デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 2003

机に向かってこのニュースレターを書いているここ数日は、ひっきりなしに雨が降っています。毎朝傘を差してトボトボ家から駅まで歩く必要もなく、とてもありがたい思いです!軽い朝食を摂り、...コーヒーをすすりながら朝刊に目を通し、...それから、3、4歩で仕事部屋に「出勤」すれば作業開始です。

少なくとも、これがたいていの日課です — 今年の6月には、このお決まりの流れが10日間中断しましたが。カナダで両親と子供達に会うためと、アメリカでバレンの会合に1週間参加するため、というふたつの目的で出掛けていたからです。今回は、この「バレンサミット」についての報告の他に、連載の「ハリファックスから羽村へ」と「収集家の紹介」そして「貞子のコーナー」があります。

それから、「展示会報告」もあります ... おや?この時期に?そうなんです、小規模ではありましたが、埼玉県で開催された一味違う「番外」展示会で、大成功を収めています。東松山市で、新たに収集家に加わった皆様、どうぞよろしく!

ハリファックスから羽村へ

そうです...赤ん坊を入れて3人...私たちは医者に行って確かめました。子どもができたのです! 母親となる彼女はあまり若くなく、しかも初産だったので、羊水検査を受けるように勧められました。その結果、子どもの性別がわかることになりました。赤ん坊は女の子でした。妊娠がわかってわくわくしているところへ、子どもの性別までわかり、思いがけないボーナスをもらった気分でした。つまり、彼女のおなかにいる子どもの名前を考えることができるし、名前をつけてしまうと、どんな子どもが育っているのか感じられるような気さえしたのです。

でも、両親が違った文化を持っている子どもには、どんな名前がふさわしいのでしょうか?大人になった時、彼女がどちらの国に住もうとするのか、なんてどうやってわかるでしょうか?彼女には日本風の名前をつけるべきか、洋風の名前をつけるべきなのか?答えはもちろん、「両方」でしょう。彼女の母親が洋風の名前を選びました。「アン」(日本の読者は、おそらく、この名前から思い浮かぶことがあるでしょう!)そして、私が、日本風の名前を選びました。「ひみ」。でも、「選んだ」というのは正確な言い方ではありませんね。よくある名前の中から選んだというよりも、私が考えて創ったのですから。これはちょっとした冒険です、というのは、当時の西欧社会では、子どもの名前は、よくある名前の中から選ぶというのが普通で、それ以外の「変わった」名前だと、大きくなる過程で、様々な問題が起きる可能性があるからです。しかし、日本語ではあまり問題になりません。名前の響きがよくて、不快なイメージの同音異義語がない限りは、どんな名前でも受け入れられるのです。

私は辞書を持ち出して、どんな漢字が彼女の名前にふさわしいかを考えました(もちろん、彼女の母親の承諾を得ながらです)。迷信とか占星術にはまったく共感しない私は、実のところ、字画の良し悪しといったようなことはまったく気にしませんでした。(私はいい名前をつけることができたようです。彼女は自分の名前をとても気に入っているし、誇りに思っているようですから。最近のことですが、インターネットのチャットルームで、別の人が「ヒミ」というハンドルネームを使っていて、彼女は大変怒っていました。)

赤ちゃんが生まれる準備として、私たちはふたりとも「両親教室」に参加しました。しかしそこで習ったことは実際にはあまり役にたちませんでした。日実のお産は楽ではなかったのです。それは2日がかりで、結局、緊急の帝王切開をすることになりました。出産後は母子ともに集中治療室に入れられ、日実は点滴で栄養を摂り、母親のほうは、手術中、出血多量だったのを補うために輸血を受けました。私はその2日間、手術の時も含めて、ずっと彼女についていました。女性には笑われるかもしれませんが、この2日間は私の人生で、最も強烈で、体力及び気力を消耗する経験となりました。

その後、さらに衝撃的な事実が明らかになりました。その当時(1983年の春)は誰も知らなかったのですが、バンクーバー病院の血液は、エイズウィルスに汚染されていたのです。数年後、新聞で、当時輸血を受けた人のうち数百人がエイズで亡くなったという記事を読んだ時、私はあの日のことを思い出さなければなりませんでした。看護婦さんが、日実の母親に輸血するために、血液の入った袋を、棚から適当に取り出していたあの日...結局、私たちの家族は大丈夫でしたが...

