デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
41号から最新号まで
1号から40号まで
Categories:
今回の百人一緒は「遅れを取り戻す」号とでも言えましょうか、長い間絡まったままになっていた何本かの糸を拾い出しています。
一本目の糸は、ちょっと前に始まった「スタジオ便り」です。どうなったのかと思っておられたことでしょう。地下に新しく仕事場を作るなどということは、やめてしまったのでしょうか?そんなことはありませんよ!今年は、6月に小旅行をしたために予定の遅れがでましたが、夏の間に工事を進めることができたので、今回は経過をお知らせしています。(ここにある写真は、新しくできた「作業台」から窓越しに眺めた様子です。)
次の糸は娘達の事で、最後にお知らせしてから随分過ぎています。ふたりとも近ごろはとても忙しくて、私達のために何かを書く暇が取れないようです。そんな訳で、彼女達に代わって私が近況をお知らせしています。
その他の記事は順調に進行しています。貞子も私も、担当コーナーの記事は楽しんで書いていますから、いつも締め切り以前に仕事を済ませています!
楽しくお読み頂ける記事がありますように!
この日本への2度目の旅行はまたもや冬の時期となりました。音楽店の仕事は、夏や秋はとても忙しくて休みをとれないのです。というわけで、私はまた、澄み切った美しい青空の日本を見ることとなりました。
この時の旅のことを話すと、多くの人が驚きます。そんな小さい赤ん坊をつれて、そんな遠くまで旅をしたのか、と。でも、私が思うに、赤ん坊というのは実はかなり強い生き物です。確かに彼らは「無力」です。食べるのも移動するのも大人の手を借りなければなりません。しかし、彼らは実に活動的で、健康そのものです。少なくとも日実ちゃんはそうでした。私たちは小さな「フードミル」を持ち歩き、食事の度にこれを使って私たちの食べ物のいくつかをすりつぶし、彼女が食べられるようにしていました。
彼女が生まれてしばらくは、連れ歩くのに、首を支えることのできる抱っこバンドを使っていましたが、この頃にはおすわりができるようになっていたので、私は軽いアルミのベビーキャリーを背負ってそこに彼女を座らせていました。彼女は私と同じ方向を向いて座っていたので、彼女の顔は私のすぐそばにあり、ちょっと後ろを向けば私は彼女と話をすることができました。バスでも、電車でも、歩いている時でも、いつも彼女はこの心地よい特等席から世界が過ぎ行くのを見ていました。もちろん、私の肩に頭をもたせかけて寝ていることもよくありましたが。
赤ん坊のことはこのくらいにしておきましょう。版画制作のほうはどうなったでしょうか?当時の手帳を見てみると、次のような書き込みでいっぱいです。
そう、私は、木版画制作についての知識や情報をできるだけ集めようとしていたのです。しかし、この時は、実際に制作に携わっている人と接触する機会はありませんでした。つまり、版画がどんなふうに作られているのかを見る機会がなかったのです。それで私は、もう一度安達さんと連絡をとろうと考えました。2年前の旅行の際、彼はとても親切にしてくれました。ですから、彼はまた、彫師や摺師が2階の仕事場で作業している様子を見せてくれるのではないか、と期待したのです。
日実の母親が電話をして訪問の約束をとりつけてくれ、ある朝私はそこへ出かけていきました。安達さんは近々行われる展示会の準備で少し忙しそうでしたが、私を2階の彫師の部屋へ連れて行ってくれました。その日仕事をしていたのは、ひとりの若い男性で、彫師にふさわしく堀本さんといいました。彼は英語をまったく話しませんでしたし、私も日本語はほんの少ししか話せませんでした。しかしそんなことはたいした問題ではありませんでした。私は彼の仕事を邪魔するつもりはなく、ただ、その仕事の様子を見て、ただひたすらじぃっと見て、気づいたことを書き留めたかっただけなのです。その時のノートは今も持っていて、私が堀本さんから学んだ事柄を見ることができます。葉の形を彫る時、大きな部分、また細かい部分で、彫刻刀をどんな順番で使えばよいか。彫刻刀を研ぐ時は刃をどんなふうに持てばいいのか。罫引と定規の使い方、その他多くのことを書き留めています。
