デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 2001

前号で、「関西のデパートのイベントに参加するつもりだ」とお知らせしましたね。それはもう終わって、この号にはちょっとした「報告」が載せてあります。これには、思いがけない副産物がありました。日本人も外国人も含めて、多くの他の職人に会ういい機会になったのです。

大阪の会場で私の隣のブースにいた人達は、私と同じく木を彫る職人でした。といっても、彼らが彫るのは版木ではなく、家の前に掲げる表札でしたが。私達は毎日、それぞれ彫りの実演をやりながら、おたがいにいろいろ話をしました。そしてイベントの終わりも近づいたある日、家業を継いで12代目にあたる寺尾修一さんは私に小さな包みを渡してくれました。彼とその息子さんは、私の新しい家のための表札をプレゼントしてくれたのでした!

私はもちろん、家に帰ってすぐ、玄関にそれを掛けました。彼らは、英語ではなくカタカナで名前を彫ってくれたので、近所の人達もようやく私の名前をどう読めばいいのかわかることになりました...もう「デビル・ブルーさん」ではありません!

ハリファックスから羽村へ

ビル社長から、業務上のコンピューターシステムについて話をしたい、という電話がありました。彼はかなり切羽詰っていたのです。今の、書類によるやり方では、もう事務が処理しきれない状態で、資金繰りに重大な支障をきたしていました。迅速で正確な請求がいかないと、顧客からの支払いは慢性的に遅れるかあるいはまったくない、という具合です。経営は困難に陥っており、それについて何か対策をたてなければなりませんでした。

私がトロント支店のマネージャーだった頃、私達ふたりはコンピューターの導入について話し合ったことがありました。しかし当時私が提案したシステムはお金がかかり過ぎるうえ、非実用的でした。が、その後の数年間で、コンピューター業界の事情は劇的に変化したのです。新しく「マイクロコンピューター(マイコン)」が登場していました。これは、私が以前見ていた大きなシステムよりもずっと手ごろなものでしたが、私達の仕事に必要な膨大な処理をする能力があるかどうかははっきりしていませんでした。ビルがシステムには何が必要かについて説明している間、私はノートを持って座っていました。彼のところで何年も働いていたのですから、何が必要かということについて、大部分は既にわかっていましたが、最近の状況については知りませんでした。例えば、顧客が何人いるか、などについてです。全体の概要を書き留め終わった時、私は息の詰まる思いでした。彼が必要としているのは、かなり複雑なシステムであることがはっきりしたからです。顧客は数千人、毎日の請求書は数百通。しかしなんといっても心配なのは、システムの安全性についてでした。いったんシステムが動き出したなら、きちんと動いてもらわなくては困るのです。もしうまくいかなかったら、事業全体がだめになってしまうかもしれません。

今、あの時の話し合いを振り返ってみると、私達がそのシステムを実現に移そうと決めたのは信じられないことのように思えます。確かに私は「わかりました。やりましょう」とは言いましたが、内心では「本当に自分に切り抜けられるだろうか?」と思っていたのに違いないのです...そしてビルのほうも、「よし、決まりだ!」とは言ったものの、内心ではきっと「本当に彼に切り抜けられるだろうか?」と思っていたことでしょう...

私はまずコンピューターを注文してそれを私の家に運ばせ、それに必要な膨大なプログラムを書き始めました。これは私がやりとげたことの中で、百人一首シリーズの次に大きな仕事です。プログラムは数百ページに及び、しかもこれらがすべて連動してうまく動かなくてはならないのです。言ってみれば、細部まで綿密に組み立てられたひとつの大きなパズルのようなものでした。私はこれを作るのに非常に充実した時間を過ごしました...

