デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 2001

私がここ青梅の新居に越してきて、もう数週間で一周年を迎えます。信じられないような気持ちですが、年をとるにつれ、時の経つのが毎年早くなっているのだな、と感じます。このことについては、もちろん、私の「先輩」達から聞かされていたのですが、ようやく私にもそのことがわかり始めたところです...

一年前ここに来たのは、一年で一番寒い時期でした。夏の間、私はここがどんなに寒かったか、ということを忘れないようにしようとしていました。1月や2月になってからショックを受けないように。でもそれはうまくいかなかったようです。ここがどんなに寒かったかということを、今になって思い出したのですから!

しかし、彫師には、仕事中、少なくとも体の一部を温めておくための、ひとつとっておきの方法があるのです。写真をご覧下さい。「ほりごたつ」ってどういう意味なのかおわかりになりましたか?

ハリファックスから羽村へ

コンピュータープログラミングの大仕事が終わり、次なる「ビッグイベント」は私が長い間心待ちにしていたものでした。初めての日本訪問です!

私達はふたりとも、日本へ行くべき理由がありました。私の場合、目的はいたって単純です。版画製作のためのちゃんとした道具や材料を手に入れる、版画家のところへ行ってやり方を見てみたい、そしてもちろん、純粋に旅を楽しんでいろいろなものを見てみたい、といったところです。彼女の場合は、家族に会うこと、そしてもっと重要なことは、彼女はカナダに移住申請したいと考えていたのです。彼女は学生ビザを持っていましたが、それをそのまま移民申請に使うことはできませんでした。いったんカナダを離れて海外から新たに申請しなおす必要があったのです。移民局では、「この申請手続きには3ヶ月くらいかかるだろう」と言われたので、私達の旅もそのくらいの期間とすることにしました。

私達が新成田空港に到着したのは1981年11月の夕方でした。最初の数日は、埼玉県大宮市にある彼女の妹の家にお世話になることにして、その後「冒険」を始めよう、という計画でした。私はまず、どうやって空港から大宮の家に行くかを考えなければなりませんでした。彼女が教えてくれなかったのかですって?私が彼女に教えてほしくなかったのです。自分でやりたかったのです。私はカナダでひらがなのカードを使って勉強していたので、駅の表示を読んでどこへ行ったらいいのかを見つけ出そうとしました。私達はまず上野駅で電車を降り、私はそこで日本で初めての買い物をしました。ぶあつい時刻表で、全国の鉄道路線図が載っています。3ヵ月後、この本はぼろぼろになりました。旅の間中、これはいつも私の友となってくれたのでした...

日本の読者の方ならおわかりでしょうが、成田から大宮まで行くのはたいしてむずかしいことではありません。ですからもちろん、私達はその夜、目的地にちゃんと到着しました。時差ぼけもなおって落ち着くと、最初にしなければならない重要なことは、彼女がカナダ大使館で移民申請をすることでした。当時、私達は結婚していなかったので、私が保証人にはなりませんでした。彼女は自分の語学力と学歴、専門的資質によって独自に申請をしたのです。いったん書類を出してしまうと、その後は何もすることがなく、3ヶ月間、回答が来るのをじっと待つしかありませんでした...

そこで!私はあちらこちらに行きたかったし、何でも見たい、と思っていました...でも、どこから始めましょうか?私達はまず北へ向かうことにしました。東北地方へ。彼女は数年前に仙台に住んでいたことがあり、そこにたくさんの知り合いがいました。というわけでそちらの方に向かうのは理にかなっている感じがしたのです。私達はまず日光で数日を過ごし、その後、10日間有効の東北周遊券を買って出発しました。東北新幹線が開通する前のことでした。といっても私達には関係ないのですが。私達は可能な限り、どこへ行くにも「鈍行」を使っていたので。彼女はいらいらしたのではないかと思います。でも、私は物事をゆっくり進めてできるだけたくさんのものを見たかったのです。私達は毎日よく歩き、宿泊のためにはとても安い宿を見つけました。たいていはユースホステルでした。旅行シーズンではなかった(全然!)ので、宿を見つけるのに苦労することはまったくありませんでした。その旅で思い出すことは...雪の後の晴れた朝、山寺に登ったこと...白崎岬の先端の丘の上で、風が強くてまっすぐに歩けなかったこと...盛岡のわんこそばに驚いたこと(ちなみに私の記録は75皿でした)...青森のどこかの農場にあるユースホステルでのしぼりたて牛乳を使った美味しい朝食...