そこには2時間くらいいたと思います。そして私は「ありがとうございました」と言って家に帰りました。翌朝、私はまた安達さんのところを訪れました。彼は、ドアのところにいる私を見て少し驚いたようでしたが、また2階に連れて行ってくれました。今度は摺師の部屋でした。ここで私は忙しそうにしている人たちと話す機会はまったくありませんでしたが、気づいたことを書き留めたり簡単なスケッチをしたりして多くのノートをとりました。
そして次にどうなったかはおわかりでしょう...3日目、安達さんがドアを開けた時、私がまたもやそこに立っているのを見て、彼の怒りは爆発しました。彼の言葉はわかりませんでしたが、言いたいことは明らかでした。「また君か!忙しいって言っただろう!またやって来るなんていったい何を考えてんだ?」彼は家の電話番号を聞き、私をそこに残して日実の母親に電話をかけに行きました。「いいか、この男に言ってくれ、もうたくさんだ、って。こっちはめちゃくちゃ忙しくてお客にかまっている暇なんかないんだよ...まったく、ちょっと甘い顔をしたらつけあがって!」そう言って電話機を私に押しつけました。彼女は強い語調で短く言いました。「お礼を言って、失礼をおわびして、今すぐに帰っていらっしゃい!」私はそうしました。日記を見ると、この日は1984年1月12日、となっています。ちょうど20年前のことです....あれ以来、そこを訪れたことはありません。
その後何年かして、この方たちに会うことがあった、ということも付け加えておくべきでしょうね。安達さんには時々職人組合の会合でお会いしますし、堀本さんは何度も私の展示会に来てくださっています。そしてたくさんの摺師の方たちもある年、展示会に来てくださって、私にバレンをプレゼントしてくれました!ここで20年仕事をしていますが、この人たちともっとおつきあいできれば、まだまだ多くのことを学ぶことができるでしょう...しかし、ここは日本です。そしてみんな...私も含めて...すごく忙しいのです!
数日後、私たちは日本を離れ、その後は完全な休暇旅行でした。1年間有効の世界周遊航空券を使って、足の向くままに各地を訪れました...香港へ、ドイツ(音楽ビジネスフェアーがありました)へ、ベルギーへ、そしてもちろん、イギリスへも行って、日実のもう一方の祖父母との時間を楽しみました。家を出てから3ヶ月後、私たちはバンクーバーへ戻りました。日実は10ヶ月になっていました。彼女はこの年令で最初の世界一周旅行をしたわけです!それからも、彼女は何度も空の旅に出ましたし、この号の別のページを見ていただければわかるように、今も旅を続けています!
しかし、私は...おわかりでしょう...音楽店の仕事にもどったのです!
地下に作っている仕事場の工事については、最後に進行状況をお知らせしてから随分と時が過ぎてしまいました。でも、ここ数ヶ月の間にはちょっとばかり進展しましたので、はかどり具合の分かる写真を御紹介します。
この部屋のコンクリート床は平らでなかったので、床板を水平に置けるよう慎重に作業をしました。貞子と私は、ホースを使う「水盛やり方」で全体が水平になるよう計測しました。
根太がきちんとしたら、その間に厚い延べ綿のようなグラスウールの断熱材を置きます。
こうして床下に断熱材を入れておくと、できあがってから部屋の保温状態に大きな違いが出てきます。
コンクリートの梁の部分にも、囲いを作って断熱材を入れています。
北面の壁には、とても密度の高い15センチ厚さの断熱材を用いました。外側には防風シート、内側には防湿シート、そして3層のガラス窓ですから、すきま風が入る余地などまるでない完璧な壁になるはずです!
