デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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この「百人一緒」、やっといつも通りの12ページに戻ることができました。前号は2回とも8ページしかなく、これではお伝えしたい記事を全部含めることなどできませんから!
今年の夏、私のところはちょっと混雑気味でした。娘達はふたりともやって来ましたし、彼女達が帰ると入れ違いに「版画を作るお客さん」が8月いっぱい滞在していたからです。このお客さんについては、今回の記事でお読みいただけますし、いつものように、「ハリファックスから羽村へ」の話も続いています。
今回は「スタジオ便り」がありません。夏の間、地下2階まで降りて仕事場作りをする暇はとてもなかったからです。その代わり、「貞子のコーナー」が帳じり合わせをしてくれました。
皆さんが楽しめる内容になっているといいのですが!
私が目白に訪ねていった版画の出版元は、アダチ版画研究所というところでした。私がバンクーバーにいた頃、そこの版画をいくつか見たことがありました。その数年前に、この研究所はいくつかの版画のセットを世界中の大学や図書館に寄付していて、私は家の近くの大学にあるアジア研究図書館で、それらを熱心に見たものです。また、この研究所についての雑誌の記事を読んだこともありました。そこには、2階にある仕事場の写真が載っていました。3〜4人の摺師が作業台に向かって並んで座っている大きな部屋と、3人の彫師が版木に向かっているもう少し小さな部屋。更に、ジェームズ・ミッチェナーが日本の版画について書いた本で、アダチ研究所のことを読んだこともありました。
そういうわけで、東京には他にも活躍している木版画の出版元があったのですが(とりわけ悠々堂や高見澤など)、私にとって、訪ねるべきところはアダチ研究所だったのです。伝統木版画に関する知識の「源泉」...聖なる杯...
その朝の私たちの訪問はほんの数時間のものでした。「源泉」で過ごすには十分な時間だったとはいえません。足立さんはとても親切で、「自分で彫りと摺りをやって版画を作るつもりだ」という私の話をよく聞いてくれました。その時の会話のほとんどはもう覚えていません。当時、私の日本語はまったく初歩的なもので、私は聞いたことのほとんどを本当には理解できていませんでした。ただ、2階の部屋を見てもいいよ、と言われたことは覚えています。そのふたつの部屋は、私が雑誌の写真で見たのとそっくり同じようでした。私たちが戸口のところに立って見ている間、職人さんたちは、完全に私たちを無視していました。その時の私の気持ちを思い出します...どうかここにしばらくいさせて下さい!ここに座って彼らの仕事を見て、彼らと話をして、そのことをノートに書き留めたい...でも、もちろん、その願いはどれもかなうはずのないものでした。この人たちは忙しく版画を作っているのです。ここは学校ではなく、仕事場です。私はここをちょっとのぞいた、というだけで満足しなければなりませんでした。
そこを立ち去る前に、私たちは数枚の版画を買いました。版画制作の過程についての知識をたくさん持って帰るのが無理ならば、少なくとも、その過程の最終結果としての見本をいくつか持って帰りたかったのです!そうして訪問を終え、私たちが玄関で靴を履いている時、安達さんは、未使用の版木がうず高く積まれている高い棚に手を伸ばして一枚を引き抜き、私にくださったのでした。
これはとてもありがたいことでした。後にこの版木を実際に使って版画を作った時、私は更に感謝の念を深くしました。とてもいい版木だったのです。彼はどうしてあんなことをしてくれたのでしょう。あの当時、私が有能な版画家として成功する素質がある、と示せるようなものを私はたいして持っていませんでした。私が思うには−きっと彼にはわかっていたのです。私も後にわかるようになったことですが、「版画制作をやりたい」と語る人はたくさんいるけれど、実行する人は少ししかいないのです。私はまだほんの初心者でしたけれども、お粗末ながらもとにかくいくつかの作品を持ってきていたので、後者の仲間に入る、と考えられたのではないかと思います...そしてその訪問が、私たちの3ヶ月に及ぶ日本での冒険の最後となりました。その数日後、いろいろとおみやげを買い込んでから、私たちは太平洋を飛び越え、小さな地下室へともどっていきました。私は版画への意欲をかきたてられ、もっと版画を作りたい、と思っていました。しかし、その前に、ひとつ解決しなければならない問題がありました。どうやって生活していけばいいのでしょう?