プログラムができあがり、サンプルデータのテストが済むと、私達はコンピューターを事務所に移し、いよいよ本物のデータを入れることになりました。事務員が交代で古い書類のデータをコンピューターに入力していきました。何千人という顧客の記録です。そうしてついに「移行」の日がやってきました。システムが実行に移されるのです。プリンターから流れ出てくる請求書の山を見たときは感無量でした。ビルもきっとあの日のことを今でも覚えているに違いありません。「私のプログラムが会社を救ったのだ」と言ったらちょっと言い過ぎになるでしょうが、会社の資金繰りや経済的な安定に劇的な効果をもたらしたことは疑う余地がありません。その小さなマイコンは実にすばらしい働きをしてくれました。たった32Kbのメモリしかないというのに(今、私が会計事務に使っているコンピューターのメモリの12,000分の1です!)、その後数年間、何百万ドルもの仕事上の資金を扱っていたのです。

そして私はどうなったかというと...プログラムが完成してすべてが順調に動き始めた後は、また以前の生活にもどりました。本を読みあさったり、そして、版画作りの実験をもう少しやってみたり!たてつづけに3つの作品を仕上げました。どうしたらうまくいくのかという手がかりはまだつかめていませんでしたが、いろいろやってみるのを楽しんでいました。当時の版画を見ると、なんてお粗末な技術で子どもじみているんだろう、と笑わずにはいられませんが、でも恥じることは何もないと思っています。私は確かに、技術のない子どもだったのですから!

朝日智雄さん

このコーナーにどなたをお願いするかは、いつも難しいところです。興味深い活動をなさっておられる方があまりにたくさんいらっしゃるので!だからといって、どうすれば...たとえ毎回、3、4人の方を取り上げたとしても、皆様全員をお訪ねすることなどできないのです!でも今月は、「一石二鳥」とすることができました、つまり、収集家のおひとりを紹介すると同時に、私自身の仕事についてもちょっとお話できるからです。

昨年の「摺物アルバム」では、最後の作品に明治時代の口絵を復刻しました。口絵とは、雑誌の折り込み用に作られた版画のことです。これからの摺物アルバムに、もっと口絵を入れていきたいと思っていたことから、そのジャンルに興味をもっていたので、版画店で私にも手の届くような作品を見つけた時には、買い集めていたのです。でも、三島市にお住まいの朝日智雄さんのコレクションの量に比べたら雲泥の差です。彼の目的はすっきりしていて、明治時代のすべての口絵とその資料を集めるということですが、これはかなり完成に近い段階です。ついこの間、彼のコレクションを拝見し、いろいろと版画の話をするためにお宅まで伺ったのですが、彼が次々と運んでくる紙挟みから、目の前に美しい作品の行列を作りだしていくと、もうただただ驚くばかりでした。

他にも口絵の研究をしている人は世界中にいますが、その規模から言うと朝日さんは群を抜いています。この分野における彼のコレクションはとても重要ですから、口絵に関する本や文献が出版されると、たいてい「朝日智雄氏提供による」といった注釈を見つけます

古い浮世絵とは違って、良い口絵はまだ版画店で見かけますから、同じような収集をしたいと考える人には、まだ可能性があるでしょう。でも、朝日さんは、ただ集めるというレベルを遥かに越えていて、どの雑誌のどの号に載っていたのかといった、それぞれの版画の背景にある歴史や、研究に必要と思われる細かな資料などを記述する作業に大変な時間を費やしています。

朝日さんをお訪ねしたのは、このコーナーの為の取材という名目でしたが、実際には.....お宅に着いてものの2分と経たないうちに、口絵がどのように作られたのかといった、重要な議論に深くはまり込んでしまったのです。外が暗くなって私達のお腹がグーグー音を立てていることに気付くまで、止めどなく続いてしまいました。そんな訳ですから、朝日さん御自身について特別なことは、何も記することができなく、ただ、ある食品加工会社を経営していて、地域の国際交流協会の理事をしていらっしゃるということだけになります。奥様の洋子さんは、暫くの間私達と一緒に居て下さったのですが、彼の版画蒐集にはかなり寛大のようでした。意味のないことにお金を費やす事だって考えられるのですからと、夢中になる御主人を嬉しく受け止めているようでした!

