デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 2003

あれから数カ月が過ぎ、季節も移りました。百人一緒の次の号をお届けする時期です。ところで、号数を見れば、私の年令を追い越しているではありませんか!数から手繰れば人生の3分の1の年月を日本で過ごしてきたことになります。

近頃は、時の過ぎるのが年々早くなってきていて、人生の先輩達に良く聞かされてきた通りになっています。それで、百人一首の版画を彫ったり摺ったりしていた頃の事など、遥か以前で思い出せない程なのですが、面白いことに、今回のエッセイコーナーへの文を書いていましたら、その題材に選んでいるのが、勝川春章と百人一首になっていました。このような話は、ニュースレターの発刊号に持ってくれば良かったのでしょうが、当時の私には、自分の見ている対象をそこまで深く読むことができなかったのです。

この他には、お馴染みの内容が色々入っています。貞子のコーナーでは、書かれている私自身が、またもや笑い出してしまいましたが、皆様の反応はいかがでしょうか?

このニュースレターが、皆様のちょっとした気晴らしになればと念じております。購読ありがとうございます。

ハリファックスから羽村へ

日本への2回目の旅行から戻った後、私はいよいよ版画制作に本格的に取りかかることにしました。たくさんの「本物の」桜の版木を持ち帰っていましたし、職人達が使っていたのと似たような紙や道具も手に入れていました。こうした具体的な物のほかに、彫師や摺師を訪ねた時に書き留めたメモや観察記録で埋まったノートもありました。準備オーケーです!

もちろん、私は、まだ音楽店での仕事は続けていましたが、ここ日本とは状況が違います。日本では夕方早い時間に職場を離れることはむずかしい場合が多いようですが、カナダでは、時計が5時半を指したところで店を閉めて家に帰れるのです。社長ですらも。だから帰宅後は、版画制作の時間も家族と過ごす時間もたっぷりとることができました。

次に私がとりかかった作品は、ふたつの観点から選んだものでした。まずは、私が今までにやったことのない技術に挑戦できるもの(具体的には、墨版と色版のあるタイプのもの)であること、そして更に、他の人が見て欲しくなるような魅力的なものであること。つまり私は、この版画制作の趣味を生活の糧とするにはどうすればいいかを考え始めたのです。

20年後の今にして思えば、よくもあんなものを売ろうと考えたなぁ、と思います。その春私が作った版画は、美しいデザインのものではありましたが、技術的にはお粗末で、使った絵の具も適切なものではありませんでした。完成した直後から、色が褪せ始めたのですから。

しかし、それを売りに出す、という考えを持ったことが恥ずかしいことだとはまったく思いません。もし、いつも十分に用意が整うまで売るのはやめておこう、とするのなら、決してチャンスはやってこないでしょう。私は趣味でギターを作っていましたが、それを売るほどの「資格」はなかったでしょう。それでも、買った人はそれを使って楽しんでくれました。私は商用のコンピュータープログラムを書くための教育を受けたことはないし、そんな「資格」はありませんでしたが、私の書いたプログラムはお金の流れを管理するのに絶大な効果をもたらしました...もう何年も版画を作ってきた今でさえ、私が仕上げたばかりの北渓の摺物の複製を見てみれば、熟練した彫師の厳しい基準では、おそらく、私にはまだこんなむずかしい作品に挑戦する「資格」はない、と言われることでしょう。それでも、収集家のみなさんが包みを開けて私の作品を見た時には、すごいと感じていただけるものがある、と思うのです...

大切なことは、「どんな瞬間でも、自分の持てる力を出し切っている限りは、それで十分だ」ということだと思うのです。それ以上のことはできません。ものを売る資格があったかどうか、あるいは、そうするにはちょっと早すぎたか、は市場が決めてくれるでしょう...

この時私が作ったのは、岡田嘉夫氏の原画を複製したものでした。彼のことは数号前の「ハリファックスから羽村へ」の中に出てきていますね。そして、この時は、まさに、「市場」が決断をしてくれたのでした。私は岡田氏に版画の試作品を送り、それを出版したいのだが、許可してもらえるだろうか、またいくらお支払いすればいいか、と尋ねました。