それは日本を知るよい手始めとなったと同時に、私にとっては「練習」の始まりでもありました。彼女は妹と過ごしたがっていましたが、私はじっとしていることができませんでした...彼女の妹の家にもどった次の朝、私はまた出発したのです、今度は私ひとりで。伊豆半島をめぐる徒歩旅行でした。

大場さん

最近このコーナーでは、本格的な蒐集家であったり、御自身が版画を作る人であったりと、なんらかの形で木版画と繋がりのある方達をとりあげることが多かったようです。でも、もしもそういった人ばかりを取り上げていると、誤解を招いてしまいそうで....

大場さんは川崎市にお住まいで、もう長いこと私の作品を集めていらっしゃる方です。このコーナーに大場さんをとりあげたくお電話をすると、「私達はただ集めているだけで、専門家ではなく...」という返事が帰ってきたのです。そんなことはまるで構わないということを説明して、やっと承諾を得、まもなく訪問させていただくことになりました。(この時口には出しませんでしたが、これこそが私の聞きたい言葉でした!)

晴天に恵まれた日曜日、貞子と私がお宅に到着して暫くの間は、家の外でおしゃべりをしてしまいました。広い前庭があって、ここの住人はかなり庭仕事が好きだということが、ひと目でわかるほどだったのです。庭というのは、主の人となりを結構表すもので、あるタイプは、見るだけで中に入ってはだめということが明らかに見て取れ(ことに日本の場合)、あるいはまた、茂るがままに任せる自然派などもあります。(御存じの通り、私には庭がありませんから、勝手にこんな一般論を言ってるだけなんです!)大場さんのお宅の前庭をひと渡り見回していると、手入れの主がどんな人なのか、私にはかなり見て取れたのです....

12月も半ばで、庭はもう冬ごもりの準備ができていましたから、ふたりの「庭師」達は物事の手順を踏まえて秩序だった生活のできるたちとお見受けしました。かなり本数のある大木も、すべてほどほどの高さにまで切り詰めてあり、素人の仕事にしてはなかなかのできです。ですから、ここの主は、こんな大仕事ですら取り組んでやり抜いてしまう人達だということが分ります。手前の方には正統派の日本庭園で見かけるような木があります。伝統的な庭への嗜好があらわれているのでしょうか?でも、この丸くこんもりとした形の良い木に近寄ってよく見ると、無理に刈り込んだのではなく、ほぼ自然樹形であることがわかります。きっとここの子供達は、伝統を重んじる秩序のある家庭でありながらも、自分自身の考え方や価値観を自由に形成していけるような環境で育っているのだろうということも窺えます。脇の一角には、あまり見かけないものがありました。それは鉄棒で、子供達が小さかった頃にしっかり使い込まれたことがひと目で見て取れます。ここにいるだけでたくさんのことがわかります!実用的な生活感−庭は使う物で鑑賞して楽しむだけの対象ではない。鉄棒は陰の見えないところではなく、正門のすぐ側に設置されています。ふたりの庭師達は、表立ってはっきり示すことはしませんが、他人がどう思うかというよりも自己の価値観に従っている人達だということを窺わせました。

ここまで読んだら、大場夫妻は笑い飛ばしてくださるといいのですが!こんな「推測ごっこ」をしてごめんなさい。訪問の目的はおふたりを「分析」する為ではなく、もう少し知りたいだけだったのですから....

それにしても、この訪問はもっと早く計画すべきでした!平成元年から私の作品を集めてくださっているのに、御一緒にゆっくりお話するのは今回が初めてでしたから。おふたりが私の作品の事を知るきっかけになったのは、まだ「百人一首シリーズ」の3枚目を作っている時で、ある雑誌に取り上げられた記事をお読みになった事でした。今にして思えば、そういった記事を読んだだけで、ひとりの男の(版画を百枚作るという)企てに乗り、まだ出来上がってもいない版画の全部を注文してくださる人がいる、などということは考えも及ばないことでした。これについてお聞きすると、記事に載っていた私の写真の「一途な目」に惹かれたとのこと。どうやら、人となりは庭の様子からばかり判断していてはいけないようです!

