デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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「くしゃみの季節」、今年も青梅に到来です。この原稿を書いている2月の終わり現在、空気中には杉の花粉がもう満杯です。
私が愚痴っぽい質なら、日本の気候に関してこぼし切れないかも知れません。冬は凍てつく寒さ...、ちょっとばかり暖かくなれば花粉が飛び始め、ティッシュの箱を手放せなくなる。5月になって心地よい春が数週間あるとしても、間もなく梅雨がやってきて、じめじめした日が続き... 10、11月は素晴らしいけれど、後には再び寒い季節が巡って来る...
でも、こんな悲観論者は、さっさと荷物をまとめて、どこへなりと出て行けばいいのです。こういった気候にも、いくらだって良いところはあるのですから。窓のすぐ下を流れる小川の岸辺も、すぐの裏山も、花と緑の撩乱が今にも始まりそう、自然が息吹きを取り戻す様を見るのは、どんなにか喜ばしいことでしょう。
そしてもっと嬉しいのは、再び暖かくなるという事です!ホットカーペットがいらなくなるまで、あと何週間?
幕間の巻
この連載を始めた当時、私は、こんなにも長く話の糸を紡ぎ続けるとは思ってもいませんでした。話の進め方についてあまり計画も立てず、10回かそこら続けばニュースレターに載せるには 2、3 年程度の内容だろう、羽村に辿り着いて終わりになるだろう、と考えていました。ところが、ファイルを見返してみると、この連載は10年目に入っているのです!そして、話の中で羽村に到着するまでには、まだ3年あります。だらだら書き過ぎてしまったのでしょうか?一体、どんな話が面白かったのか、あるいは、そうでなかったのか、まるで分かりません。次の話を書こうと、今こうしてパソコンに向かうのですが、連載を始めた頃の事を考えてしまい、そうすると、背後にあった主な動機が思い出されて仕方ないのです。
連載開始の1994年、私はすでに8年間を日本で暮らしていて、ここでの生活は、かなり居心地よく思っていました。地域社会の中で、自分を「異質」と意識する理由は、特に見当たりませんでしたから。もちろん、近所の人達にとって、私が、明らかに「違う」人間であることは承知していました(現在もそうですし、将来もずっとそのままでしょう)。でも、ひとつだけ、そんな付き合いをする中で驚いたのは、自分が、何か随分と普通でない「特別」な事をしていると受け止められている事でした。これは意外でした。私自身は、かなり普通の事をしている、普通の人間だと思っていましたから。昔ながらの木版画を専門に作るというのは、ありふれた事ではないでしょうが、私が育った環境の中ならば、こういった類いの事をするのは、ちっとも風変わりではないからです。遥か彼方に移動して、長い事(一生かも!)異国に住むというのは、そう珍しいことではありません。なにしろ、ヨーロッパやアメリカにおける移民は、何世紀にも渡る伝統なのですから。
ところが、近所の人達にしてみれば、きちんとした会社の手堅い職を辞め、家族(まだ幼児だった娘達も)を連れて言葉も話せない遠くの国に渡り、こともあろうに仕事まで持とうなんて...どう考えても辻褄の合わない話だったようです。ところが、自分の周りでは、当時私が教えていた英語のクラスに来ていた若者達の中では特に、高校・大学・就職といった、目前にある人生の選択肢にあまり満足していない人達がたくさんいたのです。
このことが、私に関する連載を始める主な動機でした。自分の人生をどう組み立てていくかについて、誰かに説教するなど、そんなことは私のするべき事ではありません。でも、違う生き方もあると知って、何ら悪い事はないと思ったのです。大学を中退したからといって人生に失敗した訳でなく、もしも今ある状態に満足できないのなら、手堅い職を辞めることが可能なのでなく、決断しなければならないという事。そして何よりも、「大人になったら何になりたいのか?」という問いへの答は、出す必要などまるでないのです。
