デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 2004

今回は、ちょっとした区切りともいえる号、「ハリファックスから羽村へ」がついに最終回となります!デービッドはいつになっても日本に辿り着かないだろう、と思われた読者もたくさんいらしたことでしょう。次回からどのような話を替わりにするかは、まだ決めていませんが、... ま、何かになるはずで...

それから、「スタジオ便り」もあります。私が数年掛かりで取り組んでいる、せせらぎスタジオの改装工事の最新状況です。遂に断熱材を壁にはめ込み、今年の冬は自分の吐く白い息を見ずに版画制作ができそうです!

他にも「貞子のコーナー」と「よくある質問」がありますが、来年1月23日〜29日に開催する「四季の美人」の展示会についてもお知らせします。開催時期はほぼ同じですが、今回は場所が変わることに注意してください。新宿の高野に行ってはだめですよ!今度からは、場所が有楽町に変更となります。詳細は一番最後のページにあります。

ハリファックスから羽村へ

日本に発つ前の2ヶ月は、大変あわただしいものでした。本当の「引越し」とはちがって家財道具一切を送る、というようなことはなく、いわば「冒険旅行」のようなものでしたが。私達は貸し倉庫を借りて、そこにほとんどのものをしまいこみました。

私達の計画にちょっとした狂いが生じたのは、準備を始めてからのことでした。バンクーバーの日本領事館から、私のビザ申請が却下された、という通知があったのです。これは大問題でした。滞在延長を許可するビザなしでは、日本での生活を築くことはできないからです。成田に着けば、通常の旅行者として3ヶ月の滞在が許可され、もう3ヶ月延長することもできる、ということはわかっていました。でも、その後は、私は日本を出なければならないのです。

しかし私は、こういった「官僚的な妨害」には屈するつもりはありませんでした。私たち4人は友人達にさよならを言い、とにかく日本へと飛び立ったのです。1986年7月1日のことでした。

日実と富実はそれぞれ3歳と1歳になったばかりでした。富実はまだしっかり歩けない状態でしたが、数年前に彼女の姉が世界旅行にでかけた時にそうしたように、私の背中のキャリーにのっかりました。彼女の母親のバックパックには私たち4人の着替えとふたりの娘のための小さな布製のおもちゃがひとつずつ。それで私たちの必需品は完璧でした。

私は日本語を話せたのでしょうか?ごく初歩的な挨拶だけ。住むところは?まったくあてがありませんでした。どうやって生活していくつもりだったのでしょう?これは比較的簡単なことでした。私は、よく考え抜いた英会話教室の企画書を携えていました。小学生から大人を対象に、1週間に4回の教室を開き、私たちが当面暮らしていけるだけの金額を授業料として得ることができるように計画していました...当面...何をするにしても!

しかし、ビザがなくては、この計画は意味のないものになってしまいます。日本では旅行者が働くことは認められていません。成田に近づいていく飛行機の中で、私は入国管理局でどう言えばいいかを考えていました。実のところ、選択肢がそれほどあるわけではありませんでした。私にできるのは、ただ、私たち4人を紹介し、日本で木版画を勉強したいということを伝え、彼らの慈悲にすがることでした。うまくいけば、滞在が許可され、仕事をすることもできるだろう...

入国審査で、私たちの番がやってきて、私は自分の話をし始めました。係官はしばらく私の話を聞いていましたが、途中でさえぎって、「こちらは奥さんですか?そしてこちらがお子さん?何が問題なんです?配偶者ビザを申請すればいいだけのことじゃないですか。」

私は心底びっくりしました。バンクーバーの日本領事館との、のらりくらりとしたやりとりの中では、そんな話は一言も聞かなかったからです。領事館では、私たち4人がそろって出向き、まさにこの問題について話をしていたというのに、です。もちろん、すぐに私は配偶者ビザを申請しました。しかし、ことはそれほど簡単ではありませんでした。というのは、カナダにおける「慣習法」による結婚は、日本政府には結婚とは認められなかったからです。私たちが、保護を必要とするふたりの子どもを持つ「ほんもの」のカップルであることが明白であるにもかかわらず、規則は厳格でした。結婚証明書がなければ、ビザはおりないのです。

