デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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「...に倣って」

このページを開いて絵をざっと御覧になると、ちょっとタイムスリップしたかのように感じられるかも知れません。以前私が制作していた百人一首シリーズから取ってきた絵のように見えますね。そう、これらの絵は、文壇に登場する高位の歌人達を現わそうと意図しています。歌人達?どうして複数形なのでしょう、同じ人を表現したのではない?

さあ、それは皆さんの見方次第かも知れません...もう少し深く読んでみましょう。

ここにある絵についての、ありのままの事実は次のようになります。

  • 1)小野小町、佐竹本三十六歌仙より
  • 2)紫式部、江戸初期の狩野派による「百人一首画帖」より
  • 3)相模、同上画帖より
  • 4)小野小町、江戸末期の版本、岡田為恭作

それにしても、この絵はみんな同じです!姿勢だけでなく、着物の襞のほとんど全て、流れる髪の毛のねじれ方のひとつひとつまでもが全く同じです。一体どうなっているのでしょう?デービッドは、絵師達の間に蔓延している盗作行為を暴こうとしているのでしょうか?盗作という言葉は、近頃西洋の新聞雑誌や知識人達の間でとても良く使われますが、この場合はあまり相応しい言葉ではないでしょう。盗作の場合は、誤魔化そうという意図がありますが、ここにある作品は、真似たとわからないように画いたとは思えないからです。私は、ここでの疑問を解くために注目しなくてはならない言葉は「学ぶ」であると考えます。和英辞書によると、この言葉には「深く学習する・勉強する・何かを教わる」という意味があります。そして一番最後のところに、「お手本に従う」とあり、これがこの解答を得る鍵となるのです。

私は、この絵の作者達に関する詳細な歴史を知りませんが、彼等が絵師になり始める頃の状態を想像することはできます。きっと、かなり小さい頃から絵を描くのが上手で、ほどほどの年令に達すると、きちんとした修行を積むために、すでに絵師としてひとり立ちしている人のところに送られたのです。きちんとした修行というのは、師がするように、もっと詳しく言えば師の属する派の流儀に習って、絵を画くということでした。派に属する人達は、誰もがほとんど同じ手法で画く、これが派に所属することの意味だったのです。弟子達は、竹や花や山の画き方、という無数の言葉を画塾の語彙(技法)から学びました。こういった言葉の中には、この絵で見るような、幾重にもなる着物の襞の画き方なども当然含まれていたのです。

ところが私達の知る限り、こういった事を実物を見て写生したことは皆無でした。着物をまとった若い女性がやってきて、彼等のためにある姿勢でじっとしている、などということは必要なかったからです。彼等はただ、画塾にある手本や見本となる絵を模倣するだけだったのです。独創性を価値と認めず、与えられた手法を吸収し再生する能力が重要でした。当時、こういった弟子達の修行を説明するのに良く用いられた学ぶという言葉は、「すでにある手本から修得していく」という意味で使われていたのです。

こういう訳ですから、絵をひと目見たところひどく似ているからといって、驚くことはありません。十二単衣を着た平安時代の女性を画くことを頼まれたら、紙の上にどのように画いてゆけばいいのか、絵師達にはしっかり分かっていたのです。それまでに何度もやって来ているのですから。絵は小野小町なのか紫式部なのか、などと言う事はどうでもよい事でした。なぜなら、人格や性格を描写するという事は、要求される内容に入っていなかったからです。形式がすべてでした。

こういった背景を知ると、1700年代後半に画かれた勝川春章の百人一首にある人物画が、どんなに個性的で画期的な業績であるか、理解することができます。春章は、勝川春水の門弟としてこのような流儀で研鑽を積みました。彼の絵には、学びの深さが表われています。彼の職人魂は申し分なく発揮され、数々の語彙は同時代のどの絵師にも負けず劣らずしっかり使いこなされています。でも、彼はそこから─歩先に抜きん出て、絵の分野に新たな局面を開きました、生身の人間の表現です。

もちろん彼には、昔の歌人達がどのようであったかなど知る由もありません。彼よりも何世紀も以前の人達だったのですから。その事はどうあれ、とにかく彼が紙の上に筆を運べば、息づいた絵がそこに画かれたのです。彼の作品、中でも歌舞伎の役者絵には、これが顕著に見られます。それ以前の役者絵では、舞台にいる演者を画こうとはせず、その役を型通りに描写しただけでした。顔は型で抜いたように同じで、いつも絵の中のどこかに必ず記される家紋を見た時にだけ、誰なのか言い当てることができました。ところが春章の画く絵は、型にはまったお仕着せの絵ではなく、生身の役者がわかったのです。(後に写楽は、このやり方を極端なまでに押し進めましたが、それができたのは春章が土台を築いていたからです。)

では、どうしてこのようなことが起きたのでしょう?春章が何世代もの間受け継がれてきた伝統の中できちんと練習をしてきていたというのならば、なぜ違った見方をすることができたのでしょうか?答えははっきりしています。明らかに、西洋の肖像画法を知ってかなり影響を受けていたからです。一般に、徳川時代には鎖国で完全に外国から孤立していた、と考えがちです。でも実際はそうでもなく、この時代の教養人、それも主だった都市部に住む人ならば尚のこと、私達が思う以上に、輸入された品物に接する機会はありました。古いこの時代の版画を調べていると、それが分かります。時計や望遠鏡などの機械類から、異国の生き物、もちろん本や絵までも、輸入された品々が絵として画かれているのですから。

春章は教養人で、くいった人達のひとりでした。彼が、感情や人格の表現された絵に接した時の反応、そして、そういったことを自分の画く人物に表わすようになった、ということは、たいして想像力を働かせなくとも推測できるでしょう。もちろん、彼は西洋の画家になろうとした訳ではなく、見た絵の影響を受けて、それをほんのちょっと自分の作品に取り入れただけです。

ここで私は、日本の絵師達を誹謗するつもりなどさらさらありませんし、彼等が西洋の助けを必要としていたと立証しようとしているのでもありません。日本が開国してから浮世絵が西洋の芸術に与えた影響を示す材料は、近年になってどんどん出てきています。ともすれば見逃してしまうようですが、大洋を渡る船は両方向に航行していたのであって、浮世絵自体がすでに、ある程度西洋の芸術の影響を受けていたのです。出会いがあり交流が生まれれば、常にそうであるように、心を開いて聞く耳を持つ人達は、新しい考え方を取り入れることによって、自分達の創造性を豊かにしていたのです。

ところで私は、そのような影響はいつも良い方向に行くと信じているでしょうか?いいえ、まるで違います。話をもう少し押し進めていき、ミケランジェロが、彼の国と世界中において、後世の芸術家にどのような影響を与えたかを調べてみると、あまり穏やかでない結果を見る事に... それは次回にとっておきましょう!

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