デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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その3:一番目の版画

(前回からの続き)

天智天皇の完成には、一年かかりました。どうしてそんなに長くかかったのでしょうか。それを彫り初めた時には、日本に来て一年半たっていました。1986年の夏に来てから、版画製作の仕事に飛び込み、初めの2-3か月で、3-4枚の版画を作りました。又、家族を支えていくのに自宅で英会話教室を始めました。初めの目的は、生活に必要なだけ教えて、ほとんどの時間は版画製作に使うつもりでした。

しかし東京では生活費が高いことにすくに気がつきました。私達の、ささやかな貯金は、アパートを借りる為の費用にあっさりと消えてしまい、又、始めは、家計の収支のバランスを合わせる為にたくさんの生徒に教えなければなりませんでした。その最初の一年はおもちゃのビジネスもしました。殆ど何ももたないで日本に来たので、二人の子供達は、遊ぶものがありませんでした。そこで、幾つかの木のおもちゃ、パズル、を作りました。それらのおもちゃが、よくあるプラスチック製とは違っていたので、近所の方々や友達も興味を持たれました。そこでリクエストに応えて、販売用にいくつか作り始めました。そしてそれは少しづつ拡大して、作るのに非常に時間がとられるようになりました。

1987年から1988年にかけて英語の授業、おもちゃ製作、版画製作の三つの仕事が私の時間を奪い合いました。一週間に英語クラス18(加えて準備に要する長い時間)、手作りおもちゃの注文(製作に非常に時間がかかる)、それに加えて私の妻の医学翻訳の手伝いと、これらの総て一緒になって、私のエネルギーのほとんどが吸収されてしまい、版画製作は二次的になってしまいました。家族を支えていくことが、より重要でした。これら総ての仕事は、楽しかったけれど余りに多すぎて...そして悪いことにそれは、あたかも踏み車を回しているようで、先が見えませんでした。こうして私の初めの目的である版画製作は、だんだん影が薄くなって行きました。

1988年の9月のある日『決定』をすることにしました。英語は基本的出費をまかなう為に必要だとわかっていました。しかしどちらを次のキャリアにすべきであるか。そこで私は、それぞれの仕事のメリット、デメリットを全部リストアップしました。おおくのポイントがあるましたが、決定因子は手軽なことでした。おもちゃ作りは、大きな仕事場、たくさんの道具、複雑で細かい販売網を必要とします。しかしながら版画製作は小さな部屋で出来、簡単に場所が変えられ、私と収集家との直接交流で行えます。私は決定を下しました。残念ながらおもちゃビジネスは止めることにしました(いくつかのパズルやおもちゃが、まだ押し入れのなかに残っています)。英語の授業には、それでもまだかなりの時間が取られました。しかし、少なくとも一週間に一日は、他のことに煩わされないで完全に版画の為に使おうと決めました。それはうまくいきました。わたしの家族の協力のもとに、天智天皇の彫りは、数ヵ月後の英語の授業の正月休みの間に終わりました。

どんな風であるか見るために、いく枚か試しずりをしてみました。そしてそれが信じられませんでした。その版画はきれいでした(実際は、その当時私のすりの技術が悪かったので、もしこの時すったものをあなたがたがご覧になったとしたらとても恥ずかしいです)。その夜、最初の版画を楽しみながら、その時初めて他の方々も興味を持ち、ひきつけられるかもしれない何かが出来たと感じました。翌朝セットしたおいたラジオの音で目が覚め、昭和天皇が亡くなられたニュースを聞きました。日本は新しい時代に入ろうとしていました。.. 私はその時には気が付きませんでしたが、私の人生も新しい段階に入ろうとしていました。そして今までの人生において最も大きな出来事が始まろうとしていました。


... 続く ...

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