この劇的な出産を経た後、私たちの生活はもとの心地よいものに落ち着きました。もちろん、新たに家族の一員となった日実は多くのことを要求しました。彼女は最初の数ヶ月、ひっきりなしに泣くタイプの赤ん坊でした。そのため、私たちはふたりともくたくたになってしまうことがありました。それでも、私たちは、できるだけ、以前と同じ生活を続けようとしました。すなわち、日実の母親は英語の勉強をし、私は、毎朝、音楽店に仕事に行って、夜には木版画にとりくむという生活です。この時期、私は1年で3つか4つの作品を作り上げました。古い日本の作品を復刻することもあれば、自分で原画を描くこともありました。ひとつの作品につき、どんなふうになるのかを見るためにほんの数枚摺るだけで、また次の作品にとりかかっていました。私は自分が版画家であるとはまったく思っていませんでした。いろいろ試してみている素人にすぎませんでした。

前にも言ったことがあるように、学校相手の音楽店にとって、秋は忙しい季節です。しかし、その時期を過ぎると、仕事はちょっと暇になります。私は社長のビルと話をして、しばらく休みをもらうことにし、その冬、また3ヶ月の休暇をとりました。日実は7ヶ月になっていて、日本とイギリスの両方のおじいちゃんおばあちゃんが、彼女にとても会いたがっていました。そこで、次のような旅を計画しました。カナダからアジアへ...そして、ヨーロッパへ...そして、振り出し点カナダへと地球を回って戻ってくる。7ヶ月の赤ん坊を背負っての、3ヶ月間の世界一周旅行?そのとおり、さあ、出発です!

広江さん

何ヶ月か前、広江さんのお宅 ─ 以前私が住んでいた羽村の近くです ─ に、このコーナーに登場していただけるかどうかを問い合わせるために電話をしました。でも、その時は、御主人が仕事で東京に居ないので無理だとのお返事だったのです。大黒柱が長期に渡って「よその町に」出張している家庭はたくさん知っているのですが、私はちょっと腑に落ちない思いでした。広江氏は定年退職なさっているはずだったからです。でも今回の場合は、退職から起きた任務でした。彼は、国際協力事業団のボランティアとして、外国での職務に就いていたのです。それで、日本に戻ってこられた時に改めて電話連絡をすることにしました。今年の夏の初め、貞子と私はお宅を訪問して次のような話を、おふたりから聞くことができました。面白い話がたくさんありすぎて、このコーナーでは御紹介しきれません。広江氏が海外ボランティアで働くというのはどのようなことか、みなさんに向けて御自分のニュースレターを作られても良いのでは!

彼が、このボランティアの仕事に関わろうとした動機は、理解できます。まだ十分若くエネルギーもあるのですから、この先何十年も、鉢の手入れのような気楽な仕事ばかりでは満足しきれないことは、目に見えています。持てる能力と経験を使って、人々の生活を良い方向に変えられる場で仕事をしたい。この思いに抵抗しきれなかったのです。家族の反対もなかったので、彼はJICA(国際協力事業団)に応募しました。何段階かにわたる審査を通過し、広江氏は任務の指示を待っていたのですが、それが東南アジアにあるラオスという国であることが分かった時、一体どうしたものか、とまどってしまいました。この国のことはほとんど知らなかったからです。でもすぐに、世界地図や百科辞典を広げて調べ、改めて