彼の返事は、さすが、というべきものでした。ずっと後に、彼は、この時の心情を私に話してくれました。ずいぶんと葛藤があったそうです。こんなお粗末な作品が彼の名のもとに売リ出されるなんて耐えられない、という気持ちと、その一方で、こんなやり方で彼の作品が世に出るのもおもしろい、という思い、それに私の意欲をくじきたくない、という思いもありました。彼はこの問題を次のように解決しました。私の作品を出版することについては「いいですよ」という返事を送り、ただし、その使用料として、私にはとうてい払えないような高額を提示したのです。

この結果に対して自分がどんな反応をしたのか、正確には思い出せません。多分、このことはいったん棚上げにして、次の作品にとりかかったのだと思います...こんなふうにひとりごとを言いながら...「でも、木版画って本当に魅力的なんだもの...これで生計をたてる方法だって何かあるはずだ...とにかくいろいろやってみるさ!」

こうした出来事を私は長い間忘れていました...でも、今思い出して思うのですが...もしもう一度、岡田さんの作品を複製して「摺物アルバム」に加える許可を得られるかどうかを尋ねたなら...彼は私にその資格がある、と思ってくれるでしょうか...

唐澤さん

版画制作の企画を立てたばかりの頃、人々が私の作品を知るようになる唯一のきっかけは、恒例の展示会でした。でも、皆さんも良く御存知のように、今日では、情報を得たり通信をする新しい手段がたくさんあります。ですから私の場合も、新たな収集家が増えるのは1月の恒例展示会に限らなくなってきています。毎朝パソコンのスイッチを入れる時、どんな電子メールが来ているかなど、まるで予想がつきません!唐澤さんからの初めての連絡も、このような形で頂戴しました。彼の友人が私のホームページを紹介したことがきっかけで、そこにある内容に目を通し、作品を求めていらしたのです。

この記事を読んでいる方の中には、実際に版画を見ないで購入すると決めるなんておかしい、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。でも、唐澤さんにとっては、何も驚くような事ではないのです。彼が、情報技術分野における世界規模の会社で、日本支社の社長をしているということは、電子メールのやり取りを通じて知りました。会社の業務内容は、専門家でないとなかなか理解のできない技術的に高度な分野なので、私にはあまりよく分からないのですが、ごく簡単に言えば、消費者と企業とが好きな通信手段で交信(コミュニケーション)ができるように、非常に柔軟性のあるソフトウェアを専門に開発している、というのが業務内容のようです。唐澤さんは、一日中こういった仕事にどっぷり漬かっているのですから、膨大な資料の中から要点を拾い出す事など朝飯前のはず。私のホームページに目を通して、基本内容をすばやく掌握し、活動を支持してあげようとすぐに決断なさったようです。

唐澤さんの事務所を訪ねた先日の事、部屋に通された貞子と私はちょっと心配になりました。これからする話の内容が理解できるのだろうか?どの分野の専門家と話をする時もそうなのですが、─そう木版画の場合でも!─門外漢に内容が理解しきれないというのは、良くあることです。

幸い、唐澤さんはこのことを良く心得ていらして、この会議室で日常するのとはちょっと違う話を準備なさっていました。私が話を切り出さない前に、何枚かの写真を机の上にさっと広げ、「これ、何だと思われます?」私は、何を見ているのか理解できませんでした。木の部分を歪めて写してあるような...。でも、数分の後に唐澤さんが説明をしてくださってから、映像がはっきり見えてきました。カメラを真上に向けて撮影した、何本かの木の姿で、その角度から写すと、木々の作る天蓋に細い道のようなものが見えるのです。均等な間隔で、時には真直ぐでさえある道、木と木が決して接触せずに保つ距離が見えます。読者の方達はもう、私がひと段落前に書いた唐澤さんについての説明から、彼が語ろうとすることが想像できるかも知れませんね!そう、木の世界でも互いのコミュニケーション手段があるらしいということです!

「空の路地」の写真:高橋由起子様

新聞や雑誌の記者が私の所へ訪ねて来るというのはよくあることですが、話はいつもある点を巡ってぐるぐると廻り続けます。私がどんなに何か別の事を話そうとしても、まるで話題に意志があるかのように、同じところに舞い戻っているのです。唐澤さんとの会話も同じでした。彼の所属する異なる分野の人達が集まる毎月の会合の事、読書の事、この木の写真を取り続けている友人の事、などなど...。そして、まるで仕事に結びつかないかのように見えるこういった活動が、よく考えてみると、かなり仕事に繋がっているのです。しかも、どれもたっぷり楽しんでおられる。分りました!私だって、いつも同じところに行き着くのですから、彼がそういった様々な事に興味を持っても不思議ではないですね。

自分の仕事をとっても楽しんでいる方と話をするって、時として難しくなってしまいますがね!

