを捻出するわけです。

3本ひと組で表わしている棒グラフは、各々、「総収入」「必要経費」「純利益」の数値を示しています。こうしてグラフを一覧すると、この間にあった多くの重大事がありありと見えてびっくりします。

  • 最初の2年間は、ほとんど無収入。この時は、まだ英語を教えていたので、お米を買う事ができました。
  • 1991年には、英語教室を閉鎖。続く3年間は、経済的に非常に苦しい状態でした。
  • 1994年には、総収入が急激に伸びています。これは、百人一首シリーズが半分完成した時点での展示会で成功を収めたからです。これを機に、3度の食事に窮するような危機は去りました。
  • 1999年の突出は、御存知の通り、百人一首シリーズの完成展示会です。メディアからの注目は大変なものでした。
  • 2003年のスランプは、年に10枚というノルマを達成できないしわ寄せが来ているためです。ここ数年は、非常に細密で時間の掛かる摺物アルバムを制作しているのに加えて、百人一首シリーズの追い摺をしているために、仕事の量が多すぎるのです。
  • 1995年から現在までの、必要経費を取り除いた私の収入は、急上昇をしてドスンと降下したことはありましたが、4〜5百万円と安定しています。

数頁前の「ハリファックスから羽村へ」では、自分の版画の技量を高めるために日本に行って、「やるぞ」と最終決断をする過程を説明しています。もしも、あの時点でこのような数表を見ていたら、どんな反応をしていたでしょうか。時にはとても厳しい状況に置かれる、という事が見えて、ちょっと怖じけたかも知れませんが、全体としては元気付けられることになったと思います。なぜなら、「こういった仕事に関心を示してくれる人、それも、進んで版画を購入するほどの人達を見つけられるだろうか?」という核心への疑問には(あの時点では、この問に対する答はまったく見当がつかなかったので)、疑う余地なく「Yes」と解答されているからです。16,490回の答えがあり... 数は増え続けています。

ですから、これらの数字は、好きなように読み取ってくださって良いのです。頂点にある数字を見る限り、かなり成功していると言えるでしょうが、末端にある数値を見れば細々とした状態であることが判明します。今年は特に、ちょっと複雑な状況にあります。新シリーズを開始したばかりで収集家の数はかなり減り、まだこの真価が未知数なため、過去の百人一首シリーズと摺物アルバムからの収入で、かろうじて沈没せずに漂っているという、移行期間だからです。

私はお金持ちですか?そんな風に思う人はいませんよね。なんとかやっている?そうですとも!自分の持家で食べる物に困らずに暮らしています。何かをして生計を立てるというのならば、ここが基準となる指標ですから!

ところで、来年は?どちらに動くかは未知の世界 ... 上向きかもしれませんし、下降線を辿るかもしれません。だからといって、それを苦にするなどということは決してないでしょう。私がそんなタイプの人間なら、そもそも他国でこういった事をしているはずはないでしょうからね!

ホタル

今年の春はとても不安定な気候でした。気温の上下動が大きく、全体的には寒かったようです。ホタルは、ちょっとした周囲の環境変化にも影響を受けやすい、繁殖の難しい生き物だと聞いています。温度が不十分なために、数が少ないかもしれません。

でも、それは取り越し苦労でした。温度の変化には敏感でも、それが逆に作用したかのようです。きっと寒い春こそが彼らの望むところなのでしょう。今年はたくさん飛び交っているんですから!

青梅の新居に移って、もう3年以上が過ぎましたから、ホタルの習性については多少わかってきて、どのような時に見に行くかがほぼ決まってきています。夜8時頃になると、外階段を降りていき、裸足でそおっと歩いていきます。川岸に積み上げられた古い石垣の上は、流れに沿った草むらになっているので、その一部をかき分けて陣取りをします。ここまでくれば、私がちょっとくらい音を立てようが姿勢を変えようが、ホタルは一向に感知しないようです。ところが辺りには、私の動きに反応を示す生き物のいる事がわかってきたのです!