この国について確認すると、この任務を引き受けることにしました。そして、そこでの経験は、とても満足のいくものとなったのです。

長年混乱状態にあったラオスですが、今では社会構造も安定し、修復された状態にあります。目前に戦争の恐怖はなく、世界中にある多くの開発途上地域の例と同じく、国際機関による活動が無駄になる恐れもありません。広江氏は、企画能力と英語力を生かして、外国からの医療関係者達とラオスの大学の医学部教授達との調整役として活躍しています。とても意義のある仕事です。

御主人がこうした活動をしている間、奥様は日本で留守を預かるといった形で協力していますが、彼女の方も地域でのボランティア活動に忙しい様子です。今回は、ラオスを訪問した時の話が優先されてしまいましたが!御主人からのEメールを通じて、この国の事を知るだけでは満足できなくなり、御自身も何度かカメラ持参でこの国へ行っています。見せて頂いたアルバムの中には、一連の面白い写真がありました。御主人の現地での知り合いが結婚式を挙げ、御夫婦が招待された時の記録です。そこで奥様は、再びラオスに戻ってくることを約束する糸で参加者達と結ばれているではありませんか!彼女は、地元の織物にも大変興味を持ち、日本に持ち帰った何枚かを見せてくださいました。とても個性のある、私が今まで見た事のない類いの布でした。

たまたまそこに配属されたというだけで、御夫妻が関わることになった国ですが、お二人共かなり親近感を抱いている様子です。こうした活動と現地で育んだ友情のお陰で、そのうち、現在お住まいの羽村近在には、ラオスと聞いて世界地図を広げる人が、いなくなることでしょう!

私の場合は、定年退職をして何か生産的で役に立つ次の仕事を捜すという事はないでしょう。ですから、いつか、いつか、広江御夫妻のような活動をする日が来ることは、まずないと思います。でも、お二人の選択は本当に素晴らしいと感じ入っています。この仕事から得た経験は、御夫婦が離れて暮らさなくてはならない状況を補って余りあることでしょう!

そして、広江氏の方ですが... 、留守宅で彼の帰りを待っている摺物アルバムの事を、時には思ってくださっているでしょうか?恐らくない ... 大事な仕事で手一杯でしょうから!:-)

バレンサミット

「バレン」という名前のグループについて、このニュースレターで説明したのは、もう2年前のことです。私が1997年に設立し命名した、インターネット上の公開討論をする会です。年を経るに従い、この組織は確実に成長し — 現在は何百人もの会員がいます — 遂に、もう私ひとりでは面倒を見きれなくなってしまいました。それで、組織を会員に譲渡し、グループの活動を自分達で計画運営するように頼んだのです。その後グループは、版画制作について話合うという最初の発想から大きく飛躍して、会員同士で版画を交換したり、たくさんの場所で展覧会を開いたりしてきました。会員達が近くに住んでいる場合には、小さな会合を開くこともありましたが、組織が世界規模なので、大きな会合を企画するのは難しかったのです。

でも今年の夏、初めて大々的「バレン会員のサミット」が、アメリカのカンザスシティで開催されました。もちろん、開催場所の影響で、参加者のほとんどは北アメリカの人達でしたが、ヨーロッパから2人、日本から私が1人と、ポツリポツリとではあっても、他の国からも来ていました。

では、集まって何をしたのか?ここに、バレンのホームページ(barenforum.org)に載せた紹介説明文を引用します。

「参加者は、ほとんどの時間を自発的に行動をする。「バレン」サミットは、情報を交換するための「枠組み」である。室内環境は、広く開放された空間で、テーブルと椅子があって、作業開始の準備ができている。参加者は、自分の道具・材料・予め用意した企画を持って来なければならない。「指導者」はなく、「生徒」もいない。大切なのは、能力に拘束されることなく、互いに分かち学ぶことである。」

一週間、正にこの通りでした。誰もがいつも何かを彫ったり摺ったりして忙しく、ほとんどの人は、特に自分が上達したいと思っている部分に焦点を合わせた作業をしていました。部屋の中には、30数人の版画家達がいて、求めても助言が得られない、などと言う事は、一度もありませんでした!