御主人は、ある金融機関のとても責任のある地位に付いておられる方です。ここのところの新聞を読んでもわかるように、金融機関が巻き込まれる憂鬱な記事が繰り返し書かれていることから、こと最近に至っては随分と肩の荷の重い立場におられるのではないかと推察いたします。でも、時には居間のテーブルに摺物アルバムを広げて下さる事を、そして少なくとも月に一度は、送られてきた包みを開ける喜びを味わい、新しくできた私の作品と向き合うことで、しばし仕事に関することを忘れて時を過ごして下さることを願っております。

日本政府は最近、いろいろな伝統工芸を保護するための助成というのを提供しています。私の知っている彫師や摺師の中にも、そういった助成金でまかなわれている企画に参加している人がいます。でも私は、こういった企画は本来の筋を外れていると考るのです。もしも、ある営為が社会の自然な流れの中で支持されないのならば、屋台を畳んで消えるのが筋というものです。自然に訪れる最期が私達の元にやってきたなら、人工的に生かされ続けるなんて望む人などいないことでしょう。これは、工芸に関しても同じ事と私は考えるのです。

ですから、大場さんのコメントを聞いて私がどんなに嬉しかったか、きっとわかっていただけると思うのです「私達はただ集めているだけで、...」そうなんです。表面は「ただ」そうしているにすぎなくても、私にとっては大場夫妻のような存在こそが、自分のしていることへの意味を実感させてくださるのです。こういった方達の長年の支えがなかったら、私も今頃は消え失せている存在だったかも知れません。大場夫妻に限らず、このような収集家の方達への私の感謝の気持ちは、言葉では語り尽くせないものがあります。

それにしても大場隆夫さん、けい子さん、今はこのニュースレターを閉じて庭に出てくださいね!庭の植物はほとんど冬ごもり中でも、菜園の方には結構作業がありそうですから!

僕には聞こえる...

昔、版画職人になろうと思う若者は皆、経験を積んだ親方の庇護の元で精進しました。徒弟制度は、技術を継承するという意味でも、また、まだ半人前で独立できない若者に必要最小限の生活を保障したという意味でも、有効に働いていました。印刷機が導入されて、なにもかもがひっくり返るように変わってしまう前なら、経験の浅い職人にもたくさんの仕事があったのです。たとえそれが、食品の包装紙などのように単純な仕事であってもです。

見習いとはいっても、取り立てて教えてもらうということはなく、一緒にいながら、見よう見まねで、親方の技を盗むようにして学んでいたようです。でも、こうして「教える」ということが実際にはなかったとしても、おそらく、たくさんの助言は与えられたと思うのです。ことに、見習いがへまをしでかした時などは、材料や時間の無駄が親方の肩にかかってくるわけですから!

こんなことを考えたのは、何ヶ月か前に、自分が大きな間違えをしてしまい、ほぼ2週間も無駄にした時でした。私の周りには、怒鳴り付けるような人はもちろんいませんが、もしいたら、一体どんなことになるだろうかと、どうしても考えてしまったのです.... とても厳しい親方がいつもこの部屋にいたら....

* * *

「こんなとんでもない事をしでかして、ちったあ懲りただろうよ。彫って摺って、今度は自分で版木まで作るなんてな、何もかもできるってんで、いい気になりやがって。あんまり色んなことに手を出しゃあ、何ひとつ物にならねえってことがやっと分っただろ。謙虚になって、他のこたあ、その道の玄人に任せろってんだよ!」

こんな声が聞こえるのは、私が失敗をした時だけではありません。幸運なことに、何か間違えをしそうになると、私には聞こえるんです....

* * *

「おまえさんが、ちっと使いに出かけてる時に版木を覗いたんだがね、この絵の枝んところを彫ってるとき、葉っぱのひとかたまりを削っちまっただろ。どうしたってんだい!『こんなところ誰にもわからないだろう』ってなこと考えてんのかい?ふざけちゃいけねえよ。いいかい、おめえは彫師だよ!絵師がここに葉っぱを描いたら、それを彫るのがおめえの役目じゃねえか。取っちまうなんてもっての他だ!

「なにかい、時間の節約かい?なんの為だい?この仕事が終わりゃあ次の仕事があるんだ、そんな手抜きなんかしたって、おめえさんにゃあ意味のないこったい!さあ、埋木を用意して、そこんとこは始めっからやり直しだ。今夜中に仕上げちまいな!」

* * *

「おめえが終わらしたところの、今朝の仕事だけどな、黄色の版の一番右っかしの見当がずれてんのが、見えねえのかい?きまってらあな、ちっとばかし版木が縮んだんだよ。色版は軽めの板でできてるからな、いつだって墨版よか縮むんだい。版木は古くなるとな、決まって縮むんだ。おめえが、自分の事を摺師っていうんならな、こんな事ぐらいなんとかしてみなよ!この色はな、2回摺りゃあいんだ、右からと左からとな。そうすりゃあ、真ん中でぼかしがうまいこと混じるんだい。2度手間にはなるけんどな、だからなんだってンだ。『家でやった仕事』ってことになるんだ、考え直してくれなきゃ困るぜ。

