デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 2001

ホタル!...どっちを向いてもホタル!この家の、前の持ち主は、「夏になったらここではホタルが見られますよ」と言いました。そういう話はこのあたりに住んでいる別の人から何年か前に聞いたことがあり、ある晩、彼の家を訪れてみたのですが、結局何も見られなかった、ということがありました。ですからその話を聞いても、私はたいして気にとめていませんでした。彼はこの家を売りたいわけだから、家の印象をよくしようとしているのだろう、くらいに思っていたのです。

でも彼の言ったことは大げさではありませんでした...今、ホタルはあちこちにいて、夜の闇の中を飛び回っています。うちのバルコニーのすぐ下の川べりのところに空き地があり、そこでホタルが川を飛び交うさまをながめるのは、実に心安らぐひとときで、30分かそこらはすぐにたってしまいます。時にはホタルがすぐそばに来て、今にもつかまえられそうな気がするほどです。

というわけで、ここで凍える冬を過ごした後、今、私は川辺で涼しい夏の夜を楽しんでいます。頭の隅でささやく声が聞こえます...「忘れるな!あの寒さはまたもどってくるぞ!」...でも、今は気にしていません。そんなに寒かったというわけじゃないのですから...???

ハリファックスから羽村へ

こうして私は新しい家で新しいパートナーと暮らし始めたわけですが、ここ数ヶ月間楽しんできたバケーションスタイルの生活を急いで変える必要はないように思われました。トロントの音楽店で働いた2年間での貯えがたっぷりあったので、とにかく仕事を探さなければ、というプレッシャーはなかったのです。お金はいつまでも続くわけではありませんし、やがてはなんらかの仕事を探さなければならないでしょうが、今のところはリラックスして新しい生活を楽しむことができそうでした。

この当時、私が大変興味をもっていたのはコンピューターでした。今日私達が目にしているようなパソコンはまだありませんでしたが、その先駆けとなるマイクロコンピューターという小さな機械が、マニアの間でブームを起こしていました。私は自分では買いませんでした。技術は日々進歩するし、何を買っても数週間で時代遅れになってしまうと知っていたのです。本や雑誌を読んで、技術の進歩についていくことで満足していました。どうしたらこうした機械を使うチャンスに恵まれるか、具体的な計画は何もありませんでしたが、とにかくコンピューターはとてもおもしろかったし、私は夢中になっていました。その可能性は無限のものに思えました。

そんなわけで、私達はふたりとも自分の勉強に没頭していました。彼女は毎日英語のクラスに通い、私は本屋やコンピューターショップを見てまわっていました。私はトロントにいた間倉庫に入れたままになっていた荷物(ほとんどは本とレコードです)をほどき、ふたりでこの間借生活をとても居心地のよいものにしました。彼女の語学学校の友達は世界の様々な国から来た人たちで、彼女は彼らをしばしば家に招待しました。彼女はめずらしい日本料理を作り、私達はみんなそれを楽しみました。

そして、こうした楽しい生活の中で、トロントのギャラリーで見たものを思い出し、それを自分でやってみる時が来たように思われました。木版画を作る時です!

当時のことを人に話すと、「版画を始めるには絶好の環境でしたね。日本人と暮らしていたのだから、製作の仕方についてたくさんの助言をもらえたでしょう。」と言われることがあります。あたっているともいえるし、そうでないともいえます。日本の小学生達は初歩的な版画はやりますが、この私の実験に関して彼女ができる助言というのは実のところ何もありませんでした。(後に、私がもっと複雑な版画に取り組むようになってから、彼女は私の学校での経験があまりにもお粗末なのにしばしば驚いていました。例えば、基本的な色を混ぜるとどうなるか、というようなことについてです。この点に関しては、西洋での私自身の経験から考えると、日本の教育はずっと進んでいると思います。)

助言があったにせよ、なかったにせよ、とにかく私はやってみました。暗い海の上を満月が照らし、水面にさざなみが光の道のように見えている、という構図の絵を描き、それを彫り始めました。版木には、私達が終えたばかりの大工仕事で残った木材を使い、彫るのには家庭用の「カッターナイフ」を使ったと思います。細かい部分がなかったので、彫りをするのにそれほど時間はかからなかったし、摺りの準備はすぐにできました。

もちろん、バレンは持っていませんでしたし、その時点では、そんなものがあるということすら知りませんでした。そこらにころがっている紙や、チューブ入りの水彩絵の具、摺りの時には紙の裏をこするためにしゃもじを使う、といった具合でした。

そんなわけですから、出来栄えは惨憺たるもので、私が思い描いていたものとはまったく違ったものになりました。みなさんは「そりゃそうだろう!」と思われるかもしれませんが、私には本当にショックだったのです。木版画がそんなに複雑でむずかしいものだなんて思いもしなかったのです。高度な技術が必要なものには見えないのに...どうしてうまくいかないんだ?私は、彫った版木も摺った紙も、すぐに放り出してしまいました。(何も残しておかなかったので、今みなさんにその版画をお見せすることはできません...持っていたらお見せするのですが!)