あの音楽店で大きなコンピュータープログラムを作り上げたわけですから、私はその線で仕事を探してみることにしました。しかし当時はデスクトップのパソコンが出回り始めたばかりの頃で(1982年の初めでした)、私のような個人のプログラマーからの提案に耳を貸そうとする会社の経営者は多くありませんでした。彼らにとって、コンピューターというのは、白衣を着た男達によって操作される大きな機械というイメージだったのです。当然のことながら、私が彼らの仕事にとって役に立つ何かができるんだ、ということを納得させるのは大変困難なことなんだ、とわかりました。月日は過ぎていき、貯金は日に日に少なくなっていきました。
そんなある朝、あの音楽店の社長のビルから電話があったのです。長い間この話を読んでくださっている読者の方は「デジャブ」を感じるかもしれませんね。彼は、またしてもおもしろい仕事をもちかけてきてくれたのです。未だ知られぬ羽村への道はここでまた大きな遠回りをすることになりそうでした...
むかしむかし(これほど遥か以前の事のように感じます!)私は、毎日事務所に通うという「普通」の仕事をしていました。下請け業者や顧客と会うことも仕事の一部でしたから、予約の日時を記しておくのは当然必要なことでした。そういった予定は、週に2、3回あるのが普通でしたから、机の上にあるカレンダーにちょこっと書き込むだけだったと思います。なんとも、素人っぽいやり方です!今月、宇田川武さんとおしゃべりをしていた時、- 彼は私の作品の収集家です - 彼の手帳を肩ごしにちらりと見て初めて納得しました。見開き1ページで、ひと月分が一目瞭然に見られるようになっていて、余白がまるでないのです。誇張ではなく、一分たりとも隙間がないかのようでした。
同じような手帳をお持ちで、これを読んでも、肩をすくめるだけの方が多いかもしれません。でも、私にとっては、かなり衝撃的だったのです。こんなにいつも、あちこちと走り回らなくてはいけないとは、一体どんな職業なのでしょうか?実は、この手帳にある予定で「本職」の割合は、ほぼ半分程しかないという結果になるのです。宇田川さんは東京港の港湾計画やコンテナターミナル建設を担当する東京都庁・港湾局港湾整備部に勤務し、東京湾の宣伝活動なども仕事の一部としておられます。このことから、彼が出席しなくてはならない会議や催し物が多く、時間外になることも多いだろうということは分かりますが、一日に16時間にもなるはずがないと思うのですが...?
では、彼の一日毎の予定から「アフターファイブ」の所を覗いてみましょう、「課題」がはっきりするかもしれません .... 琴や琵琶を演奏する5人の女性による「女楽」の演奏会打ち合わせ、カッパ好きの集まりが作った河童連邦共和国「利根川カッパ村」の会合、ハワイアン(ハワイ島に代々伝わる民族音楽としての)を一緒に習っているウクレレ仲間達との発表会リハーサル、月刊紙「下町タイムス」のトップにくる新聞名を彼が江戸文字で書く件について編集者との打ち合わせ、などなど。(お気付きですか?今回は表紙にある「百人一緒」のタイトルがいつもと違う文字になっていることに!)
何が彼の活動のテーマか、推測できますか?私には見えてきました...ただちに思い浮かんだのが「伝統」という言葉です。伝統とは言っても、私の仕事の場合とはかなり違った意味合いですが。私は、昔の版画をただ復刻しているだけなので、過去そのままの中に生きているのですが、宇田川さんや共に活動をしておられる方達の場合は、伝統と現代の生活を結びつけるところに大切な点があるように思われます。世界中で最も活気に満ちた現代都市のひとつにあって、保存する価値のある文化を継承存続させていこうと活動しておられるのです。
一緒に話をしていて、その他の点も見えてきました。彼は、関わる活動の中のどこにあっても、その他大勢の中に留まっていないということです。たいていの場合、とても活動的な一員で、運営に直接関わっているです。彼はきっと、名刺にそういった役割全てを書くことをとうの昔に諦めてしまったのでしょうが、もしも私が彼の名刺を作ってみるとしたら、職業名としては、一語で最も包括的に表現できる「ファシリテーター」という言葉を使うと思います。'facilitate'という動詞には、「手助けをする」「向上させる」などから、「力を付与する」といった内容まで幅広い意味がありますが、これら全てが、宇田川さんの日々長時間行っていることを説明していると思うのです。
彼に比べると私は、自身の計画のために一日中仕事場に閉じこもっていて、身勝手な人間のようですが、社会には両方のタイプが必要だと思うのです。ひとつのことに集中して力を注ぎ、そのことばかりを考えている人間が必要な反面、糸を束ねてもっと大きな「布」に統合していく人間も必要なのです。宇田川さんも私も、それぞれが性格に合った仕事を選びました。私は自分の仕事に満足ですし、彼も又、天職を見つけたのです。彼が外国から港湾局に訪ねてくる公的来賓のために考案した、伝統的図柄を染めた手ぬぐい(写真)を見せてくださった時の目の輝きを見れば、明らかです!