「さあ、さっさと始めからやり直しな。無駄になった紙代は今月の給金から差し引いとくからよ。」

* * *

「黙っていようと思ったんだがよ、気になってしょうがねえんだ。おめえ、最後に砥石を使ってからもう半時近く経ってんだよ。なんか、刃先を鋭くしとく術でも見つけたんだろうな。俺達にも教えてくんな!」

* * *

「一日休みたいだって?ふざけちゃいけねえよ!仕事の山を見てみろってんだ!そんなバカな事言いやがって、何を考げえてやがんだ!」

* * *

「例の版元がやってくるんだ、道具を片付けてどっかに行っちまいな。何か出かける用でもあるだろ。この前来たときにな、お前さんのバレンを見ていてな、へたっぴいな包み方を見ていなすったんだよ。あん時の顔を見ただろうが!俺んとこは子守りをしてるなんて思われちゃあたまんねえや、さあ、とっとて消えてな。

「おめえ、一体いつになったらビシッと包めるようになるんだろなあ?ここに来たばかしの時に、やって見せたじゃねえか。もう一回繰り返せってえのかい?よ〜く考えてみるんだね。」

* * *

「今度はまあまあの仕事だね.... 言いたかないけど、同じような色合いばっかしでちっとうんざりだね。そろそろ、ちったあ、創造力ってえのを働かせても良い頃じゃないかい。石のように決まりきった色を使うなんてこたあ、どこで習ってきたんだよ。絵師に渡された墨書きが読めないのかい、摺る時にどの色を使うかってことが、ちゃあんと書いてあるだろ。ほら、ここだよ... いいかい、『あい』『うす紅』ってね。

「あい、うす紅、って一体これがどんなことか、わかるかい?意味なんてありゃしないんだ!『あい』って書いてあったらだね、その色合ってえのは、限り無くあるんだからよ!この人の絵は前にも見た事があるだろうよ、もう型ってのが決まっていらあな。だから、たっぷり創造力ってえのを働かせてな、絵師の思ってるような絵を作っていくんだよ。どこまでできるか、やってみることで、おめえの力も伸びるってえもんだ。

「俺たちゃあ、摺師なんだ。俺たちが、絵を作っていくんだよ。客が買うときゃあな、絵師の名めえしか見ねえよな、だがな、だからって文句を言っちゃあいけねえんだよ。

「おめえが、ここに来て、もう何年にもなるなあ、そろそろ腕を上げて本物の版画ってえのを作ってみろよ。この次ぎはだな、もっと良い仕事ができるってことを、おいらに見せてみろよ」

* * *

さあ、これで十分でしょう。お分かりになったと思います。でも、お伝えしなくてはならない事実として、こんなふうに「自分は厳しい環境の元で仕事をしているのだ」と想像したとしても、実際に叱られているとか緊張を強いられているとか感じるようなことはありません。静かな部屋で、時には音楽を聞きながら彫りや摺りをするというように、いつも自分のペースで作業をしているのですから、たいていはゆったりと仕事をしているわけです。

でも、ひとりで仕事をしているからこそ、こんなふうに、自分からそういった状況を造り出すということは、欠かせないのです。仕事の様子を見るとか、小言を言われるとか、経験を積んだ人に教えられるような環境で働ける機会は、私にはまるでないのですから。

そうなんです、いろいろな声が聞こえるんです.... いつも聞こえるんです.... 白衣を着た人を呼んだほうがいいんでしょうか?

湯たんぽ

「はい、子供は寝る時間ですよ」、2階に追い立てられて、ひとり布団に潜り込む。階下からは、大人の声。時折は楽しそうな笑い声。「どうして笑っているのだろう。何がおかしいんだろう」と耳を澄ませながらも、関心はしだいに天井板の節の方に移る。じいっと見ていると、大小様々な形の節や木目から、いろいろな絵が見えてくる。ひょっとこ、おかめ、鬼 ... 。横をみると、襖には唐草模様があり、それが、天狗になったりチョウチョになったり。目を細めたり、焦点をずらしたりすることで、様々な像が見えてくる。