でもそれで版画に対する興味を失ったわけではありません。もう一度やってみようと決めて、何枚か簡単な絵を描き、初めからやり直しました。でもそれにのめり込む前に私はもう一度横道にそれてしまったのです...ビルからの電話がありました。そう、音楽店の社長のビルです。「うちの店にコンピューターシステムを導入して楽器の貸し出しをやってみようと思っているんだがやってくれないか...」

渡りに船!私は受話器を置いてすぐに彼の事務所に飛びました...

Mr. Julio Rodriguez

このコーナーはもう終っていたのかと思いましたか。そんなつもりはなかったのですが、途絶えてしまって申し訳ありませんでした。お休みしていたのは、ただ単に、私の予定が詰まりっぱなしで、やり繰りが難しく、出かけて行って人に会うだけの時間が取れなかったからなのです。

でも、ついこの間やっと気付いた事ですが、実際に面と向かって会わなくても、その人となりは分かるものです。今月の記事がその良い例で、私はフリオにはまだ会ったことがありませんし、電話で話をしたこともありません。では、どうして彼を知っているのか?それは、ここ数年の間に、なん百回(なん千回)も電子メールのやりとりを続けてきたので、コンピューターの画面の向こうにいる、彼の人柄をつかんでいると思うからです。

* * *

フリオとは、彼が「バレン」というインターネットの版画グループの会員になったとき、初めて出会い(?)ました。これは、私が1997年に設立したグループです。当時の彼は、まだ自分で作ることはしませんでしたが、版画にはかなり興味を持っていて、関係書をたくさん読んでいました。このグループには、版画を専門にする人から、しろうと、学生、あるいはただちょっと版画に興味のある人まで、いろいろな人がいました(現在もそうです)。でも、私としては、このグループに参加すると、今まで版画など作ったことのない人でも手を染めるようになる、ということを密かに期待していたのです。フリオは、この私の思いが実現した良い例でした。

やがてこのグループは、版画交換会を始めました。一回の参加者は30人で、各々が30枚の版画を送ると、それが分配されて、結局は自分の所に30人分の版画が戻ってきて、ちょっとしたコレクションができるという仕組みです。フリオは、率先して最初の交換に参加しました。そして、版画への興味を具体的な形にして示したのです。交換会は成功し、彼の努力も報われました。それから3年がたった今、彼は過去9回の交換会全てに参加した唯一の会員となったのです!彼がプロの版画家になろうとしているとは思いませんが、そんな事はどうでもいいのです。版画を作るという行為が、彼の人生に実りをもたらすのであれば、それで十分なのです。

どんなグループにでも、人が集まれば、「多弁派」あり「行動派」あり、というものですが、フリオは最初から、会の運営にとても貢献してくれて、すぐになくてはならない人材になりました。私は、数えきれないほど彼と電子メールのやりとりをして、人柄がだんだんに分かってくると、はっきりと彼が次のようなタイプの人なのだということが分かってきたのです。つまり、グループのために何かしなければならないことが起きた時には、フリオに頼めばきっと手助けをしてくれる人だということです。(昔のことわざが現代でも通用することを証明しています。「なにか用事ができたら、一番忙しい人に頼みなさい」)彼は常に意欲的な会員で、自ら率先して、2度もグループ展示会を開催しました。会場捜し、額縁の手配、などなど、損得感情はまるで抜きにして。

フリオは、私と同じく、自分で選んだ国に移民しています。彼の場合はキューバからアメリカに行き、現在は妻と息子達と共にシカゴ郊外に住んでいます。彼にとって家族はとても大切ですから、メールではこんなメモを何度も受け取りました。「デイヴ、今すぐには答えられないんだ。やんちゃ共と野球をしに行かなくちゃならないから」そして、後から返事が来るのですが、そこに記録された時刻は午前の2時などになっています。「....用事は.....一番忙しい人に.....」しかり!