でも、たいした問題ではありませんでした。その日、私は旅行者ビザで入国しました。埼玉県北部にある彼女の姉の家に泊まって2、3日ゆっくりした後、私たちふたりは町役場で婚姻届を出しました。家族4人の写真が必要、とのことだったので、近くの店でここにあるような写真を撮りました。手続きが終わるとお昼時で、私たちは近くのうどん屋さんで結婚を祝いました!それから、入国管理局へ行き、必要な手続きをしました。申請は受け付けられ、問題は解決です!新しいビザの有効期間はまだ3ヶ月だけでしたが、旅行者ビザよりずっと長い期間延長できるものです。そしてもっと大事なことは、私が仕事をする許可がおりた、ということでした。

次なる課題は、住むところを見つけることでした。というわけで、私の家探しが始まったのです。彼女が子ども達と姉の家で過ごしている間、私は毎日、電車に乗って東京の町へ出かけました。初日はかなりショックを受け、落ち込みました。私がまず向かったのは、多くの熟練した職人が住んでいそうな町、浅草でした。しかし、そこの不動産屋さんでわかったことは、私の計画には変更が必要だ、ということでした。私たち家族4人、これに英語教室のための部屋を加えて、いわゆる3DKのアパートが必要だと考えていたのですが、東京下町での1ヶ月の家賃は、私の予定していた予算の3−4倍だったのです。もっと都心から離れて探さなければなりませんでした。

毎日、私は違った地域へ出かけて、不動産屋さんを訪ね、何かよい物件がないかを物色し、そうして日に日に都心から遠ざかっていきました。数日後、東京西部の国分寺に出かけて、そこでも何も見つけることはできず、不動産屋さんにどうしたらいいと思うか尋ねてみました。彼らはファイルを見ていくつかの賃貸物件のチラシを提示してくれました。その中からひとつ、家賃の高くない物件を選んで、私はそれを見に行くことにしました。都心からさらに離れ、青梅線沿線へと向かったのです。そこは羽村と呼ばれる町で、なかなかよさそうな所でしたが、私の見たアパートは産業道路に面していて、大きなトラックが絶え間なく通っているようなところでした。これじゃだめだ。駅にもどって家へ帰るしかない...

駅へ向かうのに適当にあちこちの道を歩きました。とてもお天気のいい日で、町は本当に魅力的なところに見えました。いったん産業道路を離れると、通りは静かで落ち着いており、公園や緑がたくさんありそうに見えました。たまたま不動産屋さんを通りかかり、そこに出ている賃貸物件の広告を見て、他にいいものがないだろうか、と入ってみることにしました。そしてこれが今までの最善手となりました。新築で賃貸に出されたばかりの物件がいくつかあったから、というだけでなく、彼らが実に気持ちのいい人たちで、私のたどたどしい日本語にもかかわらず、とても親切にしてくれたからです。彼らは私を車に乗せ、公園や保育園、スポーツセンター、その他たくさんの施設などを見せて、羽村を案内してくれました。そんななか、開放的で明るい感じのアパートを見に入りました。そこは新築されたばかりで、家賃も、多少きつくはありましたが、払えない額ではないことがわかりました。

翌朝早く、私は子ども達の母親とともにそこへ行き、彼女の承諾を得て、保証金と前払いの家賃を払い、契約書にサインしました。その翌日、私たちは娘達とバックパックを背負って引っ越してきたのでした。

この後14年間、私はこのアパートに住むことになりました。これは今までいろいろな所に住んだうちで最長記録です。娘達はすぐにここの環境に馴染みました。そして、ありがたいことに、近所の人たちが本当に「開放的」だったのです。引っ越してきて数日で、私たちにはたくさんの友人ができ、うちの玄関はいつも靴が山積みの状態でした。版画制作を始めるかたわら英語を教える、という試みも実にうまくいきました。まるまる5年間、近所に住むあらゆる年齢層の何百人という人たちが毎週うちにやってきて、レッスンを楽しんでくれました。羽村での生活は、日本での生活はこんなものだろうと想像していた以上に、素晴らしいものでした。  そして、そんなある日、羽村図書館の司書、江上さんが勝川春章による100人の歌人の絵を含む本を見せてくれたのです。それが何をもたらしたかについては、このニュースレターの初期の号で詳しく書きました。というわけで、ここでこの話はおしまいです。この続きは、みなさんご存知のとおりです...

