デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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さあ、時間になりましたよ‥‥200年ばかり昔にさかのぼり、少なくとも数分間は、気違いじみた現実の世界を離れて、過去の世界に生きてみましょう。今回の職人さんは、私が版木の上の紙をこするのに用いる道具である『ばれん』を作っている方です。彼は今だこの仕事をしているほんの数人のうちの一人で、彼に巡り会うことが出来たことを、幸運に思っています。彼の仕事場の写真を撮るのはちょっと難しく、結局あきらめざるをえませんでした。彼の部屋は約 2畳の大きさで、版画製作の材料であふれていました。彼の座布団に座ると、初期のスペースカプセルの中に座っているような気になります。どの方向にカメラを向けても、焦点が会うには近すぎました。私の表現が、彼の活動をうまく表しているといいのですが。それから今回は、版画の作り方の続き、昨年の海外での製作実演、その他いつもの話について述べてみたいと思います。
このニュズレターをレイアウトする段になって、いくつか問題が出てきました。レイアウト用の紙に全部おさまらなくなってしまいました。過去二回の発行で、その度毎により多くの事を入れようとしてきたことに気がつきました。まだこの先 8年もあるから、全員、又何もかも一度に紹介する必要はないわけです。次のニューズレターを書く時には、もうちょっとリラックスして、少なく書くようにします。どなたか良い英語の先生を紹介してくださいますか。
(前回からの続き)
天智天皇の完成には、一年かかりました。どうしてそんなに長くかかったのでしょうか。それを彫り初めた時には、日本に来て一年半たっていました。1986年の夏に来てから、版画製作の仕事に飛び込み、初めの2-3か月で、3-4枚の版画を作りました。又、家族を支えていくのに自宅で英会話教室を始めました。初めの目的は、生活に必要なだけ教えて、ほとんどの時間は版画製作に使うつもりでした。
しかし東京では生活費が高いことにすくに気がつきました。私達の、ささやかな貯金は、アパートを借りる為の費用にあっさりと消えてしまい、又、始めは、家計の収支のバランスを合わせる為にたくさんの生徒に教えなければなりませんでした。その最初の一年はおもちゃのビジネスもしました。殆ど何ももたないで日本に来たので、二人の子供達は、遊ぶものがありませんでした。そこで、幾つかの木のおもちゃ、パズル、を作りました。それらのおもちゃが、よくあるプラスチック製とは違っていたので、近所の方々や友達も興味を持たれました。そこでリクエストに応えて、販売用にいくつか作り始めました。そしてそれは少しづつ拡大して、作るのに非常に時間がとられるようになりました。
1987年から1988年にかけて英語の授業、おもちゃ製作、版画製作の三つの仕事が私の時間を奪い合いました。一週間に英語クラス18(加えて準備に要する長い時間)、手作りおもちゃの注文(製作に非常に時間がかかる)、それに加えて私の妻の医学翻訳の手伝いと、これらの総て一緒になって、私のエネルギーのほとんどが吸収されてしまい、版画製作は二次的になってしまいました。家族を支えていくことが、より重要でした。これら総ての仕事は、楽しかったけれど余りに多すぎて...そして悪いことにそれは、あたかも踏み車を回しているようで、先が見えませんでした。こうして私の初めの目的である版画製作は、だんだん影が薄くなって行きました。
1988年の9月のある日『決定』をすることにしました。英語は基本的出費をまかなう為に必要だとわかっていました。しかしどちらを次のキャリアにすべきであるか。そこで私は、それぞれの仕事のメリット、デメリットを全部リストアップしました。おおくのポイントがあるましたが、決定因子は手軽なことでした。おもちゃ作りは、大きな仕事場、たくさんの道具、複雑で細かい販売網を必要とします。しかしながら版画製作は小さな部屋で出来、簡単に場所が変えられ、私と収集家との直接交流で行えます。私は決定を下しました。残念ながらおもちゃビジネスは止めることにしました(いくつかのパズルやおもちゃが、まだ押し入れのなかに残っています)。英語の授業には、それでもまだかなりの時間が取られました。しかし、少なくとも一週間に一日は、他のことに煩わされないで完全に版画の為に使おうと決めました。それはうまくいきました。わたしの家族の協力のもとに、天智天皇の彫りは、数ヵ月後の英語の授業の正月休みの間に終わりました。
どんな風であるか見るために、いく枚か試しずりをしてみました。そしてそれが信じられませんでした。その版画はきれいでした(実際は、その当時私のすりの技術が悪かったので、もしこの時すったものをあなたがたがご覧になったとしたらとても恥ずかしいです)。その夜、最初の版画を楽しみながら、その時初めて他の方々も興味を持ち、ひきつけられるかもしれない何かが出来たと感じました。翌朝セットしたおいたラジオの音で目が覚め、昭和天皇が亡くなられたニュースを聞きました。日本は新しい時代に入ろうとしていました。.. 私はその時には気が付きませんでしたが、私の人生も新しい段階に入ろうとしていました。そして今までの人生において最も大きな出来事が始まろうとしていました。
... 続く ...