何もせずにじいっとしています。静かに座ったまま観察をし、待ち続けます。ホタルは、漂うように優雅な舞いを披露しながら川をさかのぼったり下ったり、近付いては離れていきます。一匹も見えない瞬間があれば、数匹見える時もあり、また次の瞬間には数十匹が視界に入ってくる。10分程すると、目が薄暗がりに慣れてきて、周囲の様子がつかめるようになってきます。川の対岸までは7メートルくらいあるのですが、こちら側に比べると、もっと開けているので、夜行性の動物達が移動をする主要道路になっています。

一番よく見かける動物はタヌキです。彼らは、こっそり動くなどということは更々なく、くだんの主要道路をドスドス疾走していきます。荒っぽく草むらを駆け抜けて来る音は、はるか遠くの方からも聞こえてきます。どうやら、私の家から30メートル程下流にある、川岸の茂みに巣を作っているカップルのようで、陽が沈んでまもなくすると、2匹がこちらに向かってくるのを良く見かけます。彼らはこっそりとは動き回らないと書きましたが、私がうっかり音を立ててしまうと、数秒もしないうちにさっと姿を消してしまいます。

私はここに座っていて、人間の視覚というのは薄暗がりの中で歪みを起こすことがある、という発見をしました。先日のことです、かすかに白い動物がそおっと歩いてきて、その動きはまるで猫のようでした。でもこの辺りで見かける猫にしては大きすぎるのです ... 一体何なのだろう?このちょっとしたミステリーは、それから数分後に解決することになりました。川の反対側に住んでいる人が家から出て来て、ほんの短いあいだ土手の上に立つと、背景となる暗い空に彼の輪郭が写し出されたのです。すごい大男で、ホラー映画に出てくる怪物のようでした。その時にはたと納得しました。歪んだ大きさに見えてしまったのは、微かな光の下で物を見ていたので目が錯角を起こしていたからです。私は、彼がそんなに背の高くない事を知っていましたが、とにかく物凄く大きく見えたのです。ですから、さきほどのかすかに白い動物は、こっそり静かに歩いていた猫だったのに違いありません。こんな事があって以来、夜ここで物を見る時には、自分の目を信用しないようになりました。昔の人達が、森から帰ってきて、そこで見た生き物について大げさな話をする様子がありありと浮かんできます。「ほんとうなんだよ、どでかいヤツだったんだから!」

さきほど、反対側に住んでいる人がほんの短い間だけ立っていた話を書きましたが、これは、この辺りで見かける行動の典型でもあります。たいていの場合、筋書きはこのようになります。——私の家と同じ並びにある1件のドアーが開き、人の足音が聞こえる。数秒すると、家の中に向かって「見えないよ〜」と言う声が聞こえ、ドアーの閉まる音がそれに続く。——こんな事があると、私は「数分くらい待ってごらんよ〜 ... ホタルは出たり消えたりするんだから ... たくさんいるよ〜!」と叫びたくなります。もちろん実際には何も言いませんがね。近所の誰かが、川べりまで降りて来て腰を下ろし「闇の中で何が起こっているのか」をじっと観察する姿など、一度も見かけたことがありません。

ホタルにしてみれば、私達が彼らのダンスを見ていようがいまいが、まるで関係のないことです。たったひとつに心を集中しているのですから。つまり、パートナーになりそうなホタルの注意を引かなくっちゃならないんです!うまく行ってくれるといいなあ... そうすれば、来年たくさん見られるから!

蓼喰う虫...

デービッドがお客さま達に向けて書く英文は、摺物シリーズが始まった頃から、ほとんどが私の担当となっている。彼の書いた原文がメールの添付書類で送られてくると、まずそれを読む。その段階で私から様々な質問が出るのだが、私の力不足から来る疑問もあれば論旨の不明瞭さから来る不可解な点である場合もある。だから、彼が原文に手を入れて修正案が再び送られて来たりもする。