「...に倣って」

このページを開いて絵をざっと御覧になると、ちょっとタイムスリップしたかのように感じられるかも知れません。以前私が制作していた百人一首シリーズから取ってきた絵のように見えますね。そう、これらの絵は、文壇に登場する高位の歌人達を現わそうと意図しています。歌人達?どうして複数形なのでしょう、同じ人を表現したのではない?

さあ、それは皆さんの見方次第かも知れません...もう少し深く読んでみましょう。

ここにある絵についての、ありのままの事実は次のようになります。

  • 1)小野小町、佐竹本三十六歌仙より
  • 2)紫式部、江戸初期の狩野派による「百人一首画帖」より
  • 3)相模、同上画帖より
  • 4)小野小町、江戸末期の版本、岡田為恭作

それにしても、この絵はみんな同じです!姿勢だけでなく、着物の襞のほとんど全て、流れる髪の毛のねじれ方のひとつひとつまでもが全く同じです。一体どうなっているのでしょう?デービッドは、絵師達の間に蔓延している盗作行為を暴こうとしているのでしょうか?盗作という言葉は、近頃西洋の新聞雑誌や知識人達の間でとても良く使われますが、この場合はあまり相応しい言葉ではないでしょう。盗作の場合は、誤魔化そうという意図がありますが、ここにある作品は、真似たとわからないように画いたとは思えないからです。私は、ここでの疑問を解くために注目しなくてはならない言葉は「学ぶ」であると考えます。和英辞書によると、この言葉には「深く学習する・勉強する・何かを教わる」という意味があります。そして一番最後のところに、「お手本に従う」とあり、これがこの解答を得る鍵となるのです。

私は、この絵の作者達に関する詳細な歴史を知りませんが、彼等が絵師になり始める頃の状態を想像することはできます。きっと、かなり小さい頃から絵を描くのが上手で、ほどほどの年令に達すると、きちんとした修行を積むために、すでに絵師としてひとり立ちしている人のところに送られたのです。きちんとした修行というのは、師がするように、もっと詳しく言えば師の属する派の流儀に習って、絵を画くということでした。派に属する人達は、誰もがほとんど同じ手法で画く、これが派に所属することの意味だったのです。弟子達は、竹や花や山の画き方、という無数の言葉を画塾の語彙(技法)から学びました。こういった言葉の中には、この絵で見るような、幾重にもなる着物の襞の画き方なども当然含まれていたのです。

ところが私達の知る限り、こういった事を実物を見て写生したことは皆無でした。着物をまとった若い女性がやってきて、彼等のためにある姿勢でじっとしている、などということは必要なかったからです。彼等はただ、画塾にある手本や見本となる絵を模倣するだけだったのです。独創性を価値と認めず、与えられた手法を吸収し再生する能力が重要でした。当時、こういった弟子達の修行を説明するのに良く用いられた学ぶという言葉は、「すでにある手本から修得していく」という意味で使われていたのです。

こういう訳ですから、絵をひと目見たところひどく似ているからといって、驚くことはありません。十二単衣を着た平安時代の女性を画くことを頼まれたら、紙の上にどのように画いてゆけばいいのか、絵師達にはしっかり分かっていたのです。それまでに何度もやって来ているのですから。絵は小野小町なのか紫式部なのか、などと言う事はどうでもよい事でした。なぜなら、人格や性格を描写するという事は、要求される内容に入っていなかったからです。形式がすべてでした。

こういった背景を知ると、1700年代後半に画かれた勝川春章の百人一首にある人物画が、どんなに個性的で画期的な業績であるか、理解することができます。春章は、勝川春水の門弟としてこのような流儀で研鑽を積みました。彼の絵には、学びの深さが表われています。彼の職人魂は申し分なく発揮され、数々の語彙は同時代のどの絵師にも負けず劣らずしっかり使いこなされています。でも、彼はそこから─歩先に抜きん出て、絵の分野に新たな局面を開きました、生身の人間の表現です。