ゆっくりお話のできたお陰で、宇田川さんが私の作品を集めてくださる意味もいっそう理解できるようになりました。それにしても、毎月お送りしている作品を開く時間があるとは思えないのです。すると彼は、「大丈夫ですよ。寝る時間を少しだけ削ればいいのですから!」
数ページ前の「ハリファックスから羽村へ」の中で、「伝統木版画に関する知識の '源泉'...... 聖なる杯...」という表現を使いました。これを読まれた日本の方は、どうしてこんな見るからに誇張した言い回しをするのか、といぶかしく思っておられることでしょう。日本にいれば、木版画の手法に関する知識は手軽に得られます。関係した資料はどこの図書館にも置いてありますし、どの地域にも、少なくとも何人かは趣味で版画をしている人がいますから、教えてくれる人がいない、などということはまれでしょう。
ところが外国での事情は、当然のことながら随分と違ってきます。版画に関する英語の本は、長年に渡って何冊か出版されてきていますが、版画のできる人に直接会うとなると、これはほとんど不可能です。版画を作るのには、さして「高度な技術」は必要ありませんから、初歩的な作品ならば、かなり単純に作れます。でも、その域を越えて精巧な作品を作るとなると話は違ってくるのです。単純な材料と技術を極度に精妙かつ洗練したやり方で使いこなすという、300年プラスαの年月を掛けて発展・修得されてきた技術を、独学の人間がおいそれと復元などできるはずがないのです。
それで、当時の私のような立場にある—カナダに住んでいて、紙はどの程度湿らせたらいいのか、絵具はどうやって混ぜるのか、バレンはどんな風に握って使うのか、と際限なく苦闘している—者にとって、日本にあるアダチ版画研究所を聖なる杯にたとえるのは、決して行き過ぎた誇張ではなかったのです。
「ハリファックスから...」の中にある訪問から20年以上が過ぎました。そして今、ここ日本に仕事場を構えて日々を過ごしているのは私自身です。彫り終わった版木の束や積み重ねられた和紙の山、絵の具その他の材料の置かれた棚、版画の詰まった引き出し、こういった物に囲まれて座っているのは他ならない私なのです。また、時折信じ難く思えるのですが、私の仕事場が同じような聖なる杯のように見える人が出てきた、ということにも気付いたのです。
ちょっと説明を挟みますが、私は自分の仕事場を、長い歴史に積み重ねられた知識の蓄積とも言えるアダチ研究所と同等だなどとは、よもや考えてもいません。すべては比較の問題で、20年前のデービッド — あるいは僕のような立場にあった者 — にとって、この部屋へ来るということは源泉への訪問にほかならないのです。
今まで、私に版画を習いたいと申し出た人はたくさんいました。たいていは穏便に、あまり乗り気のない対応をしています。初めのうちは、そういった頼みに対して寛大だったのですが、尋ねてこられても結局は時間の無駄に終わるということが分かってきたからです。仕事場にやってきても、その後、版画作りを続ける人はいなかったからです。この仕事(少なくとも、私の専門である伝統版画の場合)は、恐ろしくのろのろとしか進展せず、手間暇のかかる繰り返しの多い作業ですから、いくつかの性格的特徴の「組み合わせ」を備えていることが必要です。忍耐強い、頑固である、満足を先延ばしにして取り止めのない試練に耐えられる、そして中でも、必要とあらば無駄を受け入れて最初からやり直す覚悟がある、といった性格です。昔、若者達が版画職人の見習いになった頃には、資質としての性格など考慮されることはありませんでした。でも、現代のように自分で職業を選べるようになると、上記の特別な「組み合わせ」が必須となるのですが、条件を満たすような人はそういるものではありません。
ところが今年、初めて違う経験をしたのです。ウクライナから来た若者が、去年の夏、訪ねても良いかと連絡をしてきました。彼はその時、日本に短期滞在をしていたので、私の了承を得てある日の午後にやってきました。会ってみると、感じの良い魅力のある人物で、なかなか良い質問をします。その時点では、相互に何の約束も交わしませんでしたが、どうやら彼は、私が版画を習いたい人と時間を過ごすことをどう思っているかを察知したようでした。というのは、この冬に小包が送られてきて、その中には私の好奇心をそそる自作の版画が2枚入っていたからです。そこには、私が確信するのに必要なすべてがありました — 彼は、実行家であって多弁家ではないと。そして今年の春、夏の数週間をここで制作しても良いかと聞いて来た時には、文句無しの応諾でした。