フリオのような人が、「摺物アルバム」の収集家に加わると、多面的な動機を私に与えてくれるという意味で、私の楽しみは増加します。まず、作品を集めてくれるということで、私が目的を達成する手助けになり、次に、作品その物の美しさを喜んでくれ、加えて、彼自身の技術が向上するための教材としてていねいに鑑賞しているからです。これ以上の何を、収集家に期待できましょうか.....

フリオ、協力をありがとう。版画製作が、君に、もっともっと楽しい時をもたらしますように!

日実への手紙

私の娘達、日実と富実が、私の手許を離れてカナダの母親のもとで暮らすようになってから、もう5年になります。それ以来、会えるのは夏休みと冬休みだけになってしまいました。大平洋を越えて往復する航空運賃や、1時間にもなる毎週末の長電話は、金銭的に負担ではあるけれど惜しいと思ったことなどまるでありませんでした。一緒に過ごす時間は何ものにも換え難いものですから。私は、ひとり寂しく日本で暮らしている、という訳ではありませんが、ふたりの娘達がやってくる夏が、いつもとても楽しみです。

でも、今年は、例年の夏とちょと違います。今これを書いている私のところにいるのは富実だけ、姉の日実は今回来なかったのです。私達家族の「冒険」を長年に亘ってたどってくださっている方達は驚くかも知れませんが、日実はすでに法律的には大人で、もう私の「手の中の雛」ではないのです。彼女は、家族で日本にやってきた時、ほんの3才でした。「百人一首シリーズ」を始めた時には6才で、それを終えた時には15才.....そして今、彼女は18才。彼女の住むカナダではもう一人前の大人として公認される年令です。

ですから、「ダディ」と一緒にひと夏を過ごことに興味を示さなくなっても、驚くことではないのです。これは当然のことで、そんな日がいつかは来るものと分かってはいたものの、思っていたよりはちょっと早くやってきたようです。だからといって、どうこうと言うわけではないんですが。彼女が自力で、世界に向かって飛び立つ準備はほぼできあがっているらしく、その計画の中に私は含まれていません。そう、30年前に私が家を離れた時に両親を除外していたのと同じです。

このように、今年は、彼女とじっくり語り合うことができないので、手紙という形で語りかけるのが一番良いと考えました。この「百人一緒」の記事の中に書けば、きっと日実ちゃんが読んでくれることだろう..... そうだといいのですが ... 。

* * *

日実ちゃんへ

2ヶ月前に、今年の夏休みの計画について話をした時、今年は日実ちゃんが来ないということが分かって、ちょっと寂しかったな。日実ちゃんが、本格的に親元から巣立つまでに、なんとかもう1年欲しかったんだけど。日本に来て僕と一緒に過ごした時はいつも楽しそうだったし、日実の方でも当然、来ることを楽しみにしているだろうと思い込んでいたもんだから。でも、日実の最近の行動や生活の様子について聞けば聞く程、状況が大きく変わったということが分かってきて、今までの様にやっていくのは難しいのだ、ということが納得できるようになった。

この1年で随分と変わったよね!日実の18才の誕生日が近付いて来た時、それは、高校の最終学年末とも重なっていたけど、しきりに大人の仲間入りをしようとしていた、----君が考えるところの、大人のすることを何でもかんでもしようとね....

- - -

大人はみんな車を持っているから、日実も車を買った。ウエートレスのアルバイトをして貯めたお金で強引にね。その後すぐに、その車の伝導装置に故障が起きたり、保険の事で問題を起こしたりして、聞く度にがっかりしたな。もう少しいろいろな経験を積むまで待つように、とか、親の協力を求めるように、とアドバイスすることは簡単にできたけれど、日実はきっと「大人は自分で車を買うことができるんだ」と思ったのだろうから....

大人は当然、お酒を飲んだりタバコを吸ったりすることが法律的に認められている。君は、もう大人の仲間入りをしたのだということを精一杯示そうとして、こういった事もしている。でもね、残念なことに、「してもいい」と「しなくてはいけない」をはき違えているように思えるんだ....

大人は自分の体をしたいように扱ってかまわないから、体にピアスをしたり入れ墨をしたりする。そして日実は「メニューにあるものはなんでも試してみる」ことにしたようだね。

大人は決まった時間に寝なくちゃいけないなんてことも、帰りたくなくても夜になったら家に帰らなくちゃいけない、なんてこともない。そして、君はそんな「大人」として振る舞った!