* * *

ついに「ハリファックスから羽村へ」は完結しました。このシリーズを始めるにあたって申し上げたように、ほとんどの欧米の読者の方々はこんなふうに思われるでしょう。「だからどうしたっていうんだ?この男はちょっとばかし動き回って、こっちをかじりあっちをかじり、ようやく何かにたどりついたっていうわけだ。そんなのみんなやってることじゃないか!」 でも、多くの日本の読者が育ってきた社会はそうではありません。私がやってきたようなやり方で「自分探し」のためにあれこれやってみる、という自由が若い人に十分与えられている、とはいえない社会だったのです。今、日本では、少しずつ、そんな自由がきくようになってきています。そして多くの人が、「今日の若者は方向性を欠いている」と心配しています。

みなさんはもうおわかりでしょうが、私は彼らのことをそれほど心配する必要はないと思っています。確かに、今、日本の社会システムがずいぶん大きく変わりつつあります。そして私は「すべてうまくいくよ」などと言うつもりはありません。しかし、だいたいにおいて、私はこのところの社会の変化はいいことだと思っています。かつては厳格な年功序列方式のため、かなり若い時期に自分の進路を決めなければならず、途中でそれを変えることもできませんでしたが、現代では、人生の違った場面で、進路を変更し、自分にあうものを探すことがもう少し柔軟にできるようになってきています。

もし私がそんな柔軟な選択をすることができなかったなら、今頃どうしていたでしょうか... 想像がつきません。このシリーズの中で見てきたように、私にはやってみたいと思ってみたものをなんでもやってみる自由が必要でした。「学歴」とか「資格」にこだわらずに私の技術と能力を額面どおりに受け入れてくれるような社会が必要でした。なかでも一番必要だったのは、失敗しても非難されたり咎められたりしなくてすむ、という自由でした。

私の両親は、いったい私が一人前にになれるだろうかと思うことがあったかもしれません。私は彼らにとっていつも頭痛と心配のタネだったことでしょう。でも、両親はいつも、私が必要な時には助けの手をさしのべてくれましたし、放っておいても大丈夫な時にはただ見守ってくれていました。どちらかといえば偏狭な価値観の支配する社会で育ってきた両親が、どこでそんな素晴らしい両親となる方法を学んだのか私にはわかりませんが、私も自分の子ども達に対してそのような親でありたいと思います。結果は時が証明してくれることでしょう!

読んでくださってありがとうございました...

スタジオ便り

めっきり御無沙汰していたので、デービッドは工房の改装などもう諦めてしまったのかな、と思われても仕方ないですね!なんのなんの、ここにある写真が証拠です。

このシリーズの1回目でお話したように、この改装プロジェクトの鍵を握っているのは「断熱」です。カナダ人である私から見ると、日本の家は実用性や効率性よりも伝統を優先するために、ほとんど断熱性に配慮していません。もう、こんなことをぐずぐず言うのはお終いにして、実行に移さなくては!

以前お見せした写真では、ツーバイフォー工法で内壁に作った部屋の枠組がむき出しでした。次のステップは、電気の配線をしてコンセントや壁面ライトを取り付ける作業です。

こうした作業をしていると、記憶の奥深くにあることが思いだされます。高校生の時に習ったスイッチの配線方法で、離れた2箇所で点灯を制御できる方式などですが、もう遥か昔のこと!こういった工事にいる電気部品は専門の人でないと手に入れられないのではないか、と心配していたのですが、近くのホームセンターにたくさん置いてありました。日曜大工は、もうかなり一般的になっているようです...

また、スピーカーなど音楽を聞くための機材を設置する場所への配線もしました。この部屋は外部からかなり隔離されているので、隣近所に気兼ねすることなく、仕事をしながら音楽を聞けそうです。

配線がすべて完了すると、断熱材を入れる工程になります。私は、北海道用のグラスファイバー製の断熱材を取り寄せました。とても気密性が高くて、取り付けて木工用ホッチキスで止めると、フワッと枠の中に広がってとても優れた断熱効果を発揮します。

貞子に手伝ってもらい、窓側を除く部屋の3面にはめ込んでいくと、作業をしているうちに部屋の感触が無音状態に近付き、周囲から遮断されたようになっていくのを感じました。天井はまだそのまま、壁のパネルも張り付けていませんから、完成にはほど遠い状態ですが、この工事をしただけで大きな違いが出ました。3方の断熱材をすべて取り付け終わると、室内の温度は遥かに安定し、夜になって急激に下がることも暑い日中にうんと上昇することもなくなりました。今年の冬はずっと快適に過ごせそうです。東京に18年間住んで、やっと凍えずに座っていられる部屋を1つ持てることになるんです!