スラブ(Vyasheslav Varlakov)は、こうして、ほとんど8月一杯をここで過ごしました。地下1階に彼が作業のできる空間を作り、スーツケースに折り畳んで運んで来た彫り台を組み立てると、ほぼ毎日、台に屈み込むようにして何時間も制作をしていました。スラブは、金属や宝石などを主に扱うプロの彫金師ですから、こういった作業には馴染みがあります。こんな確実な専門職があるのに、彼は版画制作に惹かれていて、できる限り深く探究したいのです。
彼は私の弟子ではありませんし、私は彼の師ではありません。彼は完全に自発的に学んでいるのです。丁度私が「階段をよじ登って」上達していた頃のようにです。この夏、彼が収穫できた主な事といえば、私と肩を寄せ合うようにして、仕事のリズムや紙の湿り具合を感じることができ、彼のやり方をちょっとばかり日本の伝統的手法に近付けることができた、といった単純な事ばかりでしょうが、これこそ、私がかつてむちゃくちゃに望んでいたことなのです。
スラブは現在、自宅(ニューヨークに居住して仕事を持っています)に戻っていますが、数カ月もすれば郵便小包が届くだろうということが、私には分かります。ここにいる間に彫っていた作品の最終結果としての版画です。私は「手伝う」ということはしませんでしたが、おそらく、作品のところどころに、私から受けた影響を見つけることができるはずです。それは、ぼかしの付け方かも知れませんし、重ね摺りをする色の領域の決め方かも知れませんし、あるいはまた、私自身にも分からない何かかも知れません。スラブが、ここに来る価値があると思い続けているのなら、きっといつか再び戻って来ることでしょう。この家のどこかに場所を見つけて作業台を備え、窓の外から聞こえてくる清見川のせせらぎの音を耳にしながら、次の版画を彫ることでしょう。
彼の後に、あと何人が続くのでしょうか....?
今から1年半ほど前、木版画について調べている時に、偶然デービッドのホームページを見つけました。このサイトの豊かな内容と質の高さに感銘を受けたことはもちろん、全体の情報をこれほど巧みにまとめ、木版画の技術や材料に関して述べた部分と同じくらいに、書いてある話やエッセイも面白いので、どんな人物かと興味をそそられたのです。
彼のサイトをひと月程かけて読んだ後、翌年の夏に日本に行く予定があったので、その間に訪問してもよいかどうかをEメールでデービッドに問い合わせることにしました。でもデービッドは、大阪での展示会準備を前に時間的制約があって申し出を受けられない、と丁寧に断ってきたのです。それでも、どうしても希望するのならば、展示会場の彼の持ち場に来ても良いと付け加えてありました。私は書かれていた通り、自分の初めて彫って作った版画を持参して会いに行きました。丁寧な対応をするデービッドは、その作品のつたなさにもかかわらず、私の彫った版木に興味を示し、話が終わる頃には青梅の仕事場に来るように誘ってくれたのです。私は、何回か訪問しました。そして、デービッドが仕事をする様子を観察し、日本の版画文化と版画職人について質問をしたり、デービッドが集めた本や版画を見せてもらいました。日本での滞在が終わりに近付いた頃には、デービッドが友達のように思えるようになり、数カ月後に版画をもっと学ぶ目的で再び日本に行こうと考え始めた時には、彼の仕事場の片隅に彫台を構えてもいいか、と気安く尋ねられるようになっていました。
昨年の訪問では、日本の木版画を目と耳からしか学べなかったのですが、今回はそれとは対象的に、実際に彫って摺りながら学ぶ事ができました。私は自分の道具と彫台、それにニューヨークにいる間にデザインを写しておいた版木も持参しました。作業を始めるとデービッドは、私の間違いを指摘したり、道具や材料の扱い方を示したり、また役に立つ技術や難題を切り抜けるこつなどを説明したりしながら指導をしてくれたのです。彼はまた、日本に長く住んだ経験によって深く理解できるようになった職人文化とその本質に関して、彼の見解を説明してくれました。私自身、興味津々であっても把握できなかった日本文化の様々な面—西洋人には理解しがたい面—があったので、この話はとても楽しく聞かせてもらうことができました。それと同時に、私自身の学習とデービッドとの友情が日本の伝統的子弟関係の妨げを受けていないのはとても有益なことだった、ということに気付きました。そういった仕事場では、重々しいしきたりがあって、長い弟子の期間にゆっくり仕事を覚えていくように仕向けられているはずですから。短期間にできる限り多くのことを吸収しなければならない状況にある私の場合、これではどうにも埒が明きません。
