デービッドがお客さま達に向けて書く英文は、摺物シリーズが始まった頃から、ほとんどが私の担当となっている。彼の書いた原文がメールの添付書類で送られてくると、まずそれを読む。その段階で私から様々な質問が出るのだが、私の力不足から来る疑問もあれば論旨の不明瞭さから来る不可解な点である場合もある。だから、彼が原文に手を入れて修正案が再び送られて来たりもする。
やっと訳文ができ上がると、その日本文をデービッドが1字1句音読をする。今度は彼の方から質問が浴びせられ、細かな点まで納得しないと先に読み進んでくれない。この作業は双方に取って魂の入る作業、おまけに、ひとつの文から話が展開して本文そっちのけで話を楽しんでしまうことがしょっちゅうであるから、非常に時間がかかる。どうなりこうなり読み終えてから、原文に修正が入る事もあり、私は家に戻って仕上げの作業をすることになる。
こんな手伝いをしていて実感することだが、1を書くときにはその事を何十倍も知っていなくては満足な内容にならないということである。これは、物を教える教師にもあてはまることで、かつかつの知識で教壇に立てばすぐに学生になめられるのと同じである。デービッドは版画に関してよく勉強していて、たいていの場合は、書きたい事のほんのひと欠けを限られた字数に託す。時としては、そこの難しさが原因で文が分かりにくくなったりするのだが、ずぶの素人である私が目を通せば、そんな箇所はすぐに指摘できる。
だが、だがである、今回ばかりは勝手が違っていた。何しろ新シリーズの題材が美人である。彼の書く原文の美人に関する箇所に来ると、どうもいけない。あまりこのテーマに関して真剣に取り組んだことのない事は見え見えであった。そんなことを考えながら訳をしていれば当然、私自身も美人に関して考えてしまう。そう、一体美人って何だろう?
子供の頃、ミス日本とかなんとか、私の周囲の女連中は良くそんな事を話題にした。大人の中に挟まって「美人ってなんなのかなあ」と思いながら、菓子を食べたりお茶をすすったりしていた。大人の仲間入りをしたくて、自分がこれと思う人を示しながら「ねえ、この人って美人だよね〜!」と切り出してみると、「だめよ、それはオカチメンコ!」などと一蹴される。私はさらなる混乱に陥るばかりだった。さらに悪い事に、ある日父がこんな事を教えてくれた。「ファニーフェースって知ってるかい?おかしな顔っていうんだよ。美人じゃなくても、もてはやされる時代になったなぁ。」私の思う美人がファニーフェースとやらであるという。こりゃあ困った。真剣になって、テレビや雑誌にある「顔」を見たが、子供の私には、大人の言う美の基準が、どうしてもつかめなかった。
やがて中学生になり、歴史の授業で吉祥天について学んだ時、クラスの連中は教科書に載っている写真を見てドッと笑った。20世紀に生きる若者達には、これが美の女神とはどうしても不可解だったのだろ。ほっぺがふっくらしていて、限り無く穏やかな顔をしている。私は複雑な思いだった。そして授業が終わると、思いがけない事が起きた。「や〜い吉祥天〜!」と男の子たちが私をからかいだしたのだ。そう、当時の私は下膨れのぽっちゃり顔だった。「あ〜ぁ、生まれて来るのが遅かった」と悲しくなった。今なら、すかさずやり返す事ができるのに。
時が過ぎ、国際化が進んでくると、国内だけの基準では測り切れない色々な顔に出会うのが日常になってきた。まったくもっての混乱である。しかも私の場合は、その種が身近にいる。非常に稀なことだが、デービッドがこうつぶやくことがある。"She is beautiful!" 私は「どこどこ?どの人?」とキョロキョロする。彼の示す先を見ると、思いがけない人物の顔がそこにある。そして、フ〜ムと唸った後、いつも私はこう思うのである「蓼喰う虫」。これだから世の中うまくいくのだ。みんなが違う顔や性格を好きになればそれだけ、世の中の流れはスムーズになるもの。
どんな顔が美人か、近ごろ私はそんな事などどうでも良くなってきた。だが、顔に関してはっきり意識するようになった点がひとつある。それは、好ましい顔である。国籍がどうあれ人種がどうあれ、男性だろうが女性だろうが、これだけは敏感に感じるようになった。日々の生活が作り出す皺やシミは、その人の年輪のようなもの。ツルンとした若者の顔にはない、深みと奥行きを感じさせる。私は、そんな顔に出会うと嬉しくなり、元気付けられる。そして、私も自信の持てる顔を育ててゆかねばと思う。
さてさて、デービッドの今のプロジェクトは「四季の美人」。皆様、御覚悟あれ〜!
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