デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

バレンサミット

「バレン」という名前のグループについて、このニュースレターで説明したのは、もう2年前のことです。私が1997年に設立し命名した、インターネット上の公開討論をする会です。年を経るに従い、この組織は確実に成長し — 現在は何百人もの会員がいます — 遂に、もう私ひとりでは面倒を見きれなくなってしまいました。それで、組織を会員に譲渡し、グループの活動を自分達で計画運営するように頼んだのです。その後グループは、版画制作について話合うという最初の発想から大きく飛躍して、会員同士で版画を交換したり、たくさんの場所で展覧会を開いたりしてきました。会員達が近くに住んでいる場合には、小さな会合を開くこともありましたが、組織が世界規模なので、大きな会合を企画するのは難しかったのです。

でも今年の夏、初めて大々的「バレン会員のサミット」が、アメリカのカンザスシティで開催されました。もちろん、開催場所の影響で、参加者のほとんどは北アメリカの人達でしたが、ヨーロッパから2人、日本から私が1人と、ポツリポツリとではあっても、他の国からも来ていました。

では、集まって何をしたのか?ここに、バレンのホームページ(barenforum.org)に載せた紹介説明文を引用します。

「参加者は、ほとんどの時間を自発的に行動をする。「バレン」サミットは、情報を交換するための「枠組み」である。室内環境は、広く開放された空間で、テーブルと椅子があって、作業開始の準備ができている。参加者は、自分の道具・材料・予め用意した企画を持って来なければならない。「指導者」はなく、「生徒」もいない。大切なのは、能力に拘束されることなく、互いに分かち学ぶことである。」

一週間、正にこの通りでした。誰もがいつも何かを彫ったり摺ったりして忙しく、ほとんどの人は、特に自分が上達したいと思っている部分に焦点を合わせた作業をしていました。部屋の中には、30数人の版画家達がいて、求めても助言が得られない、などと言う事は、一度もありませんでした!

私の立場はちょっと例外で、自分の企画に沿って作業をするということはしませんでした。他の参加者達に「日本への掛け橋」のような役割をするのが目的だったからです。ほとんどの人達は、バレンを包む時の結び方や版木刀の研ぎ方を見る機会がなかったので、あれやこれやとやって見せるのに、くま無く時間を使いました。とにかく長い一日が続いたのです。毎朝7時頃作業開始で、夜中の1時2時までそのままです。疲れてもう続けられなくなると、私は自分の作業台の脇で床の上に横になって、朝の作業開始時間まで眠りました。(自宅でしているのと、正しく同じ状態!)

私達は皆たくさんの事を学びましたが、新しい技術を得ることよりも大切だったのは、関係がしっかりと固まった事でした。中には5年以上もEメールを通じて互いに意見を交わしていた友人達もいて、この「生の」接触は私達の友情にもうひとつの次元を加えることになりました。(私は、「デイブ、思ったより背が高いんだねえ!」と何回も言われました。実際、背は高い方じゃないのですが、おそらく、どちらかというと、そのう、... 細身なためでしょうか、皆がそう思い込んだらしいのです)

そして、もうひとつ、お伝えせずにはいられない話があるのです。私は、以前カンザスシティに行ったことがあります。学校の音楽関係の仕事をしていた時で、歴史があり規模の確立した音楽店をこの町に訪ね、その企画・販売方式について学んだのです。以来、25年以上が過ぎているので、私が次の事を知って、どんなに驚いたか想像してみてください。サミットを開催した古いレンガの建物が、... そうです、今から何年か前に、バレンのメンバーであるマイク・ライオンさんが自分の版画スタジオにするために買い取ったのは、その建物だったのです!アメリカ合衆国にあるすべての都市の、すべての建物の中の... そのまったく同じ建物に辿り着くなんて... しかも私は、カナダ、日本と本拠地を大きく移動しています。このバレンサミットの運命は、すでに決まっていたのでしょうか、さもなくば何だったのでしょうか! 

コメントする