ほとんどの日本人の方々は、大量の有名な過去の浮世絵版画が、外国の美術館や収集家のもとにあるということをご存じです。 欧米の収集家は、いちはやくそれらの版画の芸術的価値を認めました。 その当時、日本人はそれらの価値を見いだしてはいませんでした。 そうであるら、私の版画のお客さんの約1/3が、日本人以外であるとしても不思議ではないわけです。
1990年 1月末、英字新聞ジャパンタイムズに載ったちょっとした記事により、外国人の方々にも私の仕事をわかっていただける機会がありました。 いろいろ問い合わせの電話がかかったうちの一人が Rebecca Marck からで、当時、彼女は、長野県の高校の英語の教師でした。 彼女はすぐに熱心な収集家の一人になってくださいました。 最近、週末を利用して東京に来られ、青梅市での私の版画の展示会に来てくださった時に彼女について少しばかり知る機会を得ました。
Becky は目下、長野県の信州大学で、語学の教師をしています。 彼女と話しているうちに、彼女が日本にいることの主な関心は、相互理解を深めることにあるという確かな印象を受けました。 彼女は、生徒が英語がよりうまくなる事だけではなくて、世界中のいろいろろいろな所に住んだ彼女の経験を分かち合い、他の文化や、土地について学びたいという熱望を育てたいと望んでいます。 彼女は、明らかにそのような哲学で生きています‥‥言葉さえも彼女自身のものからは違っている国に住み、ここで出来る経験を、出来るだけ多く取り込みたいと思っています。 他のどんな理由で、単に展示会に来るために数百Km を旅し、インド料理店で食事をするために、もう 2時間ばかり電車に乗り、ウインターフェスティバルに参加するために、又数百Km 旅をし、そして翌朝のクラスの準備をするために、急ぎ足で家に戻るのでしょうか(生徒の為におもしろい話をもち帰っていることは疑いのないことです)。
この百人一首シリーズへの参加は、彼女にとっては何かしらより大きな意味をもちます。 彼女は、これらの遠い昔の歌人から、彼らの歌を勉強する今日の若者までの連続性について語りました。 歌とその文化的背景は、保存され、何百年も何百年も繰り返し解釈されてきました。 彼女はその伝統の活動部分であり、その鎖が切れないで、この重要な文化的遺産が、時としてそのようなものには関心のない新しい世代によって、脇によけられないように確かめる助けとなりたいと思っています。
彼女は、展示会に来られたとき長野県からお土産をもってきて下さいました。 それはみずみずしい信州りんごで、展示会に来てくださった方々と分かち合い、彼女が発った後にもその香りは残りました。 経験を分かち合った思い出は、彼女の日本の生徒や友人の中に残り、彼女が生まれるのを助けてくれている版画は、次の世代への遺産として残るでしょう。 Beckyさん、私の仕事に対しての援助、及び勇気づけの言葉に深く感謝致します。
私は少しばかりあせり始めました。電話で 『もちろんあなたの家を見つけられるから心配しないで』と言いましたが、たぶんだめかもしれません。私の羽村の家から、埼玉県の下藤沢まで自転車でちょうど一時間で来て、何も問題がないかに見えました。しかし私は今その家を探してイライラしながらあちこち走り回っています。遅くなるという恐れから、自尊心を飲み込んで人に訪ねることにしました。私は一人の婦人が落ち葉を掃き集めている狭い道に、自転車を向けました。 そしてためらいがちに彼女に尋ねました。『すみません。 下藤沢の480はどこにありますか』それは彼女の家の番号で、ここが私の目的地でした。彼らの町につくまでに一時間かかり彼らの家を探すだけにもう一時間かかりました。