こういった事を考えたのは、10年以上も前のことでした。当時から比べると、皆さんも御存知のように、生き方への選択肢は驚く程増えてきています。これは、良い事でもあり、また残念な事でもあります。従来の、高校/大学/就職といった図式以外に、様々な道が開かれてきたのは良い事ですが、残念なのは、決まった定義がなくなってきたので、どのように生きて行けば良いのか、かつてないほど困惑している人達が、たくさん居るのです。これは、そういった状況にある人達から直接手紙や電話を受け取るといった、個人的な体験から判ってきました。
最も典型的な問い合わせは、20代初期の人達からのもので、おそらく、卒業間近か卒業後間もない人達でしょう。版画家になりたいと思い、連絡をしてくるのです。できることなら私の弟子になりたいのでしょう。でも、ちょっと話をしてみれば判ります。彼等には、志す何かがあるのでなく、なりたくない何か ... 会社員になること ... があるだけなのです。ほとんどの場合、版画家という職業が自分に向いているかどうかを知るために版画を作ってみる事もせず、電話をしてきても、どうすれば良いのか手取り足取りの指導を期待しているかのようです。ここに座って、この道具から始めて、などなど、といった風にです。
ここで私は、彼等には版画への燃えるような情熱がないと批判しているのではありません。私だって、30才になるまでは、これといって興味を引かれる物などなかったのですから。一部の人達の、「面白いかどうか、取りあえずやってみる」といった考え方も悪くないのかもしれません。この連載で書いて来た通り、私だって、若い時にはたくさんのことをやって来ました。私が、問い合わせて来る若者に懸念するのは、動機の浅さです。どうも、私が学習コースを作り、手を取って版画家になるお膳立てをしてあげることを期待しているらしいからです。
伝統木版画を作る、これは気安く出来る事ではありません。この仕事で生計を立てていくのは、非常に難しいのです。労働時間は長く、労賃は低く、肉体的にきつい仕事です。心底熱中できなければ、成功する見込みなど、皆無でしょう。では、やってくる若者達に、仕事を達成するだけの情熱があるかどうかをどうやって見抜くか?それは簡単、作った版画を見せてもらえばいいのです。でもそれを言うと、答は決まってこうです。「まだ作っていません。作り方が分かりませんから。やり方を教えてください...」
こう言われれば、もう、明瞭です。図書館に行って、版画制作に関する本を探し出し、書かれている指示に従って初歩的な版画を作ってみる。それから、出来の悪い処女作品を見つめて、何がいけなかったのかじっくり考え、少しでも良い作品を作ろうと何度でも試みる...こういったことが自主的にできない人は、すでに、版画家としてスタートする資質を持たないのです。派生する諸問題を払い除ける強い熱意が必須です。
では、熱意があれば何かを達成できる保証となるのでしょうか?いいえ、まるでなりません。「ハリファックスから羽村へ」の話の中に出てくる10年間の出来事を読めば、デービッドが夢中になっては達成できなかった例がたくさん出てきます。大学から落伍し、プロのフルート奏者になり損ね、ポピュラーやジャズのサキソフォン奏者になろうとして失敗、支店長としての責任を果たし切れず...その他にも、完全な敗北とは言えないまでも、脇道に逸れてしまった例がたくさんあります。
でも、どんな時も、情熱は持っていました。少なくとも最初は持って事に当たりました。必要な能力が、常には伴っていなかっただけです。私は、成功への一番の鍵は取り組む事柄への情熱の有無にあるということを、齢を重ねればそれだけ確信するようになりました。
ニュースレターの来月号では、「ハリファックスから羽村へ」の連載に戻り、デービッドの長女が誕生する時点から話は再開します。勤めている楽器店での責任が増え、やがて次女が生まれ、家族の為に家を購入することを考え...推量れるように、こういった事全てが、デービッドの版画への夢を次第に遠くの方へ押しやっていくのです。
でも現在、彼はこうして日本の家に住み、静かな夜に、収集家の方達に向けてニュースレターの記事をタイプしています。一体、こうした様々な出来事をひとつにまとめたのは、何だったのでしょうか?答えは ... 熱意です!