やっと訳文ができ上がると、その日本文をデービッドが1字1句音読をする。今度は彼の方から質問が浴びせられ、細かな点まで納得しないと先に読み進んでくれない。この作業は双方に取って魂の入る作業、おまけに、ひとつの文から話が展開して本文そっちのけで話を楽しんでしまうことがしょっちゅうであるから、非常に時間がかかる。どうなりこうなり読み終えてから、原文に修正が入る事もあり、私は家に戻って仕上げの作業をすることになる。

こんな手伝いをしていて実感することだが、1を書くときにはその事を何十倍も知っていなくては満足な内容にならないということである。これは、物を教える教師にもあてはまることで、かつかつの知識で教壇に立てばすぐに学生になめられるのと同じである。デービッドは版画に関してよく勉強していて、たいていの場合は、書きたい事のほんのひと欠けを限られた字数に託す。時としては、そこの難しさが原因で文が分かりにくくなったりするのだが、ずぶの素人である私が目を通せば、そんな箇所はすぐに指摘できる。

だが、だがである、今回ばかりは勝手が違っていた。何しろ新シリーズの題材が美人である。彼の書く原文の美人に関する箇所に来ると、どうもいけない。あまりこのテーマに関して真剣に取り組んだことのない事は見え見えであった。そんなことを考えながら訳をしていれば当然、私自身も美人に関して考えてしまう。そう、一体美人って何だろう?

子供の頃、ミス日本とかなんとか、私の周囲の女連中は良くそんな事を話題にした。大人の中に挟まって「美人ってなんなのかなあ」と思いながら、菓子を食べたりお茶をすすったりしていた。大人の仲間入りをしたくて、自分がこれと思う人を示しながら「ねえ、この人って美人だよね〜!」と切り出してみると、「だめよ、それはオカチメンコ!」などと一蹴される。私はさらなる混乱に陥るばかりだった。さらに悪い事に、ある日父がこんな事を教えてくれた。「ファニーフェースって知ってるかい?おかしな顔っていうんだよ。美人じゃなくても、もてはやされる時代になったなぁ。」私の思う美人がファニーフェースとやらであるという。こりゃあ困った。真剣になって、テレビや雑誌にある「顔」を見たが、子供の私には、大人の言う美の基準が、どうしてもつかめなかった。

やがて中学生になり、歴史の授業で吉祥天について学んだ時、クラスの連中は教科書に載っている写真を見てドッと笑った。20世紀に生きる若者達には、これが美の女神とはどうしても不可解だったのだろ。ほっぺがふっくらしていて、限り無く穏やかな顔をしている。私は複雑な思いだった。そして授業が終わると、思いがけない事が起きた。「や〜い吉祥天〜!」と男の子たちが私をからかいだしたのだ。そう、当時の私は下膨れのぽっちゃり顔だった。「あ〜ぁ、生まれて来るのが遅かった」と悲しくなった。今なら、すかさずやり返す事ができるのに。

時が過ぎ、国際化が進んでくると、国内だけの基準では測り切れない色々な顔に出会うのが日常になってきた。まったくもっての混乱である。しかも私の場合は、その種が身近にいる。非常に稀なことだが、デービッドがこうつぶやくことがある。"She is beautiful!" 私は「どこどこ?どの人?」とキョロキョロする。彼の示す先を見ると、思いがけない人物の顔がそこにある。そして、フ〜ムと唸った後、いつも私はこう思うのである「蓼喰う虫」。これだから世の中うまくいくのだ。みんなが違う顔や性格を好きになればそれだけ、世の中の流れはスムーズになるもの。

どんな顔が美人か、近ごろ私はそんな事などどうでも良くなってきた。だが、顔に関してはっきり意識するようになった点がひとつある。それは、好ましい顔である。国籍がどうあれ人種がどうあれ、男性だろうが女性だろうが、これだけは敏感に感じるようになった。日々の生活が作り出す皺やシミは、その人の年輪のようなもの。ツルンとした若者の顔にはない、深みと奥行きを感じさせる。私は、そんな顔に出会うと嬉しくなり、元気付けられる。そして、私も自信の持てる顔を育ててゆかねばと思う。

さてさて、デービッドの今のプロジェクトは「四季の美人」。皆様、御覚悟あれ〜!