デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

この日本への2度目の旅行はまたもや冬の時期となりました。音楽店の仕事は、夏や秋はとても忙しくて休みをとれないのです。というわけで、私はまた、澄み切った美しい青空の日本を見ることとなりました。

この時の旅のことを話すと、多くの人が驚きます。そんな小さい赤ん坊をつれて、そんな遠くまで旅をしたのか、と。でも、私が思うに、赤ん坊というのは実はかなり強い生き物です。確かに彼らは「無力」です。食べるのも移動するのも大人の手を借りなければなりません。しかし、彼らは実に活動的で、健康そのものです。少なくとも日実ちゃんはそうでした。私たちは小さな「フードミル」を持ち歩き、食事の度にこれを使って私たちの食べ物のいくつかをすりつぶし、彼女が食べられるようにしていました。

彼女が生まれてしばらくは、連れ歩くのに、首を支えることのできる抱っこバンドを使っていましたが、この頃にはおすわりができるようになっていたので、私は軽いアルミのベビーキャリーを背負ってそこに彼女を座らせていました。彼女は私と同じ方向を向いて座っていたので、彼女の顔は私のすぐそばにあり、ちょっと後ろを向けば私は彼女と話をすることができました。バスでも、電車でも、歩いている時でも、いつも彼女はこの心地よい特等席から世界が過ぎ行くのを見ていました。もちろん、私の肩に頭をもたせかけて寝ていることもよくありましたが。

赤ん坊のことはこのくらいにしておきましょう。版画制作のほうはどうなったでしょうか?当時の手帳を見てみると、次のような書き込みでいっぱいです。

  •  電車で有楽町へ リッカー美術館 
  •  電車で渋谷へ 太田博物館 
  •  電車で上野へ 国立博物館 
  •  電車で神保町へ  
  •  電車で赤坂へ 島野さん訪問、版木注文

そう、私は、木版画制作についての知識や情報をできるだけ集めようとしていたのです。しかし、この時は、実際に制作に携わっている人と接触する機会はありませんでした。つまり、版画がどんなふうに作られているのかを見る機会がなかったのです。それで私は、もう一度安達さんと連絡をとろうと考えました。2年前の旅行の際、彼はとても親切にしてくれました。ですから、彼はまた、彫師や摺師が2階の仕事場で作業している様子を見せてくれるのではないか、と期待したのです。

日実の母親が電話をして訪問の約束をとりつけてくれ、ある朝私はそこへ出かけていきました。安達さんは近々行われる展示会の準備で少し忙しそうでしたが、私を2階の彫師の部屋へ連れて行ってくれました。その日仕事をしていたのは、ひとりの若い男性で、彫師にふさわしく堀本さんといいました。彼は英語をまったく話しませんでしたし、私も日本語はほんの少ししか話せませんでした。しかしそんなことはたいした問題ではありませんでした。私は彼の仕事を邪魔するつもりはなく、ただ、その仕事の様子を見て、ただひたすらじぃっと見て、気づいたことを書き留めたかっただけなのです。その時のノートは今も持っていて、私が堀本さんから学んだ事柄を見ることができます。葉の形を彫る時、大きな部分、また細かい部分で、彫刻刀をどんな順番で使えばよいか。彫刻刀を研ぐ時は刃をどんなふうに持てばいいのか。罫引と定規の使い方、その他多くのことを書き留めています。

そこには2時間くらいいたと思います。そして私は「ありがとうございました」と言って家に帰りました。翌朝、私はまた安達さんのところを訪れました。彼は、ドアのところにいる私を見て少し驚いたようでしたが、また2階に連れて行ってくれました。今度は摺師の部屋でした。ここで私は忙しそうにしている人たちと話す機会はまったくありませんでしたが、気づいたことを書き留めたり簡単なスケッチをしたりして多くのノートをとりました。

そして次にどうなったかはおわかりでしょう...3日目、安達さんがドアを開けた時、私がまたもやそこに立っているのを見て、彼の怒りは爆発しました。彼の言葉はわかりませんでしたが、言いたいことは明らかでした。「また君か!忙しいって言っただろう!またやって来るなんていったい何を考えてんだ?」彼は家の電話番号を聞き、私をそこに残して日実の母親に電話をかけに行きました。「いいか、この男に言ってくれ、もうたくさんだ、って。こっちはめちゃくちゃ忙しくてお客にかまっている暇なんかないんだよ...まったく、ちょっと甘い顔をしたらつけあがって!」そう言って電話機を私に押しつけました。彼女は強い語調で短く言いました。「お礼を言って、失礼をおわびして、今すぐに帰っていらっしゃい!」私はそうしました。日記を見ると、この日は1984年1月12日、となっています。ちょうど20年前のことです....あれ以来、そこを訪れたことはありません。

その後何年かして、この方たちに会うことがあった、ということも付け加えておくべきでしょうね。安達さんには時々職人組合の会合でお会いしますし、堀本さんは何度も私の展示会に来てくださっています。そしてたくさんの摺師の方たちもある年、展示会に来てくださって、私にバレンをプレゼントしてくれました!ここで20年仕事をしていますが、この人たちともっとおつきあいできれば、まだまだ多くのことを学ぶことができるでしょう...しかし、ここは日本です。そしてみんな...私も含めて...すごく忙しいのです! 

数日後、私たちは日本を離れ、その後は完全な休暇旅行でした。1年間有効の世界周遊航空券を使って、足の向くままに各地を訪れました...香港へ、ドイツ(音楽ビジネスフェアーがありました)へ、ベルギーへ、そしてもちろん、イギリスへも行って、日実のもう一方の祖父母との時間を楽しみました。家を出てから3ヶ月後、私たちはバンクーバーへ戻りました。日実は10ヶ月になっていました。彼女はこの年令で最初の世界一周旅行をしたわけです!それからも、彼女は何度も空の旅に出ましたし、この号の別のページを見ていただければわかるように、今も旅を続けています!

しかし、私は...おわかりでしょう...音楽店の仕事にもどったのです!

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