私は仕事場を見せていただく為に、そして版木の上の紙をこするのに用いる手作りのばれんを注文するために五所菊雄さんを訪ねました。この時まで私はいろいろなばれんを使ってきました。そのほとんどは、画材店からもとめた学生用の道具です。これらのいくつかは、かなり高く、約15000円でしたが、満足出来るものではありませんでした。そして私はこれらを使用することに、だんだんとイライラしてきました。仕事のへたなのを悪い道具のせいにするのは、へたな職人であるということわざがありますが、そうはいってもプロの人が、おもちゃの道具を使っているのを見たことがないでしょう。何人かの版画の職人さんが、五所さんの所へ行ってみるように勧めて下さいました。もっと早く訪問すべきだったようです。
家は小さく、その家に入り、狭い通路を体を横にして通った時に、両側のありとあらゆる隙間が版画製作に関係のある本、道具、版画の膨大なコレクションで埋められているのが見えました。彼は明らかに『版画』の為に生きています。仕事場は、私がかって見たそのどれよりも小さなものです。五所さんは 2畳の部屋たどいわれますが、床面が全く見えないからその言葉をそのまま受けとるしかありません。入口から一歩で直接座ぶとんの上に行きます。部屋に入るのではなく、部屋を身につけるようです!
彼の仕事は『竹』の一語に要約出来ます。と言うのはこのいろんなことに利用出来る植物は、彼のばれんを作る材料を提供します。版画家のばれんは三つの主要部分からなっています。白竹の皮を文字どうり何千という細い紐状に裂いたものを、堅くコイル状にした部分、あてがわとして、薄い和紙をかたつむりのペースで、一日一枚づつ一ヶ月かかって糊でくっつけた部分、最後はカバーで、これには真竹の竹皮を用い、特別のやり方でしっかりとくるみます。このやり方は何世紀もかかって少しづつ発達し、他の何ものででも代用できないほど、版画家の必要性によく合っているということを証明しています。プラスチックで形を作ったもの、小さな金属の玉をテフロンにはめこんだもの、その他いろいろの工夫をこらしたものなど、現代の企業家は何十ものそれに代わるものを作ろうとしてきました。そのどれもが、伝統的な材料のようには役に立ちません。竹は『王』の位置を保っています。
客の注文に応じて仕事をしている五所さんに戻ります。コイル状のものを作るために、竹皮を必要な長さ(20cm位)に切り外層をはがしたものを細く裂き、注意深く湿らせて準備します。彼はかぎのついた木の棒の前に座り、細く裂いた竹皮四本を用いて編み始めます。最初の部分は輪にしてかぎに結び、電光のごとき早さでよりあわせて、数cmのデリケートな竹皮の綱が出来ます。竹皮が、彼の手の中で短くなると、新しいのを足して行きます。彼の手は文字どおりぼやけて、何をしているか見ることが出来ません。私は細い竹皮と、長くなっていく綱を単に持っているのに指が何本必要か数えようとします。 12本まで数えて諦めます。普通のばれんには、このデリケートな綱を18m用います。あるばれんにはもっとずっと長く用います。必要な長さになるまで長い長い時間がかかります。竹皮を堅い綱によっていく彼の指先は堅い皮膚で被われています。
あて皮も同時に作り始めます。カーブのついた型板の上に非常に薄い和紙を毎日一枚づつ重ねていきます。必要な枚数を重ね終わると、その上に絽の布を貼ります。そしてその上に漆を塗っていきます。出来上がりは高級な漆塗りのようになります。今月彼はこの美しいばれんを6個作ります。一つ一つが、それを生涯の宝物にするであろうお客さんの所に送られます。
大きさや、綱の数をいくつにするかとかの話し合いの末、私は一つ作ってくださるようにお願いしました。値段は5万円で高いようですが、作る為の仕事量を考えると実際はバーゲンで、私はそれを何年も何年も使うでしょう。彼は約6週間で出来上がると約束して、私は帰途につきます。来た時よりも少しばかり真っすぐに。
...