私は、最近集めた口絵を入れたファイルを持参していったのですが、その中に、朝日さんのコレクションにないものが数枚ありました。私は、自分が今までたくさんの本や版画、道具を多くの方から「これは貴方が持っていた方がいいですから」と言って譲って頂いていたので、それらは躊躇なく彼にお渡しました。彼の壮大なプロジェクトの完成に少しでも貢献できてとても嬉しく思っています。私の方も手ぶらで戻ってきたわけでなく、朝日さんに、数少ない収集の穴を埋めていただきました!

暫くしたら、というよりも近いうちに、また三島のお宅のあの部屋にお邪魔するでしょう。お訪ねした時の話の中、私達はとても興味深い研究の糸口を見い出したので、当時の素晴らしい版画がどのように作られたかという、現在はまだ謎に包まれている疑問を解く作業に貢献できるようなのです。

おっと、忘れてはいけませんね。朝日さん、私の版画を集め続けてくださってありがとうございます。もうすでに、有り余る程の「本物」が山のように机の上に積まれているのに。素敵なお仲間に加えていただき、嬉しいです!

高島屋レポート

いつも、展示会報告は春号に載せているのですが、今年は番外報告です!前回にちょっと書きましたように、今年の夏は高島屋から、大阪と京都店で恒例の「日本の伝統展」に参加しないかという申し出を受けていました。それぞれ6日間ずつの開催で、およそ50組の職人達が、日本全国から集まっての展示です。今年は初の試みとして、外国人を加えることになり、私を含めて5人が特別参加となりました。この催し物は長年続いているものですが、主催者側には、ちょっと変化をつけて新風を吹き込もうという目的があったらしいのです。

高島屋の狙いが当たったかどうか、それは分かりませんが、私にとってはかなり新鮮でした。自分の個展はもう12年間続けてきていますが、この催し物は今までのどれともまったく違っていたのです。高島屋への参加に際しては、いろいろと工夫を要する課題があり、中でも一番の難問は展示方法でした。今まで、新宿の高野で個展をしてきているために「甘やかされて」いましたから。高野の会場は広く、私の百人一首の全作品が展示できるほどなのです。ところが、この催しで自分に与えられた場所は、たたみ数畳ほどの広さしかなく、いつものように「版画とエッセイ」の両方を展示することは無理でした。これにはまいりました。両方を並べると、見に来る人はひとつひとつの作品をじっくり見るようになり、しっかりと鑑賞できるのですが。一方、百貨店での事情はまるで違い、ほとんどの人はぶらりと見て回るだけです。新宿のギャラリーですと、私の作品に興味があって、それを見ることを目的に皆さんがやってくるのですが、ここにくる人達は私の作品など、とりわけの興味はないのです。

そこで、貞子と私は、お客様達がちょっとの間でも私の所で版画を見るようにと、通り過ぎる人達の目を引きつけるような方法を考えました。今年1月に作った展示会用の屏風を使い、作品の並べ方に工夫をこらし、高島屋の方には特注の展示台をお願いしました。展示作業が終わってみると、ちょっと詰め込んだ感はありましたが、なかなか効果的にできていました。版画はとても魅力的に見えましたし、楽に鑑賞できるようにもなっていました。

こういった最初の難関を乗り越えても、次にきた課題は、版画を鑑賞した後の人達がどうするかということです。当然のことながら、たいていの人は、見るだけで行ってしまうでしょう。アルバムは絶対にバラ売りをしない、売るだけが目的ではない、という頑固な私の方針のせいで。ですから私は、この催しでたくさんの収集家を得る、などということは期待しませんでした。このことは、高島屋の人との打ち合わせ段階でも、はっきり言ってありました。彼等は、私の交通費とホテル代も払っていますから、実際の収支決算が合っているのかどうか、私には疑問です。でも、ここのところは彼等の感心事ではなくて、私が思うに、そもそも5人の外国人参加者達から多くの収益を得る事は期待していなかったようなのです。双方にとって、かなり実験的要素があったわけですから。伝統展の開催中、私達5人は、自分達が人寄せパンダなのではなかろうかと冗談を言い合ったりしたものです。人々に好奇心を抱かせて呼び集め、結局は他の出店で買い物をしてもらうという...

