「ハリファックスから羽村へ」シリーズのこの時点で、デービッドは34歳になっていました。(お気づきかと思いますが、このシリーズを始めてから10年以上が経ちました...信じられません!)34歳、妻と子どもひとり...おっと、子どもはふたりでした。ふたりめの娘、富実がこの年の春に生まれていました。私が工芸品祭りで版画の展示をやっていた年です。表面上、物事はうまくいっていました。そして筋書き通りにいけば、私は今頃バンクーバーにいて、おそらくは音楽店の経営にかかわり、緑豊かな郊外の素敵な家に住み、ふたりの娘はそこの大学に通っていて、私は趣味として木版画をつくる、というような生活を営んでいたことでしょう。
しかし、私の心の中には迷いが生じていました。どちらの道を進むべきだろうかーこの仕事を続けるか、木版画の夢にかけてみるか。様々なことが浮かんできて、私のなかでごちゃごちゃになっていました。様々なことというのは...
私たちの小さな心地よい家を出なければならなくなりました。2階に住む家主さんは話のわかる人で、もともと独身として入居した私が、ひとりまたひとりと入居人の数をふやしていく間も黙っていてくれたのですが、ついに「一ヵ月後に明渡しをお願いします」という通知を出され、私は文句を言えませんでした。
娘達と彼女らの母親との間でうまくない事態が生じてきていました。子どもがひとりの時は、すべて順調だったのですが、ふたりめが生まれると、事態は急変したのです。下の子が生まれた時の上の子によくある話ですが、日実もぐずぐず言って困らせるようになり、彼女の母親はそれにうまく対処することができませんでした。仕事が終わって家に帰ると、部屋の中は涙とストレスでいっぱいの状態、ということがしばしばでした。「もうがまんできないわ。あなたが日実の世話をしてよ!」時には、「帰ってきて手伝って」という電話が職場にかかってくることもありました。
ここで、男女のそれぞれがどういう責任を担うべきかということについて議論するつもりはありません。次のような考えが浮かんできた背景について言いたかっただけなのです。もし私が毎朝家を出ることなく生計をたてることができたなら、私たちの生活はもっと快適なものになるのではないだろうか...
もうひとつ考えなければならなかったのは、彼女の両親のことでした。彼女は、両親にとって遅く生まれた子供で、その当時には彼らはもう70代後半になっていました。まだ畑仕事をしたりしていましたが、もう長くは続けられないだろう、というのは明らかでした。私たちは、2ヶ月毎にいくばくかのお金を送っていましたが、この先彼らにどういうことが起こるかは不確定な状態でした。
これらの糸がからみあって、新しい絵を描きはじめました。私が音楽店の仕事を離れ、家族の持ち物を倉庫に入れ、日本へ行って「しばらくの間」暮らす。最低限の生活費は、自宅で英語を教えることで稼げるだろう、それでいろいろなことがうまくいきそうな気がしました。私は子どもたちと過ごす時間をもっと持つことができる。私の版画の技量を高めるための情報も得やすい。彼女は、子どもたちに日本語と日本の文化を身につけさせるための幸先よいスタートをきることができる。それらは、ある時機を逃すとなかなか後から身につけるのは困難だったりするものですから。そして彼女の両親にも近くなる。
この計画の主な欠点は、彼女がカナダでの英語の勉強を一時ストップしなければならない、ということでした。しかし、当面、彼女の一番大事な仕事は、子どもたちのよい母親であることでした。子どもを持つ、という人生を選択したのは彼女です。彼女は本当に子どもをほしがっていました。ですから、子どもの世話、というのが何よりも優先されなければならなかったのです。
人生における決定をくだす時、それが大きなものであれ、小さなものであれ、3つの段階があります。まず、どんな道を選びうるか考えます。これは簡単ですから誰でもできます。次に、それをよく考えた後で、ある時点で、自分の選ぶ道を決めなければなりません。しかし、それで十分ではない。ある夜決めた決定が、次の朝には全然いい考えとは思えなくなっていたりするのですから...最終段階へ進み、実行しなくてはいけません。
その春のある日、私は音楽店の社長に言いました。今度こそ最後です。仕事をやめたい、と。彼はわかってくれ、おたがい、最後の日をいつにすれば都合がいいかを話し合い、数ヶ月先の日を決めました。私は旅行会社に電話をして成田行きの飛行機の切符を予約したり、今のアパートを出てからカナダを離れる日まで一時的に住むためのアパートの手配をしたりしました。それからバンクーバーの日本領事館へ行き、文化交流のためのビザを申請しました。旅行者が日本に滞在できるのは3ヶ月ですが、これがあればそれ以上の期間滞在することができるわけです。
私たちは大きな一歩を踏み出そうとしていました...
というわけで、この話も終わりに近づいたようです。しかし、「ハリファックスから羽村へ」なのですから、次の号では、最後の「数キロメートル」と日本での生活の始まりについて書こうと思っています。ついに、「次号に続く...」のかわりに、こう言う時がきました...
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