デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

ビル社長から、業務上のコンピューターシステムについて話をしたい、という電話がありました。彼はかなり切羽詰っていたのです。今の、書類によるやり方では、もう事務が処理しきれない状態で、資金繰りに重大な支障をきたしていました。迅速で正確な請求がいかないと、顧客からの支払いは慢性的に遅れるかあるいはまったくない、という具合です。経営は困難に陥っており、それについて何か対策をたてなければなりませんでした。

私がトロント支店のマネージャーだった頃、私達ふたりはコンピューターの導入について話し合ったことがありました。しかし当時私が提案したシステムはお金がかかり過ぎるうえ、非実用的でした。が、その後の数年間で、コンピューター業界の事情は劇的に変化したのです。新しく「マイクロコンピューター(マイコン)」が登場していました。これは、私が以前見ていた大きなシステムよりもずっと手ごろなものでしたが、私達の仕事に必要な膨大な処理をする能力があるかどうかははっきりしていませんでした。ビルがシステムには何が必要かについて説明している間、私はノートを持って座っていました。彼のところで何年も働いていたのですから、何が必要かということについて、大部分は既にわかっていましたが、最近の状況については知りませんでした。例えば、顧客が何人いるか、などについてです。全体の概要を書き留め終わった時、私は息の詰まる思いでした。彼が必要としているのは、かなり複雑なシステムであることがはっきりしたからです。顧客は数千人、毎日の請求書は数百通。しかしなんといっても心配なのは、システムの安全性についてでした。いったんシステムが動き出したなら、きちんと動いてもらわなくては困るのです。もしうまくいかなかったら、事業全体がだめになってしまうかもしれません。

今、あの時の話し合いを振り返ってみると、私達がそのシステムを実現に移そうと決めたのは信じられないことのように思えます。確かに私は「わかりました。やりましょう」とは言いましたが、内心では「本当に自分に切り抜けられるだろうか?」と思っていたのに違いないのです...そしてビルのほうも、「よし、決まりだ!」とは言ったものの、内心ではきっと「本当に彼に切り抜けられるだろうか?」と思っていたことでしょう...

私はまずコンピューターを注文してそれを私の家に運ばせ、それに必要な膨大なプログラムを書き始めました。これは私がやりとげたことの中で、百人一首シリーズの次に大きな仕事です。プログラムは数百ページに及び、しかもこれらがすべて連動してうまく動かなくてはならないのです。言ってみれば、細部まで綿密に組み立てられたひとつの大きなパズルのようなものでした。私はこれを作るのに非常に充実した時間を過ごしました...

プログラムができあがり、サンプルデータのテストが済むと、私達はコンピューターを事務所に移し、いよいよ本物のデータを入れることになりました。事務員が交代で古い書類のデータをコンピューターに入力していきました。何千人という顧客の記録です。そうしてついに「移行」の日がやってきました。システムが実行に移されるのです。プリンターから流れ出てくる請求書の山を見たときは感無量でした。ビルもきっとあの日のことを今でも覚えているに違いありません。「私のプログラムが会社を救ったのだ」と言ったらちょっと言い過ぎになるでしょうが、会社の資金繰りや経済的な安定に劇的な効果をもたらしたことは疑う余地がありません。その小さなマイコンは実にすばらしい働きをしてくれました。たった32Kbのメモリしかないというのに(今、私が会計事務に使っているコンピューターのメモリの12,000分の1です!)、その後数年間、何百万ドルもの仕事上の資金を扱っていたのです。

そして私はどうなったかというと...プログラムが完成してすべてが順調に動き始めた後は、また以前の生活にもどりました。本を読みあさったり、そして、版画作りの実験をもう少しやってみたり!たてつづけに3つの作品を仕上げました。どうしたらうまくいくのかという手がかりはまだつかめていませんでしたが、いろいろやってみるのを楽しんでいました。当時の版画を見ると、なんてお粗末な技術で子どもじみているんだろう、と笑わずにはいられませんが、でも恥じることは何もないと思っています。私は確かに、技術のない子どもだったのですから!

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