良くある質問

昨年始めたこのコーナー、もういくつかの質問を取り上げてみました...

Q. 次の作品を公開しないのはなぜですか?

A. それには2つの理由があります。新たな集を企画する時には、もちろん作品を選んであるので、私自身は次を知っています。でも、摺物シリーズを続けているうちに気付いたのですが、途中で気の変わることが度々あるのです。計画しているよりも良いと思える作品を見つけて取り替えることもありますし、どうしても気に入らなくて他の作品を探すこともあります。ですから、あらかじめ作品を公開してしまうと、困ることになるのです。「実は、しかじかの理由で、お待ちいただいている次回の作品は、変更となって、うんぬん」と、言い訳をしなくてはなりませんから。

もうひとつの理由は、収集家の方達がもっと楽しめるように、という点にあります。どの集でも、次に来る作品についての大まかな推測はできることでしょうから、思ってもいないような版画が届くことはありません。でも、ほとんどの方は、私から届く包みを開く時には、ちょっとばかりわくわくした気持ちを味わうと思うのです。あらかじめどんな絵が中にあるのか分ってしまっていたら、楽しみが半減してしまうでしょう。もちろん、裏目に出るという可能性もあります。誰もが私の選択に同意する、というわけではないでしょうから。そういった点を考慮しても、全体としてみれば、毎回の意外性を楽しんでいただけていると解釈しています!

Q. 送られて来る版画のラベルには、版木(7枚)摺(15回)などと書かれていますが、これはどういう意味なのですか?

A. どの色も別々の版木で摺るのですが、版木1枚に1色というわけではありません。この例の場合、「版木が7枚」というのは、版木7面を使用したということです。つまり、3枚の板では表と裏の両面を使い、1枚は片面だけを使用したからです。こういった場合、たいていは7回摺るということになるのでしょうが、色に深みを出したり、ぼかしを表現するために、同じ面で繰り返し重ね摺りをすると、摺の回数が増えることになります。

さらに細かい点を説明すれば、ひとつの面に、別の色となる部分を一緒に彫ることがあります。これは、各々の場所が比較的狭くて、しかも摺を妨げない程度に離れていなくてはなりません。こういった場合は、たいてい2度に分けて各々の色を摺りますが、両方の部分に違う刷毛で別々の色を付けて一度に摺ることもあります。

摺の専門家という立場から言うと、何回摺ったか、言い換えれば、版木の上に何回紙を置いたかという点に意味があるのです。なぜなら、このことが、全工程にかかる時間を決定するからです。これは、紙に黴が生えないように対処する必要があるかどうか、ということにも関係してきます。

最近の私の作品で最も多かったのは35回摺で、この数字は記録には遥かに及びません。20世紀の「新版画」では、50回以上というのがざらで、中には100回摺などという複雑な作品もありますから。私のアルバムにはそれほどの作品はありませんが、これはひとえに制作時間が恐ろしく長くなるという点でかなわないのです。でも、いつの日かこういった特別な作品を作ってみたい、と思っていないわけではありませんよ。1年間に作品1枚だけという集があっても、みなさんに購入していただけるかどうか。そこが問題なのですが...。

ラッキー!

前回のニューズレターで、デービッドは自分の収支一切を公開した。この原稿を見せられた時、私は、どうしてこんな事を書くのか不思議でならなかった。なぜそこまで公開するのか。理由を聞くと、彼が自ら選んだ生き方で成功している証拠を示す数値であるからという。その数値が成功を意味するのか、低空飛行を意味するのか、そこはデービッドの基準に従うことにして、私はせっせと原文を我が国の言葉に移し替えた。

予定通り夏号の発送を終えて数日したある夜のことである、電話の向こうでこんな事を言う。「あのねえ、夏号を読んだ**さんも**さんも、僕の生活を心配しているんだって。どうしてなんだろう、僕は安心してくれると思ったのに...」電話中に失礼かとは思いつつ、正反対な物の見方の面白さに、正直私は笑いが押さえ切れなかった。それで、繰り返しお伝えしたい、デービッドは皆さんに安心して頂きたかったのである。