この連載を始めて10年、初めの頃と同じで、ちっとも羽村に近付いていません。でも、話の最も重要な部分はこれからです。一体どのような経過で、何千キロもの跳躍を最終的に成し遂げることになったのでしょうか?(お約束します、話が終わるまでにもう10年かかる、などということはありません!)
常に安定していて見通しが立つ...それとも、同じ事の繰り返しで退屈?昨年の暮、恒例展示会第14回の準備を始める時点で私が直面した、中心的課題でした。最も新しい10作品を陳列するといった、初回から変わらず続けている基本形態はそのままにするとして、全体としてもっと面白く有意義なものにするためにはどうしたらいのだろうか?考え抜いた末、貞子と私の行き着いた先は、「デービッドの選択」と「ギャラリートーク」を加える事でした。
デービッドの選択
ひとりの人間が、「本格的版画家」であり、なお且つ「本格的版画蒐集家」である、という事は、経済的な理由から、まずありえない事です。でも私は、明治時代から現代までの作品を中心に、ささやかながらも面白みのある作品の収集を続けてきました。その間私は、常にふたつの事を念頭に置いていたのです。それは、仕事と楽しみです!「仕事」の方は、「摺物アルバム」に用いる原画として、いつも優れた絵をたくさん用意しておかなくてはならないからですが、「楽しみ」の方は説明をするまでもないでしょう。私は、版画を作るだけではなく、版画自体を愛好しているのですから!
今年の展示会に、このコーナーを設けた理由は3つあります。
では、どのような作品を選んだのか?ほんとうに様々です。柱絵、明治時代の雑誌の口絵、戦前の大平洋横断船の献立表、アメリカにいる友人が作った版画、ちりめん本、標準的な浮世絵の復刻版、マッチ箱のラベルのような小さな版画、川瀬巴水の大きな風景。ここに居る蒐集家が魅力的で面白いと思った、というだけのことで、主題のようなものはまったくありません。でも、展示会にいらした方々の反応から推し量ってみると、どうやら良い選択をしていたようです。「こんなに綺麗な版画を見せてくださってありがとう!版画がこんなに面白いなんて、ちっとも知りませんでした」とおっしゃる方がたくさんいらしたからです。
ギャラリートーク
これは、貞子の発案でした。彼女が言い出したのは何年か前の事だったと思いますが、その時にはまだ、この案を聞き入れる段階ではなかったのです。でも今年は、言う事を聞いて良かったようです。日曜日の午後の企画は、参加した方々に楽しんでいただけましたから。話は、「デービッドの選択」に展示した8つの作品に関連して進めました。作品がどんな物であるかという説明を列挙したのではなく、自分が話したい内容や疑問点を述べる手段として、それぞれの作品を使ってみたのです。
論点は、絵を描く時の紙の置方(あるいは絵の見方)が、日本と西洋でどのように違うか、などといった事から、優れた復刻版であっても初摺版に較べると、どんなに円やドルで示される経済的価値が落ちてしまうのか、といった事まで、とても広範囲に亘っていました。実を言えば、8枚の作品のどれかひとつだけを取り上げたとしても、十分ギャラリートークができるほどでしたから、一時間では、ほんの少しずつしか説明することができませんでした。
話を1時間だけに絞ったのは、皆さんが退屈してしまうといけないと考えたからです。私は、勿体ぶった講議形式の解説は大嫌いないので、そうならないよう、できるだけ配慮をしました。ところが、時計を見れば、いつの間にか時は過ぎ、皆様にお茶を飲んで頂く時間になっているではありませんか!後になって出席者から、話は面白かったけれども、質問を受ける時間がもっとあると思っていた、とか、参加者達がもっと知り合える機会があると、意見を交換し合う事ができて良かったのではないか、などの御意見が寄せられました。
来年のトークを計画する際には、こういった助言を参考にして、この企画が参加者相互の間でも影響を与え合い、互いの交流を深めることになるよう配慮したいと考えています。でも、何よりも確かなのは、来年も、私のコレクションから次の出展作品を選び、それらが何故面白いのかを、喜んで皆様に示し説明するだろうということです。(カレンダーに記す方、2004年1月25日・日曜日・午後2時です!)