私の立場はちょっと例外で、自分の企画に沿って作業をするということはしませんでした。他の参加者達に「日本への掛け橋」のような役割をするのが目的だったからです。ほとんどの人達は、バレンを包む時の結び方や版木刀の研ぎ方を見る機会がなかったので、あれやこれやとやって見せるのに、くま無く時間を使いました。とにかく長い一日が続いたのです。毎朝7時頃作業開始で、夜中の1時2時までそのままです。疲れてもう続けられなくなると、私は自分の作業台の脇で床の上に横になって、朝の作業開始時間まで眠りました。(自宅でしているのと、正しく同じ状態!)

私達は皆たくさんの事を学びましたが、新しい技術を得ることよりも大切だったのは、関係がしっかりと固まった事でした。中には5年以上もEメールを通じて互いに意見を交わしていた友人達もいて、この「生の」接触は私達の友情にもうひとつの次元を加えることになりました。(私は、「デイブ、思ったより背が高いんだねえ!」と何回も言われました。実際、背は高い方じゃないのですが、おそらく、どちらかというと、そのう、... 細身なためでしょうか、皆がそう思い込んだらしいのです)

そして、もうひとつ、お伝えせずにはいられない話があるのです。私は、以前カンザスシティに行ったことがあります。学校の音楽関係の仕事をしていた時で、歴史があり規模の確立した音楽店をこの町に訪ね、その企画・販売方式について学んだのです。以来、25年以上が過ぎているので、私が次の事を知って、どんなに驚いたか想像してみてください。サミットを開催した古いレンガの建物が、... そうです、今から何年か前に、バレンのメンバーであるマイク・ライオンさんが自分の版画スタジオにするために買い取ったのは、その建物だったのです!アメリカ合衆国にあるすべての都市の、すべての建物の中の... そのまったく同じ建物に辿り着くなんて... しかも私は、カナダ、日本と本拠地を大きく移動しています。このバレンサミットの運命は、すでに決まっていたのでしょうか、さもなくば何だったのでしょうか! 

展示会の総括

「展示会報告」と題しましたが、実際は「収集家の紹介」とした方が良いのかもしれません!私は両方だと...

鈴木房江さんは、埼玉県の中央にある東松山市にお住まいで、今まで私が制作してきた作品の全セットを、なんとか御自分の本棚に場所を見つけて、熱心に私の活動を支えてくださっている、そんな方々のおひとりです。百人一首シリーズが4年前に終わって以来、彼女は、地元でこの作品を紹介する機会をずっと待っていました。そして今年の初め、彼女の知人が新たにギャラリーを開く事になったので、さっとチャンスをつかんで数週間の予約をしてしまいました。

鈴木さんは、市役所を早期退職なさっていますが、実情は、どの観点から見ても「退職」などしていません。「生涯教育」の強い支持者であるだけでなく、御自身が輝かしい模範となっておられ、もうすぐイギリスのノッティンガム大学で成人教育理論の学位を取得する予定です。(通信教育ではなく、選択する講議のある時には、その間イギリスに行きます。)

こういった活動全てが進行する中、展示会を計画して実行に移す時間があるなど、とても信じられなかったのですが、この意向を伝えていらした時にはただちに承諾しました。(所有している私の作品を展示するのに、私の許可が要るとも思えませんが!)彼女に展示用具や案内状を箱詰めにして送ると、友達を沢山集めて作業を手伝ってもらい、私の版画全てを、とても上手に工夫して展示なさったのです。比較的狭い空間なので、とても無理だろうと思っていたのに、やり遂げてしまいました。

それから、ほぼ3週間の会期中、毎日会場に詰めて、来場者達に熱心な説明をしておられました。加えて、この展示会は、特に販売を目的とした訳ではなかったのですが、彼女がとても情熱を込めて説明するので、私が新宿で1月に開催した、もっと大規模の展示会よりも多くの方々が、収集家となったのです!

