デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Spring : 2001

私がこれを書いているのは3月半ばなので、外に出るといつも私のまわりは梅の花でいっぱいです。羽村に住んでいた頃は、春の訪れを告げるのは桜でしたが、ここ青梅では事情が違います。ここにも桜の木はあって来月には花が見られると思いますが、このあたりでは梅が「王様」なのは疑う余地がありません。いずれ私の仕事場になる予定の部屋からは何本もの梅が見られますし、今私が仕事場として使っている部屋の窓からも大きく咲き乱れた梅が空をおおっているのが見えます。

今年は春が早く来てくれて嬉しいです。というのは、たくさんのことが私を待ち構えているからです。版画にニュースレターに、そしてこの大きな家を片付けなくては!

これは春号なので、先日の展示会の報告を載せています。その他に「ハリファックスから羽村へ」、エッセィコーナー、そして新しいシリーズを始めようかな、と思っています...

ハリファックスから羽村へ

カナダ横断の旅をする人は豪華な旅をすることもできます。個室で寝泊りし、食堂車で食事をするとか。しかし予算の限られた旅行者にとっては、あまり選択の余地はありません。彼女も私も、買ったのは一番安い切符「二等車」でした。つまり、座席でそのまま寝たり食べたりするわけです、時々ワゴン車で売りに来るものか駅の売店で何かを買って。

それは私達のどちらにとっても大変楽しい旅でした。大陸横断列車の旅の間、客室にはちょっとした仲間意識が芽生えます。時折、乗り降りする人もいましたが、たいていの人は最初から終点まで一緒です。オンタリオの森を抜け、広々とした草原を渡り、ロッキーの山々を越えて海岸へ。私達はみんな他の旅行者と知り合いになり、そして私はもちろん隣の席に座った彼女のことも知りました。彼女は少し前に日本からバンクーバーの語学学校に在籍申し込みに来て、ある家庭にホームスティしています。短い休暇をとって、グレイハウンドバスでアメリカを横断してニューヨークへ、そしてトロントへ行き、今は9月の新学期に備えてバンクーバーへもどる途中だ、ということでした。つまり、私達はふたりとも、いわば「新生活」を始めるところだったわけです。私の場合は彼女ほどはっきりとしたものではありませんでしたけれども。

私はもちろん日本語はまったくわかりませんでしたし、彼女の英語もこの時点ではきわめて初歩的なものでした。でも、そんなことでは、北アメリカをひとりで旅しようという彼女の意欲がそがれることはありませんでしたし、私達の会話もそれほど不都合を感じることなく、なりたったのです。きっと誤解もたくさんあったのでしょうが、そんなことは問題じゃないように思えました...

私の記憶の中に今も鮮明に残っている瞬間があります。ロッキー山脈のどこか高い地点にあるとても小さな駅に列車が停まった時のことです。それは夕暮れ時で、私達は電車を降りて人気のないプラットフォームをぶらぶらと散歩しました。空は濃い紫色に染まり、何万もの星が浮かび上がりはじめ、私達のまわりにそびえたつ山々が深い影を落とし、どこからか小さな川の流れている音が聞こえてきます。私はそれほどロマンチックなタイプではないのですが、これはとても強烈な印象があり、私でさえもそんな気分になってしまいました...

旅の終わり頃、バンクーバーに近づいてきた時、私達はふたりとも、この新しい友情をどうやって続けていけるだろうか、と考え始めていました。そんな時、びっくりするようなことがわかりました。私達は同じ町に住むことになる、ということはわかっていたのですが、私達がそれぞれ住む場所を知った時にはほとんど信じられませんでした。彼女のホームスティ先と私の友人の家は、たった徒歩1分ほどしか離れていなかったのです。ですから、列車がついにバンクーバーの駅に着いて、彼女はホームスティ先へ行くバスに向かい、私は自転車に乗った時には、これが「さよなら」ではない、ということがわかっていました。

そしてもちろん、「さよなら」ではなかったのです。毎日、彼女はホームスティ先のある丘から私を訪ねて来ました。私は、地下室を使えるような状態にするためいろいろ作業をしていました。基本的な枠組みはできていたのですが、浴室に壁をとりつけたり、ペンキを塗ったり、戸棚のドアを作ったり、仕上げまでにはまだやることがいろいろありました。楽しい仕事でしたが、何日かすると、ずっと家の中にいなければならない、ということにちょっといらいらを感じ始めました。9月の終わり、ハイキングには絶好の季節でした。山々に雪はなく、夏の「観光客」は学校や仕事にもどり、道は静かで混雑もありませんでした。

