デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

日本に発つ前の2ヶ月は、大変あわただしいものでした。本当の「引越し」とはちがって家財道具一切を送る、というようなことはなく、いわば「冒険旅行」のようなものでしたが。私達は貸し倉庫を借りて、そこにほとんどのものをしまいこみました。

私達の計画にちょっとした狂いが生じたのは、準備を始めてからのことでした。バンクーバーの日本領事館から、私のビザ申請が却下された、という通知があったのです。これは大問題でした。滞在延長を許可するビザなしでは、日本での生活を築くことはできないからです。成田に着けば、通常の旅行者として3ヶ月の滞在が許可され、もう3ヶ月延長することもできる、ということはわかっていました。でも、その後は、私は日本を出なければならないのです。

しかし私は、こういった「官僚的な妨害」には屈するつもりはありませんでした。私たち4人は友人達にさよならを言い、とにかく日本へと飛び立ったのです。1986年7月1日のことでした。

日実と富実はそれぞれ3歳と1歳になったばかりでした。富実はまだしっかり歩けない状態でしたが、数年前に彼女の姉が世界旅行にでかけた時にそうしたように、私の背中のキャリーにのっかりました。彼女の母親のバックパックには私たち4人の着替えとふたりの娘のための小さな布製のおもちゃがひとつずつ。それで私たちの必需品は完璧でした。

私は日本語を話せたのでしょうか?ごく初歩的な挨拶だけ。住むところは?まったくあてがありませんでした。どうやって生活していくつもりだったのでしょう?これは比較的簡単なことでした。私は、よく考え抜いた英会話教室の企画書を携えていました。小学生から大人を対象に、1週間に4回の教室を開き、私たちが当面暮らしていけるだけの金額を授業料として得ることができるように計画していました...当面...何をするにしても!

しかし、ビザがなくては、この計画は意味のないものになってしまいます。日本では旅行者が働くことは認められていません。成田に近づいていく飛行機の中で、私は入国管理局でどう言えばいいかを考えていました。実のところ、選択肢がそれほどあるわけではありませんでした。私にできるのは、ただ、私たち4人を紹介し、日本で木版画を勉強したいということを伝え、彼らの慈悲にすがることでした。うまくいけば、滞在が許可され、仕事をすることもできるだろう...

入国審査で、私たちの番がやってきて、私は自分の話をし始めました。係官はしばらく私の話を聞いていましたが、途中でさえぎって、「こちらは奥さんですか?そしてこちらがお子さん?何が問題なんです?配偶者ビザを申請すればいいだけのことじゃないですか。」

私は心底びっくりしました。バンクーバーの日本領事館との、のらりくらりとしたやりとりの中では、そんな話は一言も聞かなかったからです。領事館では、私たち4人がそろって出向き、まさにこの問題について話をしていたというのに、です。もちろん、すぐに私は配偶者ビザを申請しました。しかし、ことはそれほど簡単ではありませんでした。というのは、カナダにおける「慣習法」による結婚は、日本政府には結婚とは認められなかったからです。私たちが、保護を必要とするふたりの子どもを持つ「ほんもの」のカップルであることが明白であるにもかかわらず、規則は厳格でした。結婚証明書がなければ、ビザはおりないのです。

でも、たいした問題ではありませんでした。その日、私は旅行者ビザで入国しました。埼玉県北部にある彼女の姉の家に泊まって2、3日ゆっくりした後、私たちふたりは町役場で婚姻届を出しました。家族4人の写真が必要、とのことだったので、近くの店でここにあるような写真を撮りました。手続きが終わるとお昼時で、私たちは近くのうどん屋さんで結婚を祝いました!それから、入国管理局へ行き、必要な手続きをしました。申請は受け付けられ、問題は解決です!新しいビザの有効期間はまだ3ヶ月だけでしたが、旅行者ビザよりずっと長い期間延長できるものです。そしてもっと大事なことは、私が仕事をする許可がおりた、ということでした。

次なる課題は、住むところを見つけることでした。というわけで、私の家探しが始まったのです。彼女が子ども達と姉の家で過ごしている間、私は毎日、電車に乗って東京の町へ出かけました。初日はかなりショックを受け、落ち込みました。私がまず向かったのは、多くの熟練した職人が住んでいそうな町、浅草でした。しかし、そこの不動産屋さんでわかったことは、私の計画には変更が必要だ、ということでした。私たち家族4人、これに英語教室のための部屋を加えて、いわゆる3DKのアパートが必要だと考えていたのですが、東京下町での1ヶ月の家賃は、私の予定していた予算の3−4倍だったのです。もっと都心から離れて探さなければなりませんでした。

毎日、私は違った地域へ出かけて、不動産屋さんを訪ね、何かよい物件がないかを物色し、そうして日に日に都心から遠ざかっていきました。数日後、東京西部の国分寺に出かけて、そこでも何も見つけることはできず、不動産屋さんにどうしたらいいと思うか尋ねてみました。彼らはファイルを見ていくつかの賃貸物件のチラシを提示してくれました。その中からひとつ、家賃の高くない物件を選んで、私はそれを見に行くことにしました。都心からさらに離れ、青梅線沿線へと向かったのです。そこは羽村と呼ばれる町で、なかなかよさそうな所でしたが、私の見たアパートは産業道路に面していて、大きなトラックが絶え間なく通っているようなところでした。これじゃだめだ。駅にもどって家へ帰るしかない...

