デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

日本への2回目の旅行から戻った後、私はいよいよ版画制作に本格的に取りかかることにしました。たくさんの「本物の」桜の版木を持ち帰っていましたし、職人達が使っていたのと似たような紙や道具も手に入れていました。こうした具体的な物のほかに、彫師や摺師を訪ねた時に書き留めたメモや観察記録で埋まったノートもありました。準備オーケーです!

もちろん、私は、まだ音楽店での仕事は続けていましたが、ここ日本とは状況が違います。日本では夕方早い時間に職場を離れることはむずかしい場合が多いようですが、カナダでは、時計が5時半を指したところで店を閉めて家に帰れるのです。社長ですらも。だから帰宅後は、版画制作の時間も家族と過ごす時間もたっぷりとることができました。

次に私がとりかかった作品は、ふたつの観点から選んだものでした。まずは、私が今までにやったことのない技術に挑戦できるもの(具体的には、墨版と色版のあるタイプのもの)であること、そして更に、他の人が見て欲しくなるような魅力的なものであること。つまり私は、この版画制作の趣味を生活の糧とするにはどうすればいいかを考え始めたのです。

20年後の今にして思えば、よくもあんなものを売ろうと考えたなぁ、と思います。その春私が作った版画は、美しいデザインのものではありましたが、技術的にはお粗末で、使った絵の具も適切なものではありませんでした。完成した直後から、色が褪せ始めたのですから。

しかし、それを売りに出す、という考えを持ったことが恥ずかしいことだとはまったく思いません。もし、いつも十分に用意が整うまで売るのはやめておこう、とするのなら、決してチャンスはやってこないでしょう。私は趣味でギターを作っていましたが、それを売るほどの「資格」はなかったでしょう。それでも、買った人はそれを使って楽しんでくれました。私は商用のコンピュータープログラムを書くための教育を受けたことはないし、そんな「資格」はありませんでしたが、私の書いたプログラムはお金の流れを管理するのに絶大な効果をもたらしました...もう何年も版画を作ってきた今でさえ、私が仕上げたばかりの北渓の摺物の複製を見てみれば、熟練した彫師の厳しい基準では、おそらく、私にはまだこんなむずかしい作品に挑戦する「資格」はない、と言われることでしょう。それでも、収集家のみなさんが包みを開けて私の作品を見た時には、すごいと感じていただけるものがある、と思うのです...

大切なことは、「どんな瞬間でも、自分の持てる力を出し切っている限りは、それで十分だ」ということだと思うのです。それ以上のことはできません。ものを売る資格があったかどうか、あるいは、そうするにはちょっと早すぎたか、は市場が決めてくれるでしょう...

この時私が作ったのは、岡田嘉夫氏の原画を複製したものでした。彼のことは数号前の「ハリファックスから羽村へ」の中に出てきていますね。そして、この時は、まさに、「市場」が決断をしてくれたのでした。私は岡田氏に版画の試作品を送り、それを出版したいのだが、許可してもらえるだろうか、またいくらお支払いすればいいか、と尋ねました。

彼の返事は、さすが、というべきものでした。ずっと後に、彼は、この時の心情を私に話してくれました。ずいぶんと葛藤があったそうです。こんなお粗末な作品が彼の名のもとに売リ出されるなんて耐えられない、という気持ちと、その一方で、こんなやり方で彼の作品が世に出るのもおもしろい、という思い、それに私の意欲をくじきたくない、という思いもありました。彼はこの問題を次のように解決しました。私の作品を出版することについては「いいですよ」という返事を送り、ただし、その使用料として、私にはとうてい払えないような高額を提示したのです。

この結果に対して自分がどんな反応をしたのか、正確には思い出せません。多分、このことはいったん棚上げにして、次の作品にとりかかったのだと思います...こんなふうにひとりごとを言いながら...「でも、木版画って本当に魅力的なんだもの...これで生計をたてる方法だって何かあるはずだ...とにかくいろいろやってみるさ!」

こうした出来事を私は長い間忘れていました...でも、今思い出して思うのですが...もしもう一度、岡田さんの作品を複製して「摺物アルバム」に加える許可を得られるかどうかを尋ねたなら...彼は私にその資格がある、と思ってくれるでしょうか...

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