これで床の下地は完了、この出窓風の所に、摺の仕事をする場所を作る準備ができました。
「最終的には、ここが摺の作業場となる計画です。」 でも冬が近付いています。
日本ではここ数年、税金に関する議論が盛んです。私達の社会を取り巻く大きな変化があるので、政府は公共経済の構造を見直さなくてはならないからです。ちょっと前に受け取った地元の税務署からの知らせには、収集家の方達にはあまり喜ばしくない内容が書かれていました。中小企業に対する消費税納付規定の例外が廃止されて、私はもうその適用を受けることができなくなるからです。来年から、私の版画に消費税を加えなければならないので、今まで 6,000円の価格でしたが 6,300円になります。(これは日本国内に住むお客様だけで、外国向けには課税されません。)
私個人としては、もっと以前に変更が行われるべきであったと思います。なぜなら、中小企業への適用例外を誤用しているケースが多いからです。年収3千万円(1日平均80,000円ちょっと)以下の企業は、消費税を政府に納めることを免除されますが、ほとんどの企業は税分を取り続けて、それをそっくり懐に納めている実情です。私は、版画の材料全てにかかる消費税を支払っていても、収集家の方達に負担の肩代わりをお願いせずにやってきました。でも、私にも納税義務が出てくると、このままではやっていけないのです。
課税制度の見直しが行われている事は誰もが知る所ですから、こうした変更があることは、予期していました。それで私は、今年に入って新しい帳簿を考案する準備に取りかかっていたのです。長年お客様を信用する会計方針でやってきましたから、版画を送ったら支払ってくださるのをただ待っているだけでした。年度の終わりになると、入ってきた金額を合計して諸費用を差し引き、差額を収入として計上した上で所得税を支払ったのです。ですから、時たまお客さまから、「デービッド、あの版画のお金支払ったかしら?」と聞かれても、的確な解答ができませんでした。支払われたかどうかを記録していなかったのですから。なんとも非実務的なやり方ですが、私の繊細な版画を気に入って集めて下さる方達は、性格も同じく几帳面で代金はきちんと支払ってくださる、ということが経験上わかっていたからでもあります。
このような経理方針が賢明でないのは当たり前ですが、私としては、完璧に使いこなせる帳簿を考案したかったので、時間の取れないことを口実に作業を伸ばし伸ばしにしてきていました。ところが、課税制度の変更が目前に迫ってきたのでは、重い腰を上げざるを得ません。税務調査が入ってから大慌てする始末になったのでは大事ですから! そんな訳で、現在のコンピュータープログラムの方式を調べるという下準備をしてから、顧客に関する事務処理全般が私のマックでできるよう、包括的ソフトを自分で作りました。
そのソフトは、収集家全員の名前と私の制作した作品全てを「知って」いて、誰がどの版画を集めているかをきちんと記憶しています。そして、どの版画を誰に発送すれば良いかを市川さんが分かるような表や、各々に同封する納品書や振り込み用紙、そして宛名のラベルも、必要な資料は全てそこから引き出せます。資料はすべてバイリンガルになっていて、国内の収集家には日本語で、外国の方には英語でお知らせします。郵便局あるいは海外から送金されてから、納品控えと適合させるのはとても簡単です。また、支払われた消費税はもちろん記入されていますから、納税制度が改正されればすぐに納付することができます。
ソフトを作るのは、結構楽しいものでした。ほぼ20年前に似たような作業をしていますが、以来プログラミング分野では大きな変化があったことが良く分かります。現在利用できるコンピューター言語のお陰で、単調な骨折り仕事は随分と省くことができ、作業をするのがもっと面白くなっています。プロのプログラマーとして開業するつもりはありませんが、こういった仕事をする能力も、伝統的職人が生き残って行くための大きな助けとなるのは確かな事... 現代ではおそらく、両方をこなせる能力が重要なのでは...。
ひとたびシステムを可動し始めると、何年も以前に音楽店で納品書を作るプログラムを作った当時を思い出さずにはいられません。「ハリファックスから羽村へ」の中で、私はこう書いています「プリンターから流れ出てくる請求書の山を見たときは感無量でした。」(45号より引用) そして今、自分の事業で同じ感動を味わっています、「山」では誇張し過ぎになりますが!
昔こんな歌詞の歌があった、「月がとっても青いから〜遠回りして帰えろ〜」。子供心に、何て素敵な歌詞なのだろうと思っていた。残念な事に、父を早く亡くして女家族となった我が家では、暗くなればすぐに雨戸を閉められてしまったし、学校の帰りが遅くなって帰り道が暗くなれば月どころではなかった。叱られるのが恐くて、ころばないように必死に走って帰ったから。
けれども幸せな事に、成人してからは、たくさんの人達と月を眺めてきた。のんびり月あかりを楽しめる環境というのは、当然ながら、雑踏の中ではない。月が明るく感じられる程度の闇とほどよい静けさの中だから、ゆったりと素直な心になれる。ルナテックの語源を教えてくださったのは、同僚でもある年輩の先生だった。キャンプファイヤーの火が消えかかっていたっけ、そう、あれは確か山荘での合宿だった。
長い人生の旅路は、山あり谷あり、心の中が暗くなってゆとりがなくなれば、美しい月の存在など忘れてしまう。そして、どんどん闇の中に落ち込んで行く。ところが、そんな月日が続くと、決まって誰かが「ほら、月がきれいだよ」と声を掛けてくれる。ポンと背中を押されたように、窓を開けて月を見ると、どろどろした濁った空気が流れ出ていき、ふっと心が軽くなった。この「誰か」の中のにデービッドがいる。何年か前、うつ向いてばかりいた私に、電話の向こうで「今夜の月見た?」。受話器を持ちながらベランダに出たら、大きな大きな月がそれこそポッカリ浮いていたっけ。
あの人と、この人と、月を眺めながら語り合った人はたくさんいる。で、ほんの最近気付いたことなのだが、月明かりの下だと人はきれいに見える。残念ながら、顔の凹凸が深いデービッドは影も濃くて半分は見えなくなってしまうのだが、日本人の場合は程よいデコボコの為なのだろうか、誰でもきれいに見えてしまう。そんなことを考えていたら、ふと「版画の見方」に思い至った。障子越しとか雪明かりとか、おまけに平らに持ってうんぬん、とデービッドはおっしゃいますけど、こういう状態だと微かな凹凸にやわらかな影ができるから、人間だって同じではないかしら。
あいにく、西洋の女性を月明かりでじっくり拝見したことはないのだが、もしかしたら、和紙と日本人の肌とは、共通した質感があるかもしれない。光源氏が次々と女性に夢中になったのは、月あかりとロウソクの灯火のせいかしらん?