駅へ向かうのに適当にあちこちの道を歩きました。とてもお天気のいい日で、町は本当に魅力的なところに見えました。いったん産業道路を離れると、通りは静かで落ち着いており、公園や緑がたくさんありそうに見えました。たまたま不動産屋さんを通りかかり、そこに出ている賃貸物件の広告を見て、他にいいものがないだろうか、と入ってみることにしました。そしてこれが今までの最善手となりました。新築で賃貸に出されたばかりの物件がいくつかあったから、というだけでなく、彼らが実に気持ちのいい人たちで、私のたどたどしい日本語にもかかわらず、とても親切にしてくれたからです。彼らは私を車に乗せ、公園や保育園、スポーツセンター、その他たくさんの施設などを見せて、羽村を案内してくれました。そんななか、開放的で明るい感じのアパートを見に入りました。そこは新築されたばかりで、家賃も、多少きつくはありましたが、払えない額ではないことがわかりました。

翌朝早く、私は子ども達の母親とともにそこへ行き、彼女の承諾を得て、保証金と前払いの家賃を払い、契約書にサインしました。その翌日、私たちは娘達とバックパックを背負って引っ越してきたのでした。

この後14年間、私はこのアパートに住むことになりました。これは今までいろいろな所に住んだうちで最長記録です。娘達はすぐにここの環境に馴染みました。そして、ありがたいことに、近所の人たちが本当に「開放的」だったのです。引っ越してきて数日で、私たちにはたくさんの友人ができ、うちの玄関はいつも靴が山積みの状態でした。版画制作を始めるかたわら英語を教える、という試みも実にうまくいきました。まるまる5年間、近所に住むあらゆる年齢層の何百人という人たちが毎週うちにやってきて、レッスンを楽しんでくれました。羽村での生活は、日本での生活はこんなものだろうと想像していた以上に、素晴らしいものでした。  そして、そんなある日、羽村図書館の司書、江上さんが勝川春章による100人の歌人の絵を含む本を見せてくれたのです。それが何をもたらしたかについては、このニュースレターの初期の号で詳しく書きました。というわけで、ここでこの話はおしまいです。この続きは、みなさんご存知のとおりです...

* * *

ついに「ハリファックスから羽村へ」は完結しました。このシリーズを始めるにあたって申し上げたように、ほとんどの欧米の読者の方々はこんなふうに思われるでしょう。「だからどうしたっていうんだ?この男はちょっとばかし動き回って、こっちをかじりあっちをかじり、ようやく何かにたどりついたっていうわけだ。そんなのみんなやってることじゃないか!」 でも、多くの日本の読者が育ってきた社会はそうではありません。私がやってきたようなやり方で「自分探し」のためにあれこれやってみる、という自由が若い人に十分与えられている、とはいえない社会だったのです。今、日本では、少しずつ、そんな自由がきくようになってきています。そして多くの人が、「今日の若者は方向性を欠いている」と心配しています。

みなさんはもうおわかりでしょうが、私は彼らのことをそれほど心配する必要はないと思っています。確かに、今、日本の社会システムがずいぶん大きく変わりつつあります。そして私は「すべてうまくいくよ」などと言うつもりはありません。しかし、だいたいにおいて、私はこのところの社会の変化はいいことだと思っています。かつては厳格な年功序列方式のため、かなり若い時期に自分の進路を決めなければならず、途中でそれを変えることもできませんでしたが、現代では、人生の違った場面で、進路を変更し、自分にあうものを探すことがもう少し柔軟にできるようになってきています。

もし私がそんな柔軟な選択をすることができなかったなら、今頃どうしていたでしょうか... 想像がつきません。このシリーズの中で見てきたように、私にはやってみたいと思ってみたものをなんでもやってみる自由が必要でした。「学歴」とか「資格」にこだわらずに私の技術と能力を額面どおりに受け入れてくれるような社会が必要でした。なかでも一番必要だったのは、失敗しても非難されたり咎められたりしなくてすむ、という自由でした。

私の両親は、いったい私が一人前にになれるだろうかと思うことがあったかもしれません。私は彼らにとっていつも頭痛と心配のタネだったことでしょう。でも、両親はいつも、私が必要な時には助けの手をさしのべてくれましたし、放っておいても大丈夫な時にはただ見守ってくれていました。どちらかといえば偏狭な価値観の支配する社会で育ってきた両親が、どこでそんな素晴らしい両親となる方法を学んだのか私にはわかりませんが、私も自分の子ども達に対してそのような親でありたいと思います。結果は時が証明してくれることでしょう!

読んでくださってありがとうございました...

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