そう、完全な「大人」になったみたいだった、君自身で考えるところのだけどね.....

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おそらく今、そっぽを向いて、非難がましい言い方をしていると思っているだろうね。でもね、これくらいの小言が父親から受けた最悪の叱責なら、文句は言えないところだよ。僕達は、日実の行いの事で、派手な喧嘩をしたことは一度だってなかったし、これからもしたくないよ!ま、本音を言えば、そう心配しているわけでもないのさ。時間が解決してくれると思っているからね。

夜こうして仕事をしている時、君達ふたりがまだ日本で僕と一緒に住んでいた頃のことを、時々思い出すんだよ。毎晩君達が、お休みを言って床に入ってから、お父さんは隣の部屋に戻って版木に向かったっけ。トントンと木鎚でノミを打つ音を聞きながら寝入っていた。寝ようとするときにそんな音がしたら、文句を言う人が多いだろうに、きっといつもそんな音を聞かされて育ったから気になんかならなかったんだろうね。

3人で一緒に暮らしていた頃は楽しかった!それ以上何も望むことができない、と思えるほどだった。各々することが多くて、結構忙しかったけど、家事を協力してこなしてね。隣近所とも、行事にも参加したりして、きちんとした家族として一目おかれているようだった。3人とも、各々の領域で成果をあげていたよね。二人は成長したし、僕は版画作りをしながら家族を維持してというふうにね。

僕は、一般に、「大人である」ということを考え過ぎると思うんだ。「しっかりとした人」の振るまいというのは、子供であっても大人であっても違いがないと思うから。つまり、家族の皆が、君に愛されているという事を分かるようにし、自分の家族や広い意味では社会の中で、分に応じた貢献をし、そして、自分が成長し成果をあげられるようなきちんとした目的意識を持って生きること、これは人生に方向付けを与えるからね。

だから、お父さんの価値基準から言わせてもらえば、ここで一緒に暮らしている時すでに、君はもう一人前の「大人」のように振る舞っていたことになる。でも、日実ちゃんの目から見れば違うんだろうね。18才という年令になったら、家族や勉強から離れて友達と楽しく過ごすこと、これこそが君達の年代の若者がしなくちゃならない事だと思っているのだろうね。でもきっと、何年もしないうちに、人生にとって本当に大切なものが何なのかを見つけると思う。そしたら、楽しみだなあ、君が社会の中で自分の納まる場所を見つけていくのを見るのが、....大人としてね。

じゃあ、日実ちゃんまたね。

父より、愛を込めて。

先客

デービッドが居を移したのは凍えるような一月、初めての春が巡ってくると、青梅の自然は訪ねる者の心を浮き浮きさせるほど目まぐるしく移り変わる。デービッドの方も、その変化を逐一説明しようと、ミツバツツジの群落や勝手に「桜御殿」と名付けたよそのお庭へと私を散歩に誘う。

自然を相手に彼の遊び友達も次々増えているようで、先日のはアワムシだった。作業台のすぐ前まで伸びているユキヤナギの枝に、白い泡がくっついている。「ねえ、この虫いつになったら泡の中から出てくるんだろう。僕、何日も観察しているんだけど。もう卵からかえっているのに。」と報告を怠らない。ちょいと顔や尻を出してはまた泡の中に潜り込み、泡の量が減らないという。さもありなん、「泡の中が住処だもの」と説明すれば、半信半疑で新顔の友人をためつすがめつ飽きもせずに覗いている。(このアワムシ、その一週間後にはいなくなったが)

近頃、この「せせらぎスタジオ」にはいつも先客がいる。彼女は黒ずくめで足下だけ白で決めているなかなかのおしゃれ者。デービッドは、食事まではしないときっぱり言うが、なかなか睦まじくやっているようだ。彼にすり寄ったり、仕事の手を休めず相手をしてあげなければ、間近で昼寝までしていくとか。

くだんの彼女は、私にもなかなか愛想がいいのだが、私が訪ねていくと、もうお別れの時だと察する。その訳は、彼女がいると私にアレルギー反応が起きてくしゃみを連発、目も真っ赤になってしまうから。

玄関から外に出されても、彼女は簡単に諦めず必ず走って和室の前に回ってくる。そして、うらめしそうに、ミャァ〜ミャァ〜と愛くるしい声で泣くのである。