日実と富実をカナダに送り出してから、折に触れてこのニュースレターに何かを書くように頼んできました。ふたりがバンクーバーでどのような暮らしをしているのか、読者の方達にもお知らせしたかったからです。最初の数年はこの頼みに応じ、学校生活や日々の活動状況についてたくさん書いてくれました。でも、成長して自分達の事で忙しくなると、もうあまり関心を示してくれなくなったのです。おそらく、このニュースレターを読むことさえしないのでしょうから、記事を書くなどとうてい無理なことでしょう!
そんな訳で、私が彼女達の近況をという運びに...(近ごろは、頼んでも写真すら送って来ない!)
富実は18才、この秋からバンクーバーの大学に通っています。昨年、彼女の仕事について書きましたが、インターネット上の店を開いて古い版画を販売していました。売れ行きは好調だったのですが、現在は店を閉めています。高校を卒業した時点で、この仕事の分野を広げるのでなく大学に行くことに決め、現在は勉強に専念しているからです。
彼女はまだ、どんな職業をめざすかは決めていません。様々な分野を開拓し、友達を増やし、世界に向けての視野を広げながら大学生活を送るうちに、これという何かを掴むと良いと願っています。
真面目に勉強しつつ友達との付き合いも結構うまくやるという風で、同じ年令の頃の私と較べると富美の方はずっとバランスがとれています。(私は、どちらの方もあまりうまくできませんでした!)通っているのは公立大学ですから、経済的負担は軽く済んでいます。親として彼女の教育に援助できるのは嬉しいことで、そのうち何を見い出すのか楽しみに見守っています。
日実の方は20才、どちらの国(日本とカナダ)にあっても法的に成人で、ほぼ「親元から飛び出した」状態と言えるでしょう。大学なんぞはまるで眼中にないまま落ち着き所を捜していましたが、遂に「落ち着いて」くれました。1年程前のことですが、興味のある美容について勉強する学校に行き、ネイルアーティストとしての資格を得ました。誰とでも気軽に話のできる快活な性格の彼女にはもってこいの職業です。
バンクーバーで仕事を見つけるのはなかなか難しいので、情報網を広範囲に拡大した結果、今年の夏に就職が決まりました。たくさんのクルーズ船で美容サロンを経営している会社です。こうして記事を書いている今、彼女はインスピレーション号という、西カリブ海を1週間で巡るカーニバルクルーズで仕事をしながら暮らしています。今日は木曜日ですから、この船はケイマン諸島を出発してメキシコのコスメルを航行しているはずです!
彼女はあまりメールを送ってきませんが、仕方ないですよね。日中は絶えまないお客さんを相手にサロンで目一杯仕事をし、夜は船で働く他の連中と船底の部屋で楽しく過ごすというように、生活を満喫していることでしょう!写真があると良いのですが、1枚もないとは残念です。もしも旅行パンフレットがありましたら、景観を御覧になる事ができるでしょう、焼け付くようなカリブの太陽、青い海... 船の外に首を出して楽しむ時間が、日実ちゃんにもあると良いのですが!
父親として、ふたりのベィビーがこうして成長するのは、嬉しい限りです!
お気付きですか?最初のページの縁にある丸には、まだ6つしか絵が埋め込まれていません。この調子では、1月の展示会で第5集の作品全部を飾るのはとうてい無理です。せいぜい8枚でしょうか、それすら確信が持てません。
そうしたら、来年はどうなるのでしょう...もっと遅れる?実は、ちょっと考えている計画があります。遅れを取り戻すと同時に、収集家の方達には「幕間」的な趣向です。まだ詰めの段階には至っていませんが、展示会までには、2004年の計画についての準備を完了させる予定です。