もちろん彼には、昔の歌人達がどのようであったかなど知る由もありません。彼よりも何世紀も以前の人達だったのですから。その事はどうあれ、とにかく彼が紙の上に筆を運べば、息づいた絵がそこに画かれたのです。彼の作品、中でも歌舞伎の役者絵には、これが顕著に見られます。それ以前の役者絵では、舞台にいる演者を画こうとはせず、その役を型通りに描写しただけでした。顔は型で抜いたように同じで、いつも絵の中のどこかに必ず記される家紋を見た時にだけ、誰なのか言い当てることができました。ところが春章の画く絵は、型にはまったお仕着せの絵ではなく、生身の役者がわかったのです。(後に写楽は、このやり方を極端なまでに押し進めましたが、それができたのは春章が土台を築いていたからです。)

では、どうしてこのようなことが起きたのでしょう?春章が何世代もの間受け継がれてきた伝統の中できちんと練習をしてきていたというのならば、なぜ違った見方をすることができたのでしょうか?答えははっきりしています。明らかに、西洋の肖像画法を知ってかなり影響を受けていたからです。一般に、徳川時代には鎖国で完全に外国から孤立していた、と考えがちです。でも実際はそうでもなく、この時代の教養人、それも主だった都市部に住む人ならば尚のこと、私達が思う以上に、輸入された品物に接する機会はありました。古いこの時代の版画を調べていると、それが分かります。時計や望遠鏡などの機械類から、異国の生き物、もちろん本や絵までも、輸入された品々が絵として画かれているのですから。

春章は教養人で、くいった人達のひとりでした。彼が、感情や人格の表現された絵に接した時の反応、そして、そういったことを自分の画く人物に表わすようになった、ということは、たいして想像力を働かせなくとも推測できるでしょう。もちろん、彼は西洋の画家になろうとした訳ではなく、見た絵の影響を受けて、それをほんのちょっと自分の作品に取り入れただけです。

ここで私は、日本の絵師達を誹謗するつもりなどさらさらありませんし、彼等が西洋の助けを必要としていたと立証しようとしているのでもありません。日本が開国してから浮世絵が西洋の芸術に与えた影響を示す材料は、近年になってどんどん出てきています。ともすれば見逃してしまうようですが、大洋を渡る船は両方向に航行していたのであって、浮世絵自体がすでに、ある程度西洋の芸術の影響を受けていたのです。出会いがあり交流が生まれれば、常にそうであるように、心を開いて聞く耳を持つ人達は、新しい考え方を取り入れることによって、自分達の創造性を豊かにしていたのです。

ところで私は、そのような影響はいつも良い方向に行くと信じているでしょうか?いいえ、まるで違います。話をもう少し押し進めていき、ミケランジェロが、彼の国と世界中において、後世の芸術家にどのような影響を与えたかを調べてみると、あまり穏やかでない結果を見る事に... それは次回にとっておきましょう!

スタジオ便り

前回のニュースレターで、地下に作っている仕事場の出窓風になっている所の写真を御紹介しました。ここは、一段高くなった作業壇として完成させる予定です。あの写真を撮った後は、すぐに摺の仕事に戻らなくてはならなかったので、工事用具は片付けてしまい、ほんの少ししか進行していません。改装の方は、少ししかできませんでしたが...見て下さい!

それでも、作業台を下に持って行ったらどんな感じか、ほんの数分だけ試みてみようと思ったのです。作業壇の高さとか、明かりの具合とか... そんなちょっとのつもりが、いつのまにか2ヶ月以上もの間、摺も彫も作業はみんなそこでしてしまいました!


この出窓風の所はまだ未完成で、照明の調整もできていないし近くに電源もないのですが、とても居心地が良くて、運んできた作業台や道具を上の階まで持って戻る気持ちになれなかったのです。


こんな訳で、地下2階のこの部屋はごちゃごちゃ状態です。道具や材料を置く棚だってありませんから、必要な物があると上まで駆け上がって行かなくてはなりません。でもですね、この自分の部屋に居るのは何とも気分が良いので、そのくらい大した事じゃないのです。北側からの柔らかな明かりを浴びて、窓のすぐ下を流れる小川のせせらぎを耳にして仕事をするのですから。

でも、日に日に寒くなってきています。他の部分の壁は、断熱材も入れていないむき出しですから、1月2月もここに居られるかどうかは分かりません。この号が皆さんのお手元に届く頃には、上の部屋に退散しているかも知れませんが、さあ、どうなることでしょう!


