数ページ前の「ハリファックスから羽村へ」の中で、「伝統木版画に関する知識の '源泉'...... 聖なる杯...」という表現を使いました。これを読まれた日本の方は、どうしてこんな見るからに誇張した言い回しをするのか、といぶかしく思っておられることでしょう。日本にいれば、木版画の手法に関する知識は手軽に得られます。関係した資料はどこの図書館にも置いてありますし、どの地域にも、少なくとも何人かは趣味で版画をしている人がいますから、教えてくれる人がいない、などということはまれでしょう。
ところが外国での事情は、当然のことながら随分と違ってきます。版画に関する英語の本は、長年に渡って何冊か出版されてきていますが、版画のできる人に直接会うとなると、これはほとんど不可能です。版画を作るのには、さして「高度な技術」は必要ありませんから、初歩的な作品ならば、かなり単純に作れます。でも、その域を越えて精巧な作品を作るとなると話は違ってくるのです。単純な材料と技術を極度に精妙かつ洗練したやり方で使いこなすという、300年プラスαの年月を掛けて発展・修得されてきた技術を、独学の人間がおいそれと復元などできるはずがないのです。
それで、当時の私のような立場にある—カナダに住んでいて、紙はどの程度湿らせたらいいのか、絵具はどうやって混ぜるのか、バレンはどんな風に握って使うのか、と際限なく苦闘している—者にとって、日本にあるアダチ版画研究所を聖なる杯にたとえるのは、決して行き過ぎた誇張ではなかったのです。
「ハリファックスから...」の中にある訪問から20年以上が過ぎました。そして今、ここ日本に仕事場を構えて日々を過ごしているのは私自身です。彫り終わった版木の束や積み重ねられた和紙の山、絵の具その他の材料の置かれた棚、版画の詰まった引き出し、こういった物に囲まれて座っているのは他ならない私なのです。また、時折信じ難く思えるのですが、私の仕事場が同じような聖なる杯のように見える人が出てきた、ということにも気付いたのです。
ちょっと説明を挟みますが、私は自分の仕事場を、長い歴史に積み重ねられた知識の蓄積とも言えるアダチ研究所と同等だなどとは、よもや考えてもいません。すべては比較の問題で、20年前のデービッド — あるいは僕のような立場にあった者 — にとって、この部屋へ来るということは源泉への訪問にほかならないのです。
今まで、私に版画を習いたいと申し出た人はたくさんいました。たいていは穏便に、あまり乗り気のない対応をしています。初めのうちは、そういった頼みに対して寛大だったのですが、尋ねてこられても結局は時間の無駄に終わるということが分かってきたからです。仕事場にやってきても、その後、版画作りを続ける人はいなかったからです。この仕事(少なくとも、私の専門である伝統版画の場合)は、恐ろしくのろのろとしか進展せず、手間暇のかかる繰り返しの多い作業ですから、いくつかの性格的特徴の「組み合わせ」を備えていることが必要です。忍耐強い、頑固である、満足を先延ばしにして取り止めのない試練に耐えられる、そして中でも、必要とあらば無駄を受け入れて最初からやり直す覚悟がある、といった性格です。昔、若者達が版画職人の見習いになった頃には、資質としての性格など考慮されることはありませんでした。でも、現代のように自分で職業を選べるようになると、上記の特別な「組み合わせ」が必須となるのですが、条件を満たすような人はそういるものではありません。
ところが今年、初めて違う経験をしたのです。ウクライナから来た若者が、去年の夏、訪ねても良いかと連絡をしてきました。彼はその時、日本に短期滞在をしていたので、私の了承を得てある日の午後にやってきました。会ってみると、感じの良い魅力のある人物で、なかなか良い質問をします。その時点では、相互に何の約束も交わしませんでしたが、どうやら彼は、私が版画を習いたい人と時間を過ごすことをどう思っているかを察知したようでした。というのは、この冬に小包が送られてきて、その中には私の好奇心をそそる自作の版画が2枚入っていたからです。そこには、私が確信するのに必要なすべてがありました — 彼は、実行家であって多弁家ではないと。そして今年の春、夏の数週間をここで制作しても良いかと聞いて来た時には、文句無しの応諾でした。
スラブ(Vyasheslav Varlakov)は、こうして、ほとんど8月一杯をここで過ごしました。地下1階に彼が作業のできる空間を作り、スーツケースに折り畳んで運んで来た彫り台を組み立てると、ほぼ毎日、台に屈み込むようにして何時間も制作をしていました。スラブは、金属や宝石などを主に扱うプロの彫金師ですから、こういった作業には馴染みがあります。こんな確実な専門職があるのに、彼は版画制作に惹かれていて、できる限り深く探究したいのです。
彼は私の弟子ではありませんし、私は彼の師ではありません。彼は完全に自発的に学んでいるのです。丁度私が「階段をよじ登って」上達していた頃のようにです。この夏、彼が収穫できた主な事といえば、私と肩を寄せ合うようにして、仕事のリズムや紙の湿り具合を感じることができ、彼のやり方をちょっとばかり日本の伝統的手法に近付けることができた、といった単純な事ばかりでしょうが、これこそ、私がかつてむちゃくちゃに望んでいたことなのです。
スラブは現在、自宅(ニューヨークに居住して仕事を持っています)に戻っていますが、数カ月もすれば郵便小包が届くだろうということが、私には分かります。ここにいる間に彫っていた作品の最終結果としての版画です。私は「手伝う」ということはしませんでしたが、おそらく、作品のところどころに、私から受けた影響を見つけることができるはずです。それは、ぼかしの付け方かも知れませんし、重ね摺りをする色の領域の決め方かも知れませんし、あるいはまた、私自身にも分からない何かかも知れません。スラブが、ここに来る価値があると思い続けているのなら、きっといつか再び戻って来ることでしょう。この家のどこかに場所を見つけて作業台を備え、窓の外から聞こえてくる清見川のせせらぎの音を耳にしながら、次の版画を彫ることでしょう。
彼の後に、あと何人が続くのでしょうか....?
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