彼女もハイキングを楽しむ人で、日本から登山靴と大きなリュックを持ってきていました。そこで私達は一緒にキャンプ旅行をする計画をたてました。そして2、3日後には、また列車に乗っていたのです。今度は大陸横断列車ではなく、バンクーバーから北へと向かう小さな列車でした。私達はひなびた町で列車を降りて、山を登り始めました。あたりを散策するのは実に楽しく、気候はやや寒く雪がちになってきていましたが、そんなことはまるで気になりませんでした。予定を2,3日延ばしました結果、持っていた食料はほとんどなくなり、旅の終わり頃に私達が口にしたのは他のキャンパー達に「借りた」紅茶とビスケットだけ、という状況でしたけれども。 山を降りてバンクーバーへもどる頃には、少し濡れて大いにおなかが空いていました。

そしてふたりが次に進むべき道ははっきりしているように思えました。彼女は「お世話になりました」と言ってホストファミリーに別れを告げ、私のところへ引っ越してきたのです。正確には覚えていませんが、トロントの列車で出会ってから約2週間後くらいのことだったと思います...

展示会報告

ここ数年は、ギャラリーでの展示方法をどのようにしたものか、ずいぶんと考え倦ねました。「百人一首版画シリーズ」の時は、あまり選択肢がなかったのです。展示する版画の数が多くて、壁面いっぱいに全部を張り付けるしかなかったからです。うまく展示されているかどうか、とういうことは二の次でした。新たに「摺物アルバム」を始める前、最初の見本を紹介する時には、ギャラリーの奧を囲って特別の部屋を作り、その中で柔らかな明かりの元に置かれた版画は、とても美しく見えました。

そして、第一回目の摺物アルバムの展示会を2000年の1月に控えた時には、10枚の版画全部がその時と同じ照明で見られるよう、障子をずらりと1列に並べて、その前に版画を置きました。それで、効果の程は?ええ、効果は抜群でした。でも、ちょっと欠点もでてきたのです。作品毎に書いてきたエッセイは、今までもずうっと展示してきましたから、今回も、それを印刷したものを台紙に貼って、版画の隣に展示したのです。ところが、置いた机の高さが低すぎ、おまけに照明を薄暗くしてあったために、読みづらくなってしまったのです。「背中が痛くなったよ!」とか「これじゃあ良く見えないなあ!」などと、お客様から苦情が出てしまいました。一枚だけなら、とても効果的だった展示方法ですが、それを全部にあてはめると、うまくいかなかったわけです。

それで今年は、なにか別の方法を見つけなければならなかったのです。家を買ったばかりで経済的に苦しく、時間もぎりぎりでしたが、なんとかしなくてはなりませんでした。そこで思い出したのが1年前のことでした。あるインテリアデザインの会社が、私の作品を展示する企画をした時の事です。その展示方法は抜群にいいもので、作品を屏風のように角度のついたパネルに貼って、その真上からライトを照らすというやり方だったのです。これは、版画を壁にかけて明るい光を当てるという、私がもっとも嫌っていたやり方だったのですが、光線が版画に直接当たると、とても効果的だったのです。版画の面にある凹凸も色もはっきり見え、和紙の感触も手に取るようにわかりました。

私は、自分の展示会にもこの方法を採用することにしたのです。貞子さんと一緒に手順を考え、日用大工店に行って材料を仕入れてきました。ベニヤ板、壁紙、スポットライト、などなど、必要と思われるものすべてをです。この時は、すでに引っ越しがすんでいて、家財道具から仕事に関係するものまで、すべてが新居に移してあったので、羽村のアパートは空っぽでした。ですから、私達は数日間、がらんどうのスペースいっぱいに道具を広げて工作ができたのです。パネルは、分解したり組み立てたりできる運搬可能なものにしました。作っているあいだに、いくつか困ったことにもぶつかったのですが、なんとか解決の道を見つけて、最終的に展示場に設置したときにはとても満足でした。版画の美しさがとても良く見えたからです。

それで、お客様はこれが気に入った? ええ、反応は良いようでした。前回を知っていた人達の多くは、新しい照明の仕方に驚いていましたが、文句を言う人はいませんでした。版画がはっきりと見えて、とても好評でした。