いつの頃からだろうか、こんな遊びをしなくなったのは。明かりを消して眠るようになったので、目を閉じて、ぼんやりとしながら眠りに落ちていくようになった。そして今は、必ず本を持って床に入る。もう疲れきっている時でも、ほんの数行に目を流しているうちに、本を持つ手に力が入らなくなり、それを塩に明かりを消す。あとは、数秒で眠りの世界に入る。

それから夢。子供の頃は良く夢を見た。走っても走っても前に進まない夢、助けを呼ぼうとしても声のでない夢、大御馳走を食べようとしたら消えた夢、人生を2倍生きていると思える程にいろいろな冒険をした。

ところが、ここしばらく私は夢を見なくなった。ストンと眠りに入ったばかりなのに、目覚ましが鳴り、新たな一日が始まる。つまらないなあと、例によって話題を持ちかける。そう、デービッドの「夢物語」でも聞かせてもらおうと水を向けると...

「ごめんね、僕まくらに頭をつけると数秒で眠っちゃうんだよ。」「眠れない時は....?」「ごめんね、僕そんな事ないんだよ。夢も覚えてないし...」

根っからの健康児とはこういう人の事を言うのだろう。観察していると、確かに目一杯生活している。目が覚めている限りパワー全開で動き回って、スイッチオフでドタンキューという訳なのだろう。

ところが、ところがである、この「仙人」も寄る年波には勝てないと見た。「ねえ、日本語でなんて言うの?あのさ、お湯を入れて布団の中に置くもの」 無理もない、小川からの冷気が上がってくる新居は、青梅の中でも格段の寒さだもの。新居で向かえる2年目の冬か。しめた!今年のクリスマスプレゼントは.....

スタジオ便り

この家の以前の持ち主は、川に面した地下の閉鎖空間が部屋として使えるよう、業者に頼んで床を張り照明を取り付けてありました。でも残念なことに、断熱に関しての配慮はまるでなされていなかったため、冬になると凍てつくような寒さになり、とてもいたたまれないほどです。ですから最初の一歩は、取り付けてある物をすべて取り払って、いちからのやり直しです。

この「スタジオ便り」が進むにつれ、きっと「断熱」という言葉が何度も繰り返し出てくることでしょう。この国に来て足掛け20年になりますが、今でも当惑することに、日本の人達は、きちん断熱処理をすればどんなに住空間の住み心地が良くなるかということに、どうして「思いが至らない」のでしょうか。

はっきりとした四季と共に暮らすのは、私だって好きです。でも、1年の3分の1もの間、縮こまって震えながら部屋の中で過ごさなくてはならないなんて、たまりません!ですから、この部屋の改装プランは、床や壁や天井といったどの場所にも、高性能の断熱材を広範囲に、それもたっぷりと使うということになります。

でも、じっくりと手順を考えると、 ....  断熱材を張るためには、その前に枠組みを壁に作らなくてはならず、...枠組みを作るには、その前にそこの部分の基礎を作らなければならず、.... やり繰りをして、なんとかひねり出した時間で行った工事の写真が、これです....


数年前、このニュースレターの読者のみなさんに、私のホームページのことをお知らせしましたね。ここでまた、インターネットに関する話題です。つい最近、私は、自分の仕事を世界の人々にもっと見てもらえるようにインターネットの力を利用することにしたのです。インターネットを使っている人が私の版画作品を見ることは簡単ですが、今度はそれが作られる過程を見られるようになったのです。私は仕事場にビデオカメラを備え付け、毎日、決まった時間にそのスイッチを入れ、作業台の様子を「放映」しているのです。

この「ウェブカメラ」があれば、世界のどこにいる人でも、伝統的な日本の版画の製作過程を見ることができます。私はカメラのアングルを頻繁に変えるようにしているので、部屋全体が写っていることもあれば、版木がクローズアップされて、私が彫ったり摺ったりしているそのものが写っていることもあります。

私がカナダで版画製作についての情報を集め始めていた20年前に、こういうものが見られたらどれほど嬉しかったことでしょう。ですから、多くの人々が版画製作の経験を共有できるような機会を、進んで提供したいと思っているのです。

座って仕事をしている時に人から「見られている」と思うと、私はどきどきしてしまうでしょうか?いいえ、実のところ、まったくそんな気持ちはなくて、たいていはカメラのことなど忘れてしまっています。インターネットの速度がアップしてもっと性能がよくなり、私の仕事について学びたいと思っている人たちと直接リアルタイムでやりとりができるようになる日のことが待ちきれません。このウェブカメラは、その第一歩となることでしょう...