ここまで読んできて、皆さんは、私が完敗をして新しい収集家を得られなかったと報告するように思われるかも知れませんね。ほんとうのところ、そうではなく、作品に関して話をする人達の何人かは、摺物アルバムを購入してくださいました。私には、こういった機会がほとんどなかっただけに、今回のお客様達との出会いは嬉しく、特別なことに思えました。

百貨店での催し物への参加で、私は改めて、職人という存在を別の角度からも見るようになりました。今日、職人として生計を立てるためには、製品を作る事とそれを販売する事の、ふたつの活動をこなせなくてはなりません。ところが、このふたつの役割は、非常に違う能力を要するだけでなく、時間という観点からも完全に共存が不可能なのです。工房で作業に没頭するか、店で製品を販売するか、人は同時にふたつの場所に居ることはできませんから。私は、今から12年以上も前に初めて展示会をした時すでに、このジレンマへの解決策を見い出していました。それはつまり、自分の作品は決して一枚ずつバラ売りせず、予約販売のみにするということです。こうすることで、「販売の場」から離れて工房にいられるからです。

私は過去ずうっと、この方針を曲げずにやってきました。そして今回、この催し物に実験的な参加をすることで、自分がどうしてそうしたかを再確認したのです。百貨店での成功はたったひとつの尺度ではかられます。「今日の総売り上げはどうでしたか?」と。催し物の会期中、参加者達は毎朝、自分の分だけでなく、他の数人の参加者達の分も一緒に印字した前日の売上表を渡されされました。でも、私は「売り上げ」で自分を評価したくありません。私が純真な理想家ぶっているように思われては困ります。版画を売るということはもちろん私にとって必須なことで、高島屋の行事に参加したのもそのためですから。でも、販売が一番大切なことになってしまって、来る人を「買ってくれるかどうかの対象物」としてのみ見るようになってしまったら、私は降りたほうがいいと思うのです。実際、私の周りの店で、そういった態度を目の当たりにしたものですから。

高島屋は、私達にとても手厚い対応をくしてくれました。多額の費用を支払い、食事に飲みにと限り無く招待し、これ以上考えられないというほど好意的で協力的でした。そして、売り上げのことで私達に圧力をかけ過ぎるようなことは、決してしませんでした。彼等のやり方はとても要を得ていて、文句の付け所がありません。でも、今回で分かったことは、自分が彼等の世界では外れ者であり、おそらく今回が最初で最後の出店になるだろうということです。(少なくとも、ずうっと将来、私のライフワークの特別展示会でも計画する時まで!)

毎日ほぼ10時間、実演をしたりして会場にいたので、大阪や京都を見て回る機会などはホテルと店の往復以外ほとんどありませんでしたが、京都では早朝と夜にだけ何度か、馴染みのある裏通りを散歩するチャンスに恵まれました。今、関西での出店を振り返ってみると、とても意味のある経験だったと言えます。会場で知り合って仲良くなった職人さん達とは、一生の付き合いが続くことでしょう。でも目下は、2週間以上もの「穴」が空いてしまい、しかも来年1月の展示会が迫ってきているので、もう私は、ひたすら版木に専心です!

