デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

コンピュータープログラミングの大仕事が終わり、次なる「ビッグイベント」は私が長い間心待ちにしていたものでした。初めての日本訪問です!

私達はふたりとも、日本へ行くべき理由がありました。私の場合、目的はいたって単純です。版画製作のためのちゃんとした道具や材料を手に入れる、版画家のところへ行ってやり方を見てみたい、そしてもちろん、純粋に旅を楽しんでいろいろなものを見てみたい、といったところです。彼女の場合は、家族に会うこと、そしてもっと重要なことは、彼女はカナダに移住申請したいと考えていたのです。彼女は学生ビザを持っていましたが、それをそのまま移民申請に使うことはできませんでした。いったんカナダを離れて海外から新たに申請しなおす必要があったのです。移民局では、「この申請手続きには3ヶ月くらいかかるだろう」と言われたので、私達の旅もそのくらいの期間とすることにしました。

私達が新成田空港に到着したのは1981年11月の夕方でした。最初の数日は、埼玉県大宮市にある彼女の妹の家にお世話になることにして、その後「冒険」を始めよう、という計画でした。私はまず、どうやって空港から大宮の家に行くかを考えなければなりませんでした。彼女が教えてくれなかったのかですって?私が彼女に教えてほしくなかったのです。自分でやりたかったのです。私はカナダでひらがなのカードを使って勉強していたので、駅の表示を読んでどこへ行ったらいいのかを見つけ出そうとしました。私達はまず上野駅で電車を降り、私はそこで日本で初めての買い物をしました。ぶあつい時刻表で、全国の鉄道路線図が載っています。3ヵ月後、この本はぼろぼろになりました。旅の間中、これはいつも私の友となってくれたのでした...

日本の読者の方ならおわかりでしょうが、成田から大宮まで行くのはたいしてむずかしいことではありません。ですからもちろん、私達はその夜、目的地にちゃんと到着しました。時差ぼけもなおって落ち着くと、最初にしなければならない重要なことは、彼女がカナダ大使館で移民申請をすることでした。当時、私達は結婚していなかったので、私が保証人にはなりませんでした。彼女は自分の語学力と学歴、専門的資質によって独自に申請をしたのです。いったん書類を出してしまうと、その後は何もすることがなく、3ヶ月間、回答が来るのをじっと待つしかありませんでした...

そこで!私はあちらこちらに行きたかったし、何でも見たい、と思っていました...でも、どこから始めましょうか?私達はまず北へ向かうことにしました。東北地方へ。彼女は数年前に仙台に住んでいたことがあり、そこにたくさんの知り合いがいました。というわけでそちらの方に向かうのは理にかなっている感じがしたのです。私達はまず日光で数日を過ごし、その後、10日間有効の東北周遊券を買って出発しました。東北新幹線が開通する前のことでした。といっても私達には関係ないのですが。私達は可能な限り、どこへ行くにも「鈍行」を使っていたので。彼女はいらいらしたのではないかと思います。でも、私は物事をゆっくり進めてできるだけたくさんのものを見たかったのです。私達は毎日よく歩き、宿泊のためにはとても安い宿を見つけました。たいていはユースホステルでした。旅行シーズンではなかった(全然!)ので、宿を見つけるのに苦労することはまったくありませんでした。その旅で思い出すことは...雪の後の晴れた朝、山寺に登ったこと...白崎岬の先端の丘の上で、風が強くてまっすぐに歩けなかったこと...盛岡のわんこそばに驚いたこと(ちなみに私の記録は75皿でした)...青森のどこかの農場にあるユースホステルでのしぼりたて牛乳を使った美味しい朝食...

それは日本を知るよい手始めとなったと同時に、私にとっては「練習」の始まりでもありました。彼女は妹と過ごしたがっていましたが、私はじっとしていることができませんでした...彼女の妹の家にもどった次の朝、私はまた出発したのです、今度は私ひとりで。伊豆半島をめぐる徒歩旅行でした。

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