彼からの電話がやっとかかってきました(電話をそばに置いて寝ていました)。私と三千代は、出来上がったばれんをうけとりに、自転車をこぎました。9年間だめな道具で苦労して‥‥そんなに素晴らしいばれんは見たことがありませんでした。平均的な道具で練習して、どうやってするか解ってきてから一段上がって、ついに本物の道具を手にすることは、本物の道具に対して、本当に素晴らしいと感じられるやり方です。このばれんはこれからずっと私のパートナーになるでしょう。去年あなたがたが受け取られた版画は、五所さんの手作りの道具で作りました。
時おり訪ねる東京の摺師の方々は、薄いのとか、厚いのとか、重い綱のとか、軽い綱のとかたくさんのばれんを持っていらっしゃいます。彼らは、今している仕事に一番合ったばれんを選びます。将来(それが近いことを願っています)私の技術がもっと上達したら(お金もあったら)、五所さんのマジックの竹皮の綱が、飛ぶような指でよられていくのを見にここに戻ってきます。もしなめらかで、深い色が、私の版画に現れるとしたら、その大部分は彼がかがみこんで、この驚くべき竹皮を際限なくよっている大きな時間に負っています。
五所さん、あなたの大変な仕事それらに対しての献身に感謝します。
昨年の『秋号』で、私は彫りの為の基本である墨線用の版木の準備について書きました。もちろん各版画の色の部分を摺るのにも版木が必要です。それらをいかにして準備するのでしょうか。
墨版(基本の版)が彫り終わるまでは、色版の準備は出来ません。現代の版画製作では黒は単に一つの色にすぎなく、他の色と同じように取り扱われるでしょうが、浮世絵では、色版を製作する基になります。単に興味本位に、私は色をつけないで墨すりのままの版画のセットを手元に置いています。これらは、完成した版画と同じほど心ひかれるものです。事実、これらのモノクロ版画では、色に気をとられないから、生き生きとした流れる線が紙の上で動きます。
墨版を彫り終わると、版木にくっついている原画の紙をきれいに取り除き、すきとおるように薄い紙に墨線を摺ります(墨線を摺った紙を校合『きょうごう』といいます)。これらの紙は、墨版に用いたのと同じような非常に薄い紙です。出来上がりの版画の色の数だけ校合摺りを行います。それぞれの校合に、注意深く色別に印を付けます。ハイライトを用いて、たとえば皮膚の色をするべき部分にマークを付けます。他の校合には、着物の部分にまーくを付けるといった具合です。そのようにして全部にハイライトを付けます。各色一枚づつ必要です。昔は、これをするのに朱を用いました。しかし私は蛍光『ハイライター』(紙にしわがつきにくい)を用います。全部終わってから間違いがないか確かめ、それぞれの校合を表を下にして注意深く版木にはりつけます。それから、マークにしたがって彫ります。これで、出来上がりの版画に必要な全色の版木が出来上がることになります。もし私が注意深く仕事をやり終えたとしたら、彫った色板の部分は、墨版の対応する部分とマッチします。
この手順にはもうひとつの必要なステップがあります。実際の摺をする段になった時に、注意深くほった各版木に紙を合わす事ができなければなりません。墨は常に一番始めに摺り、その紙は、色板の正確な位置にもっていかなければなりません。それには、1700年の半ばに日本の版画職人が最初に用いた見当『けんとう』という工夫が用いられます。墨版を彫るときに、紙を当てる小さな 'L' 字がた溝を版木の一つの角に作り、小さな真っすぐの溝を版木の縁にそって彫ります。これらのマークの位置は、上で述べた校合に表れ、マークのマッチした見当を各色版に彫ることが出来ます。
摺に際しては、紙の角を 'L' 字型(かぎ見当)に合わせ、紙の縁を真っすぐの溝(ひきつけ)に合わせ、版木の上に紙を静かに落とします。少なくとも理論的にはうまく行きます。実際には別問題です。たくさんの因子が、この手順をもう少し複雑なものにします。それぞれの紙の湿る具合(湿り具合が大きいと紙はより拡大します)、部屋の湿度(これはシーズンによって非常に違います)、版木の上と下の湿り具合(版木の反り返りの度合いをコントロール)、摺に加える力の量(紙がのびる)、そしてもしかしたら金星の並び方かもしれないと思います(私がコントロール出来ない何かがあるのでしょうか、それでなければ何のせいにすればいいのでしょうか)。