うら話

男性が半世紀ほど生きてくると、眉毛の中にヒョロッと長めの毛が混じり出す。はて、これは頑固の度合いのバロメーターであろうか。高島屋恒例の催事、特別参加の時もデービッドの基本姿勢はガンとして変わらず、作品はすべてセットで販売する事になった。

まず大阪。何ぶんにも50程の出店が居並ぶ大会場の一隅、難波店での反応はいまいち、作品を見て「へえ、これ木版画みたいなものですか?」などととんちんかんな質問に当惑する一場面もあった。

売らんかなの姿勢はデービッドに最もそぐわない。長年手伝ってきている私だから、分かってはいるものの、時折は気落ちしてデービッドの方を見る。と、何の事はない、「武士は食わねど高楊枝」。気弱な私は「すべて経験、これも経験」と呪文のように唱えるばかり。

前の店では、中年の御夫人方が熱心に中腰の姿勢でショーケースの中を物色している。売り子がお札を手に駆けずり回る。一段高く設えられた場所で、摺りの実演をするデービッドの目の位置が、ちょうど御夫人方のお尻と同じ高さ。面白くなさそうなデービッド、実演の見物人が多ければガードとなるのだが....。

京都では、人々の反応は随分と違い、興味を示してじっくり作品に見入る人が多くなった。が、売れ行きは停滞気味。しびれをきらした担当者は、見るにみかねて、
「デービッドさん、良い考えがありますよ。バラ売りをすれば....」
デービッドはすでに2本だけ、長い眉毛を貯えている。だから、
「ですが〜、私は.....」

そんな催事でも、ひと目みるなり「ひゃ〜素敵やわ〜」と見入る人もちらほら。私達を元気づけてくださるにとどまらず、セットでお求めになるお客様も数人現れた。

今回の収穫?難波と京都の土地柄に触れられたことはもちろんだが、生っ粋の職人さんとの交わりが貴重な体験。これからも連絡を取りつづけていきたい友を得たことが、何よりもうれしかった。

スタジオ便り

ついに工事が始まりました!ここに越してきて、もう半年が過ぎてしまいましたが、まだほとんど手付かずの状態です。これは当然、時間とお金の都合でもあります。自分でしたい改装部分に関しては時間がなく...、人に頼む作業に関しては資金がなく...、今年は両方共に資源不足といったところだったのです!

それでも、とにかく、どこかで始めなくては何年経っても埒が開きませんから、開始です!最初の一歩は、ふたつの地階の間にあるコンクリートの床に穴を開けて、地下2階へ通ずる階段を作れるようにする事です。ここは、版画製作の場所にする予定なのですが、目下のところ、その部屋には家の外からしか行けないのです。それと、もっと重要な事として、地下からの空気の流れが、内部にできる階段を通じて遥かに改善されるのです。これはとても大切な事です。なぜなら、窓のすぐ下に小川が流れているために、湿気が大敵となっているからです。

コンクリートとその中にある鉄筋を切り取る作業は、自分ではちょっとしかねます。最初は、工具を借りて自分でやってみようかと考えていたのですが、経験のある友人は皆「プロにまかせなさい」と一様に言ってきました。それで、ほらね、専門家がやってきました。分厚いコンクリートの層に穴を開け、切り取ったり、ぶち割ったりです。

この作業をしてもらったら、次は私の出番となって....

前号の記事のひとつに、「日実への手紙」がありました。あの号を出した後、何人かの読者の方が「日実ちゃんはあの記事を読んだら気を悪くするんじゃないか」と心配してくれました。あの年頃の女の子は、自分の問題がみんなの話題になるのをとてもいやがるものですよ、と。ですから、ここで言っておきます。私は、印刷に出す前にこの記事のことを彼女に少し話しました。そう言うわけで彼女は、私がどんなことを書くかを正確には知りませんでしたが、私の性格から考えて、彼女のことを悪く言うような書き方はしないことはわかっていたのです...

しかし、ちょうどニュースレターを印刷屋さんに出そうとしている時に...なんと日実がここにやってきたのです!妹の富実はもう1ヶ月くらい前に来ていたので、私達は、ふたりがカナダに帰るまで、3人で約2週間一緒に過ごすことができました。

もちろん、1年のうちの2週間というのは、自分の娘と過ごすには十分な長さとは言えません。しかし、まったく一緒に過ごせないだろうと思っている時には、素晴らしい「ボーナス」です!さて、来年はどうなるかな?