会期最後の週末には、私も会場に行きましたが、彼女が来場者に話をするのを見ていると、これほどの成功を納めた理由が分ってきました。鈴木さんは、多くの事に意欲的で、かつ数々の業績を積んでおられるので、地元でたくさんの人達の尊敬を勝ち得ているのです。

鈴木さん、私の作品の価値を認めてくださり、たくさんの人々に作品を知らせる助けとなってくださってありがとうございました。でも、スクーターで遠距離を疾走する時には、どうか気を付けてください。長野県の白馬まで乗っていき、山に登って高山植物を見に行くのだとお聞きした時には、心配で緊張しましたよ。でも、時折こうして息抜きなさっているのだと思うと、嬉しくなりましたが! 

長生きすれば...

人と時を過ごす時、何よりの御馳走は楽しい会話だと思っている。多くの実体験に裏付けされた目上の方達の話は、味わい深く豊かな時をもたらしてくれるし、同世代人との会話は、共通の社会状況を生きたことが背景にあって、くつろいだ気分になれる。同じベビーブーマーであるというだけで、初対面でもすんなり会話が弾むのは、お互いが大木の根を共有する枝同士のような安心感があるからだろう。

もうひとつ、とっておきの楽しさは、若い人達との会話である。自分の娘たちが20代半ばを過ぎてしまうと、分別が付き過ぎて価値観のずれがなくなり、新鮮な緊張感が薄れて来る。その代わり確実に、共感を分かち合う喜びは増えてはいるのだが。

先日、デービッドの長女日実ちゃんとおしゃべりする機会があった。20を迎えたばかりの彼女はまさしくピチピチの娘さんである。彼女の目の前には「未来」が大きく広がり、その若さという貴い宝を贅沢に消費している。眩しすぎるほどに輝いていた。そんな娘と、渋い持ち味の父親が、向かい合って話をしている。

日実ちゃんは、もうすぐ社会に飛び立つ。彼女が直面する課題について、父親と語り合っていたのだが、話が逸れて「女性はきれいでなくてはならない、外観を磨かなくてはならない」という彼女の主張が強く表現された。すると父親は「心の中の美しさ」などと野暮なことを持ち出す。娘は、そんなものは二の次であって、まずは綺麗でなくてはいけないと主張する。そこへ、意地悪バアさんがちょっかいを出す。「ねえ、日実ちゃんが年をとってしわくちゃになったらどうするの?」すると、愛くるしい笑顔が一瞬曇って「あたし、そしたら死んじゃう!」と弾んだ声が戻ってきた。

その夜私は、寝床の中で、二十歳の頃の自分を思い出していた。ツンツルテンのミニスカートを履いて、背伸びばかりしていた私に母親の年令が来るなど、あり得ない事だった。でも今ここにある私は、当時の自分の母親よりも遥かに年を取っている。死ぬ事もなく、平然と荒波を生き抜いて、白髪頭もしわくちゃも、さして苦にせず生きている。

あと数十年、日実ちゃんはどうなっているだろう。その時彼女は、30才以上年下の子供とどんな話をするのだろうか?長生きしてこそのお楽しみである。

今年の制作が遅れているので、収集家の方達は、「来年の1月にはどうなるのだろうか?デービッドが、今度の展示会までに10作品を作り終えるなんて、出来るはずがないじゃないか?」と思っておられることでしょう。実際そうなのですが、画廊の予約日程は私の迷いなど考慮してくれませんから、私の変則的生産率に合わせての調整はできません。ですから、いつものように、1月に開催します。一体何枚の作品が展示されるのか、それは蓋を開けてみないことには!そしてもちろん、ギャラリートークもあります。今後は、恒例の行事となるでしょう!