デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

そうです...赤ん坊を入れて3人...私たちは医者に行って確かめました。子どもができたのです! 母親となる彼女はあまり若くなく、しかも初産だったので、羊水検査を受けるように勧められました。その結果、子どもの性別がわかることになりました。赤ん坊は女の子でした。妊娠がわかってわくわくしているところへ、子どもの性別までわかり、思いがけないボーナスをもらった気分でした。つまり、彼女のおなかにいる子どもの名前を考えることができるし、名前をつけてしまうと、どんな子どもが育っているのか感じられるような気さえしたのです。

でも、両親が違った文化を持っている子どもには、どんな名前がふさわしいのでしょうか?大人になった時、彼女がどちらの国に住もうとするのか、なんてどうやってわかるでしょうか?彼女には日本風の名前をつけるべきか、洋風の名前をつけるべきなのか?答えはもちろん、「両方」でしょう。彼女の母親が洋風の名前を選びました。「アン」(日本の読者は、おそらく、この名前から思い浮かぶことがあるでしょう!)そして、私が、日本風の名前を選びました。「ひみ」。でも、「選んだ」というのは正確な言い方ではありませんね。よくある名前の中から選んだというよりも、私が考えて創ったのですから。これはちょっとした冒険です、というのは、当時の西欧社会では、子どもの名前は、よくある名前の中から選ぶというのが普通で、それ以外の「変わった」名前だと、大きくなる過程で、様々な問題が起きる可能性があるからです。しかし、日本語ではあまり問題になりません。名前の響きがよくて、不快なイメージの同音異義語がない限りは、どんな名前でも受け入れられるのです。

私は辞書を持ち出して、どんな漢字が彼女の名前にふさわしいかを考えました(もちろん、彼女の母親の承諾を得ながらです)。迷信とか占星術にはまったく共感しない私は、実のところ、字画の良し悪しといったようなことはまったく気にしませんでした。(私はいい名前をつけることができたようです。彼女は自分の名前をとても気に入っているし、誇りに思っているようですから。最近のことですが、インターネットのチャットルームで、別の人が「ヒミ」というハンドルネームを使っていて、彼女は大変怒っていました。)

赤ちゃんが生まれる準備として、私たちはふたりとも「両親教室」に参加しました。しかしそこで習ったことは実際にはあまり役にたちませんでした。日実のお産は楽ではなかったのです。それは2日がかりで、結局、緊急の帝王切開をすることになりました。出産後は母子ともに集中治療室に入れられ、日実は点滴で栄養を摂り、母親のほうは、手術中、出血多量だったのを補うために輸血を受けました。私はその2日間、手術の時も含めて、ずっと彼女についていました。女性には笑われるかもしれませんが、この2日間は私の人生で、最も強烈で、体力及び気力を消耗する経験となりました。

その後、さらに衝撃的な事実が明らかになりました。その当時(1983年の春)は誰も知らなかったのですが、バンクーバー病院の血液は、エイズウィルスに汚染されていたのです。数年後、新聞で、当時輸血を受けた人のうち数百人がエイズで亡くなったという記事を読んだ時、私はあの日のことを思い出さなければなりませんでした。看護婦さんが、日実の母親に輸血するために、血液の入った袋を、棚から適当に取り出していたあの日...結局、私たちの家族は大丈夫でしたが...

この劇的な出産を経た後、私たちの生活はもとの心地よいものに落ち着きました。もちろん、新たに家族の一員となった日実は多くのことを要求しました。彼女は最初の数ヶ月、ひっきりなしに泣くタイプの赤ん坊でした。そのため、私たちはふたりともくたくたになってしまうことがありました。それでも、私たちは、できるだけ、以前と同じ生活を続けようとしました。すなわち、日実の母親は英語の勉強をし、私は、毎朝、音楽店に仕事に行って、夜には木版画にとりくむという生活です。この時期、私は1年で3つか4つの作品を作り上げました。古い日本の作品を復刻することもあれば、自分で原画を描くこともありました。ひとつの作品につき、どんなふうになるのかを見るためにほんの数枚摺るだけで、また次の作品にとりかかっていました。私は自分が版画家であるとはまったく思っていませんでした。いろいろ試してみている素人にすぎませんでした。

前にも言ったことがあるように、学校相手の音楽店にとって、秋は忙しい季節です。しかし、その時期を過ぎると、仕事はちょっと暇になります。私は社長のビルと話をして、しばらく休みをもらうことにし、その冬、また3ヶ月の休暇をとりました。日実は7ヶ月になっていて、日本とイギリスの両方のおじいちゃんおばあちゃんが、彼女にとても会いたがっていました。そこで、次のような旅を計画しました。カナダからアジアへ...そして、ヨーロッパへ...そして、振り出し点カナダへと地球を回って戻ってくる。7ヶ月の赤ん坊を背負っての、3ヶ月間の世界一周旅行?そのとおり、さあ、出発です!

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