デービッドと知り合って間もない頃の事である、ふとこんな事を日本語でもらした「僕の収入、イッセンマンエン」。誤解されては困るのではっきり書くが、私は何も聞いてやしない、どんな会話の流れでこんな文章が飛び出たのかは記憶にないが、とにかく唐突に発せられたこの言葉に面喰らった記憶がある。おそらく税金の計算でもした直後だったのだろう。はっきり覚えているのは、この人は「ドけち」か「間抜け」のどちらかに違いないと確信し、分析を始めたということである。

目の前にある彼のママチャリは右と左に異なるペダルが付き、原形を止めないほどバラバラのパーツで出来ている。本人はニコニコして言う「拾ってきた自転車を拾い物の部品で修理したんだよ」じゃあ、ケチか?いいや、違う。だってプールから泳いで上がって来ると、先に上がったデービッドは、いつもジュースを買って待っていてくれるのだもの。

じゃあ間抜けか?ちょっと意地悪な私は、必要経費を引く事を知っているのかと聞いたのだが、収支決算の方法は私よりも詳しく、やぶ蛇であった。考えてみれば、なかなか頭の回転の良いヤツだということは明らかである。

さて、ふたつの選択肢のどちらでもなければ、何がこんなことを彼に言わせたのだろうか?この答えがはっきりと形になってくるためには、それから数年の付き合いが必要であった。サラリーマンを辞めて一家を引き連れて他国に移り住み、その国の文化である伝統木版画で食べていけるまでになった、その自信が背景にあったのである。

私が彼を訪ねる時は前もって連絡しているので、彼が制作する姿を見る事はあまりないのだが、時折その後ろ姿を見ることがある。私の存在に気付かず無心に版木に向かうその後ろ姿が眼に入ると、無意識のうちに背筋をピンと張って居ずまいを正してしまう。猛暑であろうと零下すれすれの室温であろうと、自ら選んだ道を真摯に歩む姿は常に変わらない。

物みなすべてのみならず、生き方までもが金銭を尺度として価値付けランク付けされる社会に慣れ切っている私にとって、彼の生きざまは新鮮かつ魅力である。手伝いをしながら、金銭に換算できない「生きる心」を感じ取れるなんて、私はラッキー!

来る展示会で重要なことは、開催場所の変更です。15年間も利用していた新宿の画廊から、有楽町にある東京交通会館に移ります。私にとって、この移動はとても大変なことで、余分な出費も嵩むことになるでしょう。というのは、年々工夫を重ねて作ってきたパネルや展示用具が、すべて以前の会場に合わせて作ってあるので、今回はゼロからの再出発になるからです。

とはいえ、新会場は広くて明るいところなので、私の版画を正しい形で見ていただけ、しかも魅力的な展示にすることができると思います。御存知のように、新しい作品は、「四季の美人シリーズ」ですから4枚しかありませんが、「デービッドの選抜き」も展示しますし、以前の作品もたくさんあるので、全体として楽しめる展示会となるでしょう。

大切な点: 新宿で開催していた時は、いつも木曜日から始まって次の週の火曜日に終わっていましたが、新しい画廊では事情が違います。展示会のサイクルは、すべて日曜日から土曜日までとなっているのです。開催期間が1日増えるのは嬉しいのですが、大変な問題が出てきました。会場設置に使える休日がないため、日曜日の朝、開場前のたった数時間で展示をしなくてはならないのです。今まで丸いち日をかけて行っていた作業なのにです。さらに悪いことに、ギャラリートークをするのには、日曜日以外考えられません。てんやわんやの日になることでしょう!貞子と私だけではとても切り抜けることはできそうもありません。それで、読者の中に会場設置のお手伝いをしてくださる方がいらっしゃいましたら、どうかお知らせいただきたいのです。お願いします!

  • 展示会: 2005年1月23日〜29日
  • 11:00~7:00 (最終日は6時まで)
  • 展示会場: 東京交通会館、地下1階、ゴールドサロン
  • 住所: 東京都有楽町2-10-1
  • JR有楽町駅下車、中央口または京橋口より徒歩1分 営団地下鉄有楽町線、有楽町駅下車、A8出口(会館内)
    営団地下鉄日比谷線、銀座駅下車、C9出口より徒歩2分
  • ギャラリートーク:1月23日(日)、2時から
  • (入場無料、デービッドはいつも会場に居ます)