時には総てうまくいき、見当や引き付けの調整の必要がありません。これは稀です。見当は、仕事中常に調整するというのが普通です(非常に経験のある摺師でさえもそうです)。版木からはがす度に間違いを見付けて正すために、一枚一枚一色ごとに調べなければなりません。それは大変やっかいな手順です。前のニュースレター(1990秋号)の6ページの原画の写真を見ていただきますと、冠のえいの部分の色が、約1mmずれたいつことがおわかりになると思います。摺師は次の紙の摺にかかる前に、必要な調整をしたと思います(少なくとも私はそうであったと願っています)。
版画製作は難しい仕事ですが、おもしろく、私の性格に影響を及ぼしています。几帳面に、注意深く、そのうえに忍耐強くなるように訓練されます。私の両親は、これを読むと大笑いするに違いありません。
昨年の11月、12月は5年近い日本滞在で初めての旅行をして、とても楽しく過ごしました。11月には、毎年ロスアンジェルスで開かれる大きなイベントであるジャパンエキスポで、3日間木版画製作の実演をしてとてもいそがしかったです。今年は約8万人入り、私はその全員と話をしたように思います。私は日本から招かれた、人形職人、駒職人、紙漉き職人、二人の版画職人の一人でした。
この展示会は、トヨタやヤマハのような大会社から下は、え‥木版画製作まで、完全に日本の物でうずめられていました。もう一人の版画職人である、関健二氏と私は、大きく積み上げた紙の山を、ショー期間中に次々と全部摺りました。版画の作り方について、全部の方々が、ほんの少しでも知識を得て下さったとしたら嬉しく思います。もちろんほとんどの方々は、数分間ながめるだけで、次の所に移って行かれましたが、驚くほど多くの方々に、私の仕事のいろんな面におけるかなり細かいことまで説明することを求められました。 関氏と私は、いいコンビネーションでした‥‥彼は人々の期待する『本物』のイメージであり、一方私は、お客さんの理解出来る言葉で、私達のしていることについて説明することが出来ました。
ここ自宅の仕事場で私は、何時間も仕事台の前にあぐらをかいて座っていることに慣れてきてはいましたが、ロスアンジェルスのショーでは、初心者のようにひざが痛くなりました‥‥三日間休みなしで毎日10時間。
数日後、私達はシアトル、バンクーバーをさして列車で北へと向かいました。それはとても楽しい旅でした。列車はとても快適で、美しい景色の中を静かに進み、日本への帰途も、線路の旅であればいいなと思いました。バンクーバーではずっとスケールが小さなアートギャラリーでのプライベートパーティと翌日一日の実演をしました。
北アメリカの旅で一つおもしろかったことは、『どこで習うことが出来ますか』と聞かれた人の数でした。日本で何か実演をするときには、日本人の方々はじっと見ておられますが、アメリカではやりたがりました。いつの日かこの方法での版画製作が、日本で滅びてしまうとしても、世界の他の所で、熱心な人々によって生き残っていくであろう確信します。もちろんそれをやってみたい人々の全員が、技術のある職人にはなれないでしょうが、一般的なはばひろさがなければ、その技術を保っていくことは出来ません。この理由により、私は、出来る限り多く大衆の前に出ることを続けていきます。そしてそれにかかわりたい方々にたいして、誰にでも出来るだけ勇気づけ、援助したいと思います。どなたか新しい趣味をお探しですか。
1ページ余白ができたので、私の三人の協力者を紹介したいと思います。三千代は、この版画シリーズの為に公式に三つの仕事をしています。このニュズレターの翻訳、摺に使う糊作り、それから墨汁作りです。
日実と富実は、まだ特別な仕事は、ありません。彼女達は、7才と 5才で、この百人一首シリーズが完成した時には、15才と13才になっていると考えると信じられません。もっと頻回に、版木から顔を上げて、『遊ぼう!』と彼女達に言うように、心がけなければならないようです。