来場者の数ですが、こちらは前回と較べると少なく、芳名帳が一冊で済んでしまうほどでした(昨年は2册で、百人一首の最後の年などは5册でしたから!)。これは、マスコミがあまり取り上げなかったせいです。「摺物アルバム」というテーマは、「百人一首」にくらべると、影響力が弱いのだということがよく分かりました。私が今まで注目されてきたのは、明らかに自分の選んだ題材と、十年間で完成させるという企画のためで、これがマスコミの関心を引いたのだと思います。「摺物を年に10枚作って、500枚を目指す50年プロジェト!」なんてぶちあげましょうか!そうしたら、マスコミがもっと注目してくれるかも?

もちろんそんなことはしませんよ。展示会に来る人が少なくても注文はありましたし、この仕事をまた1年間続けていけそうですし....。「摺物アルバム」を始めた時には、かかる費用を改めて計算し直して、百人一首の時とは違う形に計画しました。百人一首の時、版画は一枚当たり一万円で、1作品につき100枚ずつ摺りました。収支決算は、なんとかというところだったでしょうか(シリーズの後の方のことですが)。一方、摺物の方では、価格を低く押さえたかったので6,000円とし、摺る枚数を200枚に増やしました。「摺物」は全般に色数が多く、摺る作業は以前にくらべるとグンと増えています。加えて、生活していくためには収集家の数を増やさなくてはならないといこともありますが、摺物の価格は、たいていの人にとって、より手の届きやすいものになりました。

こうして2年が過ぎた今、収集家の数は目標の200人に到達したでしょうか。いいえ、まだです。第2アルバムが113人でした(その方達の名前はアルバムの最後のページに印刷してあります)。これでは生活していけませんが、今のところはまだ百人一首シリーズの第2摺りをしているので、家計の方はなんとか...

さしあたっての問題は、色数も摺る枚数も増え、しかも、ふたつのシリーズを継続している、という状況にあるために、予定が遅れ遅れになってしまっているということです(収集家の方は良く御存じでしょうが)。今年の展示会では10枚目が間に合わなかったほどでした。これをどうしたものか、今のところ解決策は見当たらず、なんとか皆様に我慢して頂くしかないのです。

高級なレストランに行くと、メニューに書いてあるでしょう?「美味しい料理は時間がかかります....」ってね。

楽しいお食事を!(Bon appetit!)

スタジオ便り

このニュースレターに、もうひとつ連載が加わることになりました!やっと自分の家が持てるようになったんです、好みに合わせて仕事場を改装できないなどと、言い訳をしていられなくなりました。前の羽村の住まいでは、改装が許されませんでしたから(そんな空間もありませんでしたが)。今はもうそんな制約はありませんし、地階はまるで、「白いキャンバス」のように空っぽ、どんなデザインも描ける状態です。

この空間をどんなふうに使っていくかについては、色々と考えがあります。ここを初めて見たその時から、最終的にどんな仕事場にするかという青写真は浮かんでいました。摺り台はここに.....、そして彫り台はあそこに...、というふうにです。実際に越してきて、この建物の様子についてもわかってくると、最初のアイデアに修正が加わり、計画も細部にわたるようになりました。そしてしだいに、どうやったら自分にとって理想的な仕事場を造れるかということに焦点をしぼれるようになってきました。

きっと長くかかることでしょう。建築の仕事をする人を雇って、なにもかもやってもらえるのならば、きっと短期間に仕上がるでしょうが、私にはお金も、また、そうしたいと思う気持ちもないのです。自分の手で造っていきたいのです。作業は当然長期に渡るでしょう。少なくても数年、おそらくもっと長くかかるでしょう。作業が進んでいくようすは、この「スタジオ便り」に更新していきます。

ところで、私は「スタジオ」という言葉を使っていますが、これはどうもしっくりきません。「せせらぎスタジオ」という日本語の響きがいいので名付けたものの、本音をいえば、芸術家でない私にはちょっとそぐわないんです。私の気持ちとしては、版画製作のための仕事場で、スタジオではないんですから。かといって「せせらぎ作業場」では、やはりおかしいし...、ということで、結局「スタジオ」を採用することになりました。こだわっているのは自分だけで、他の人たちは皆、私の仕事に相応しいと思ってくれるようですし、ま、問題はないでしょう.....。

内装が進むにつれて、段階ごとに写真を撮ってみなさんに報告するようにします。今はまだ、版画製作の遅れを取り戻している段階で、なにも手をつけていませんが、春になって暖かくなってきたら、作業開始の火ぶたを切るつもりです。それまで仕事は、地上1階にある六畳の和室になります。前の羽村の時とまるで同じ広さです!住み慣れた気分のまま.....