おやおや、報告のほとんどが、自分の作品の展示に関係ない事で埋まってしまいました!今回はどうだったでしょうか?
最新の作品を展示したのはもちろんで、これらは、来場者からの注目を集めていました。摺物アルバムを始めて4年、なかなか面白い版画が組み合わせられています。どれも好きという方はいらっしゃらないでしょうが、皆さんの好みに合うような作品はたくさんあると思います。
メディアの注目度は、今年も少なかったのですが、きっと収集家の方が展示会の事をお知り合いに話されたのでしょう、「友達の友達」といった形のお客さまが多かったようです。
予約の申し込みは、昨年より好成績で、何年間も続けて展示会にいらしてくださっていた方が、初めて申し込みをなさる、というケースがいくつかあり、とても嬉しく思いました。こういった予約は、「衝動買い」の類いでははないからです。
全体として見ると、満足の行く展示会でした。ただひとつだけ残念なのは、後になって芳名帳を見渡し、そこに収集家の名前を見つけても、いらしたことに気付かず挨拶をしていなかった時です。私の不注意から、お話をする機会を逃してしまったこと、ここにお詫びを申し上げます。来年、このような事がありましたら、どうか私か貞子に話しかけて、私の記憶を呼び起こしてください。では、また来年の1月にお目に掛かりましょう!
インターネットで色々なホームページを見ることの多い方は御存知でしょうが、たくさんのサイトに、「よくある質問」という項目が作られています。ネット上での検索をあまりしない方には、馴染みがないかもしれませんが、頻繁に尋ねられる疑問に対しての解答が書かれています。
私はインタビューを受けることが多く、その度に、似たような質問を繰り返されるので、そういった質問の答えを書く欄を作ることにしました!
問) ブルさんの国籍は?
答) 引き出しから私のパスポートをふたつ取出して、皆さんの前で開けば、もう答えるのは簡単です。ひとつにはカナダ、もうひとつにはイギリスと記されていますから。私はイギリス生まれですが、家族が後にカナダに移住したのです。どちらの国も二重国籍の保有を許可しているので、カナダ市民になってからも、イギリスの国籍を維持してきました。とは言え、ほんとうの答えは、「私にも分からなくなっている」といった方に近いでしょう。
イギリスは5才の時に出ていることから考えても、この国の文化に関する知識や感性があるとは公言はできません。長い年月の間には、どんなにかこの国は変化したことでしょう!カナダにしても、離れてから20年近くも過ぎれば、同じようなものです。こんなに長い間、外国にいる日本人を想像してみてください。その人が日本に戻ってくれば、国籍は日本人ですが、現代の文化状況にどんなにか違和感を覚えることでしょう!
ですから、「書類上」はこのふたつの国籍のどちらとみなされても構いませんが、私の心の中では、正直なところ判らないのです。それに、私としては、取立ててこだわりもないのですし...
問) 日本には長いですよね、そのうち日本人になるのですか?
答) 日本国籍を請求をすることは考えていません。それにはいくつか理由があります。まず、日本に根ざした生活をしていて、ここを離れるなどということは微塵も考えていないにもかかわらず、自分が「日本人」であるとは感じられないのです。生まれてから30年以上も西洋で暮らしていますから、物の考え方は「違い」すぎます。それに日本は、カナダやアメリカとは大きく違うところがあるのです。どちらも移民が作った国ですから、外国人という存在はないようなものですが、日本は、長い事他国と一線を画してきていますから、他所から来る人は全て外国人です。どんなパスポートを携えていようが同じです。こういった考え方は、今ある私達が生きている間に変化することはないでしょう...