Viewpoints

先日、珍しく通勤時間帯の電車に乗った。バッグの中には、いつものように単行本を入れているのだが、車内の人物観察が面白くて、しばし遊んでしまった。以下は声に出さない私の独り言。

斜向かいで吊り革につかまって読書をしている30代前半とおぼしき女性。

「襟足のきれいな人だなあ。こんな風になるのなら、私もショートにカットしたいなあ。おや、人さし指にリングをしている。キャリアウーマンかあ、ジャケットの趣味も良いし洗練されているなあ。」

目の前に座っている男性。

「さらっとした端正な顔だちだなあ。上等のバーバリのコートを着ているけど、右肩の飾りボタンが半分割れてなくなっている。奥さん手を抜いているのかな、共稼ぎで忙しいのかな?ボタン付けを女の仕事と決めつけるなんて、古いのかなあ?」

ここまで遊んで、はたと気付いた。誰かが私を同じように観察しているかもしれない。

「白髪も染めないで、化粧っ気もなくて、もうちょっとなんとかすればいいのに。どう見ても通勤には見えないわねえ。肩にさげてるくたびれた鞄も何とかならないかしらねえ、いい加減歳食ってるようだけど、一体何をしているおばさんかしら?」ってなところだろうか。

とは言え、世の中には引き立て役がいたっていいんだし、男性の中にデービッドのようなのがいるのだって面白い。えっ、デービッド?観察したらどんな風?

7年程前の事だが、ある洒落たイタリアレストランで食事をした。なかなか美味しかったので、気分良くレジに向かうと、丁度ひと組みのカップルが精算中である。デービッドが順番を待つ間、私は先に店を出て、ちょっと離れた所で待っていた。すると、支払いを終えたばかりのカップルが笑いを押し殺しながら、ころげるように走って来る。一息つくと、「あの外人、まるでホラー映画に出てくる人みたいだったねえ」顔を見合わせ、そのまま弾みがついたように笑い去って行った。「私が、その人の連れなんですよ〜!」と言う隙もなかった。あっけに取られた直後、彼等の笑いは私に移ってお腹を抱えて痙攣状態、涙まで流れてきた。

やがて飄々とレストランから出できたデービッドは、私の様子を見て一瞬青ざめ「貞子さんどうしたの?」とオロオロしている。「泣いているんじゃないのよ〜」と事の次第を説明するにも笑いが止まらない。やっとの思いで説明を終えると、笑いはデービッドにも伝染してしまった。

前回この最後のページに、「...ちょっと考えている計画があります。遅れを取り戻すと同時に、収集家の方達には「幕間」的な趣向です。まだ詰めの段階には至っていませんが...」と書きました。その後、現在の摺物アルバムを制作しながら、この企画について練っているうちに、かなり方向性が見えてきました。まだ完全に煮詰まらないうちに内容を漏らすのはどうかと思うのですが、収集家の方達には、どのような作品になるのかを、お知らせしておく方が良いでしょう。予定は次のようになります。

  • 摺物アルバム第5集
    きっとお分かりでしょうが、これを展示会までに10枚完成させることはできません。その時点で御紹介できるのは7〜8枚になり、残りは2004年の3月までには終えたいと思っております。
  • 百人一首シリーズ
    何年か前に始めた追加摺は確実に進んでいて、ほぼ90%が終わっています。最後の10枚程は、2004年の半ばまでには終える予定ですから、まだ全作品を集められずにおられる方達は、それまで御辛抱ください。>
  • 新シリーズ
    春に開始し、2004年末まで続きます。ある特定の題材(季節毎)で、計4作品を2ヶ月毎に制作します。現在の摺物アルバムよりも大きく、その分いくらか価格が上がるでしょう。その代わり、枚数が少なく発送される間隔も長くなるので、1セットとしてのお客様の負担は従来とほぼ同じです。
  • 摺物アルバム第6集
    私の考える「摺物アルバム」に相応しい内容が尽きるにはまだまだです。このシリーズ、収集家の方達と制作者である私の双方が持つ多様な要望を満たすためには、完璧な企画だと思っています。題材や話題は限り無くありますし、色々な歴史上の時代を網羅するにはもってこいですし、加えて、腕を磨いたり技法を試みる機会はとめどなく続きます。たとえ百歳まで生き長らえても(命尽きるまで版画を作り続けたとしても)、このアルバムに入れて行きたい作品の底が尽きることはないでしょう。摺物アルバム第6集は、2005年に始めたいと考えています。
    (補足:上記3項目で、新シリーズは幾分価格が上がると説明いたしましたが、だからといって気持ちが離れたりしませんように。摺物アルバム6集は、以前と変わらず価格は6,000円です。)

計画では...計画では... さて、結実の数は如何なることに!