デービッドに教えを請う事ができたのは、かけがえの無い経験でした。滞在中はお世話になり、快く時間を割いて教えてくださったことに深く感謝しております。
日本に渡り、奔放に一人歩きをしてしまう言葉、というのがかなりある。「トレーニングパンツ」などはその良い例で、乳幼児がオシメをはずす練習用パンツを日本の成人がはいてることになる。私は、イギリス生まれのデービッドとの会話の中で、英単語に関する面白い発見をたくさんしているが、中でもたいそう気に入っているのが 'ディナー' という名詞のマジックである。英語の 'dinner' は一日の一番ごちそうのある食事のことで、日本語では夕食に当たるのだが、これをカタカナの「ディナー」にすると、ちょっと気張った豪華な食事という意味になる。このひとつの単語の持つイメージのずれを重々承知の上で、尚かつ楽しんでしまったお話である。
内緒の話だが、デービッドと知り合ってまだ間もない頃、彼がこの言葉を使う度に素敵に見えた。彼がこの言葉を発すると、妙に気品が加わるのである。当時は、まだ小さな娘ふたりを抱えた男やもめ。しかもカナダ人とくれば、どんな食生活をしているのか、私には検討もつかなかった。それにしても、毎日 'ディナー' を作って食べているとは到底思えない。私は「夕飯」を食べ、電話の向こうでは「ディナー」を食べていて、私はこの事をとても楽しんでいた。
やがて二人のお嬢さんがカナダの母もとに移って、私達ふたりで 'dinner' を楽しめる機会も増えるようになった。そこで、どうにも不思議なことなのだが、たとえファミリーレストランで '夕飯' を済ませても、「ディナーを一緒にする」と表現すると、もうこれだけで心豊かで贅沢な食事の時間となるのだ。これは一体なんだろう?
そこで、今度は自分の作る「夕飯」のときも、'ディナー' という単語を使うようにしてみた。最初は照れくさかったのだが、使ってみると、これがイケル。どんなささやかな献立でも、きちんと皿に盛って、「さあ、'ディナー' にしましょう」と向かい合い、同時に箸をとると、改まった気分で豊かな食事の始まりになる。そして、食事に対する感謝の気持ちが一段と深まってくるのだから、言葉って不思議な生き物である。
最初のページで書きましたように、この夏に娘達はふたりともやって来たのですが、私の予想とはかなり違う状況になりました...。
日実は、バンクーバーで仕事をしていますが、数週間もの休暇を取って来ました。一緒に協力して難しいコンピューターゲームに挑戦するなどといった、何年も以前にした遊びをたくさん楽しんだので、まるでタイムスリップしたかのようでした。彼女は、9月からの新年度についての計画も持ちかけてきて、エステシャン養成学校に通うことはその中のひとつでした。日実はこの仕事にとても興味がありますし、私も彼女の特性に合った仕事だと思っています。いろいろな人に会うことが好きで、私のように、ほとんどの時間をひとりで過ごす仕事なんてまぴらでしょう!
次女の富実と過ごした時間は、あまり期待していたようにはいきませんでした。こちらに来てまもなく、彼女は友達と一緒に近くのテーマパークでアルバイトをすることを決め、ほとんどの日は12時間働いていたからです。彼女が家にいたのは、早朝と夜遅くのちょっとだけ、しかも、非番の日には友達と出かけてしまいました。この子もそろそろ、父親と一緒に何かをする時間はちょっぴりになる年令になってしまった、という現実に直面したわけです。
娘達は現在、19歳と17歳です。上の子はぼちぼち落ち着いてきましたが、下の子は丁度羽を広げ始めたといった所でしょうか、成長を見守るのはうれしいものです。父親として見るところですが、ふたりとも良識を備え、幸せで意義のある人生を歩むに足りるだけの自信を持っていると思います。
来年の夏は?さっぱりわかりません...永遠の彼方ですから!