デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

私が目白に訪ねていった版画の出版元は、アダチ版画研究所というところでした。私がバンクーバーにいた頃、そこの版画をいくつか見たことがありました。その数年前に、この研究所はいくつかの版画のセットを世界中の大学や図書館に寄付していて、私は家の近くの大学にあるアジア研究図書館で、それらを熱心に見たものです。また、この研究所についての雑誌の記事を読んだこともありました。そこには、2階にある仕事場の写真が載っていました。3〜4人の摺師が作業台に向かって並んで座っている大きな部屋と、3人の彫師が版木に向かっているもう少し小さな部屋。更に、ジェームズ・ミッチェナーが日本の版画について書いた本で、アダチ研究所のことを読んだこともありました。

そういうわけで、東京には他にも活躍している木版画の出版元があったのですが(とりわけ悠々堂や高見澤など)、私にとって、訪ねるべきところはアダチ研究所だったのです。伝統木版画に関する知識の「源泉」...聖なる杯...

その朝の私たちの訪問はほんの数時間のものでした。「源泉」で過ごすには十分な時間だったとはいえません。足立さんはとても親切で、「自分で彫りと摺りをやって版画を作るつもりだ」という私の話をよく聞いてくれました。その時の会話のほとんどはもう覚えていません。当時、私の日本語はまったく初歩的なもので、私は聞いたことのほとんどを本当には理解できていませんでした。ただ、2階の部屋を見てもいいよ、と言われたことは覚えています。そのふたつの部屋は、私が雑誌の写真で見たのとそっくり同じようでした。私たちが戸口のところに立って見ている間、職人さんたちは、完全に私たちを無視していました。その時の私の気持ちを思い出します...どうかここにしばらくいさせて下さい!ここに座って彼らの仕事を見て、彼らと話をして、そのことをノートに書き留めたい...でも、もちろん、その願いはどれもかなうはずのないものでした。この人たちは忙しく版画を作っているのです。ここは学校ではなく、仕事場です。私はここをちょっとのぞいた、というだけで満足しなければなりませんでした。

そこを立ち去る前に、私たちは数枚の版画を買いました。版画制作の過程についての知識をたくさん持って帰るのが無理ならば、少なくとも、その過程の最終結果としての見本をいくつか持って帰りたかったのです!そうして訪問を終え、私たちが玄関で靴を履いている時、安達さんは、未使用の版木がうず高く積まれている高い棚に手を伸ばして一枚を引き抜き、私にくださったのでした。

これはとてもありがたいことでした。後にこの版木を実際に使って版画を作った時、私は更に感謝の念を深くしました。とてもいい版木だったのです。彼はどうしてあんなことをしてくれたのでしょう。あの当時、私が有能な版画家として成功する素質がある、と示せるようなものを私はたいして持っていませんでした。私が思うには−きっと彼にはわかっていたのです。私も後にわかるようになったことですが、「版画制作をやりたい」と語る人はたくさんいるけれど、実行する人は少ししかいないのです。私はまだほんの初心者でしたけれども、お粗末ながらもとにかくいくつかの作品を持ってきていたので、後者の仲間に入る、と考えられたのではないかと思います...そしてその訪問が、私たちの3ヶ月に及ぶ日本での冒険の最後となりました。その数日後、いろいろとおみやげを買い込んでから、私たちは太平洋を飛び越え、小さな地下室へともどっていきました。私は版画への意欲をかきたてられ、もっと版画を作りたい、と思っていました。しかし、その前に、ひとつ解決しなければならない問題がありました。どうやって生活していけばいいのでしょう?

あの音楽店で大きなコンピュータープログラムを作り上げたわけですから、私はその線で仕事を探してみることにしました。しかし当時はデスクトップのパソコンが出回り始めたばかりの頃で(1982年の初めでした)、私のような個人のプログラマーからの提案に耳を貸そうとする会社の経営者は多くありませんでした。彼らにとって、コンピューターというのは、白衣を着た男達によって操作される大きな機械というイメージだったのです。当然のことながら、私が彼らの仕事にとって役に立つ何かができるんだ、ということを納得させるのは大変困難なことなんだ、とわかりました。月日は過ぎていき、貯金は日に日に少なくなっていきました。

そんなある朝、あの音楽店の社長のビルから電話があったのです。長い間この話を読んでくださっている読者の方は「デジャブ」を感じるかもしれませんね。彼は、またしてもおもしろい仕事をもちかけてきてくれたのです。未だ知られぬ羽村への道はここでまた大きな遠回りをすることになりそうでした...

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