次の理由は、無理からぬ事とは言え、日本国籍を取得する際には、他国籍の放棄を要求されるという事です。すぐ前で、あのように書いたにもかかわらず、この決断を強いられのは、私にとって、心穏やかでないものとなることでしょう。
「うるさい子だねえ、お父さんに聞いておいで」今でも思い出す。いつも忙しい母にしてみれば、さぞやしつこい子供だったのだろう。頻繁にこうせっついたのは、なにも私が学習意欲の旺盛な子供であった故ではない。今にして思えば、忙しく立ち働く母親の関心を少しでも自分に引き止めたかったのではなかろうか。
やがて自分自身が母親になり、今度は「どうして?」の問いに答える側に立ち、それを卒業する頃から、この問いかけを自分から発することは稀になっていった。たまに疑問が湧き出てきても、「どうでもいい」「あたりまえ」果ては、「答えなんかあるものか」で締めくくる。気力、気迫、生きる力が弱くなってきた証拠だったのかも知れないが、こうしてするりするりと体をかわすと、なんとも気楽に生きることができた。
そんな穏やかな日々を過ごしている日常に、飛び込んで来たのがデービッド。まあ、この人はウルサイ。電車に乗っていても町を歩いていても、「面白い!」「どうして?」「変だなあ」の連発である。最初は親身に一緒になって考えていた私も疲れてくると、「日本ではそうなの!そうだからそうなの!」の何ともいいかげんな対応をするようになる。それでも、質問が私に向かって発せられる時にはまだ良いのだが...。
仕事の息抜きと、航空運賃・宿泊・食事込みの格安フリープランで小旅行をした。2日目、宿の夕食は河豚尽し。河豚刺から始まり、フライに鍋と続いたのだが、デービッドは、刺身以外の部分を箸でつまんでは繰り返す。「ねえ、しっぽの部分が多いよね。これもこれもだよ、ね。僕達何匹食べているんだろう。」そして、いきなり「この料理は河豚一匹ですか?」と配膳をしていた若者に聞いてしまった。「はっ、あのう、奥に行って聞いてまいります」と対応は至って丁寧である。暫くして少しばかり格のある担当者が、おもむろにやってきて、膝を付くと「え〜、当店では、虎河豚を使用しておりまして、虎河豚というのは... 本店が料理屋を経営しております都合上、刺身の注文がありますと、他の部分が...」
羽村のアパートから、少し広い家に越して来て、丸2年が過ぎています。転居の当日には、引っ越し会社の人達が、トラックから取り出しては運んできた物をそこいら中に置いていきましたから、どの部屋もどの部屋も箱や包みで一杯になりました。こんなにもたくさんの物が、本当にあのアパートに収まっていたのだろうかと思う程。どこの国でも言われている事が、まったくその通り起きていました。「物というのは、場所があれば、そこを埋めてしまうもの」(仕事が、割当てた時間を目一杯使ってしまうのと同じです)
それから、少しずつでしたが、整頓しては、きちんと収納してきました。すると、何年もの間、押し入れの奥の方に入っていた物が、白日の光りの中に曝されるようになり、「百人一緒」のバックナンバーを入れた段ボール箱が、たくさん出て来ました。今、何百枚もの冊子をどうしたものか迷っています。
最近の読者が興味を示すだろうか?もしも、これを読んでおられる方の中に、バックナンバーのどれかを欲しい方がいらしたら、どうぞ気軽にお知らせください。喜んでお送りいたします。もちろん料金は不要ですが、もしも送料分の切手をお送りくだされば、助かるところです...。
一番初期の号(1989〜1990年)は、残が少ないのですが、その他(1991年以降)はたくさんあります。お読みになりたい方は、遠慮なく御連絡ください。いつの日か、この住まいが満杯になる時が来たら、こういった物は、結局のところ処分される運命なのですから!