伝統工芸の危機 ....?

展示会にくる人達が、よくこんなことを言います。「こういった素晴らしい工芸が消えていくのは残念なことです」と。世界の伝統工芸技術は危機に瀕している、と考えている人がたくさんいるようです。そしてまた、伝統技術は現代の方法よりも優れていると考えがちのようですが、これについて私は、疑問を感じています。昔の職人は、彼等の仕事を特別な物としてなど考えていなかったと思うのです。彼等は単純に、「仕事をしている」人達だったのです。それが陶芸職人であれ、宮大工であれ、また版画職人であっても、毎朝起きて朝御飯を食べ、それから仕事を始めただけのことなのです。今の人達とまるで同じようにです。彼等は社会が必要とするものを作りました。でも時代が移って物事が変化し、様々な商品への需要が減って、別の物の需要が増えたのです。歯車は回転し続け、止まることがありません。伝統は、生まれ、栄え、そして自然に消えていくのです。

もしもこれが自然の流れならば、私達は伝統工芸を受け継ぐことにあまりこだわらなくていいのです。年老いた職人の傍らに技術を学ぼうとする見習いがいない、ということを聞いて「なんて、残念なこと!」などと嘆く必要もないのです。見習いになったかも知れない若者はみんな、別のところで、物事の新しいやり方を考えているのです。若者はこうあるべきです。江戸時代の工芸は平成の世にはあまりそぐわないかもしれないのですから。

でもここで、こういった考え方を受け入れたとしても、もう一つ別の見方があります。現代の音楽家が、ロックやジャズやポップスなどの新しい形態の音楽を創造している反面、モーツアルトなども聞くということを、考えてみてください。このような場合、昔は現代にとって代わられるのでなく、その隣にあります。つまり、私達のエネルギーが伝統を保存するように働いている、ということがあるのです。

でもこれは、聞く人がいる限りにおいて成り立つことです。もしも、モーツアルトの音楽会に人々が行き続けるのなら、伝統音楽は演奏され続けて、その結果、伝統が保存されるわけです。人々が、食卓用に手作りの食器を選ぶ限り、陶芸家は気持よく創作を続けることでしょう。これは単純な等式ですから、もしもあなたがそういったものに価値を認めるのなら、日常生活の中でそれを有効に利用しなければならないということになります。そして、もしも工芸品を使わなければ、歯車は当然のこととして、完全にひと回りし、伝統は消えてしまうのです。

どうするかは、皆さんの手に掛かっています。私達、職人ではなく、消費者の皆さんが、生き残る工芸を決めていくのです。私達職人は受け身の状態にあります。未来は、皆さんの手の中にあるのです。

一月、まだ羽村で引越しの準備をしていた頃、たくさんの人が私に警告してくれました。「あそこは寒くなるよ!」と。ええ、わかっていました...ここには暖房設備が何もないし、しかも典型的な日本家屋で...つまり、断熱材がお粗末で、ほとんどないと言っていいほどなのです。それだけでも羽村のアパートより寒くなりそうなのに、そのうえにまだ寒くなる条件がそろっているのです。この家は山の北側に立っているし...小さな川に面しているし...しかも大きい。これらの条件が相俟って、実に寒い場所を作り出すことになるわけです!私達が荷物をここに運び込んだ日、引越し業者のひとりは浴室を指して笑い出しました。浴槽に残っていた水が凍って底にひっついているのです。このすぐ後、凍った水道管のひとつが破裂して、地下室が水浸しになり、本の入った箱がいくつも濡れてしまいました。

私は、冬には風の吹き荒れるカナダの大草原で育ったので、寒さに特別弱いというわけではないし、断熱材をもっと入れて家がちゃんとしたものになるまで、ここでやっていく覚悟はできていました。しかしここ数週間は、貞子さんが彼女の家から持ってきてくれたホットカーペットが、私が仕事をするのになくてはならないものになった、ということは認めざるを得ません。時には手があまりに冷たくて、摺りに使う紙の湿り具合をきちんと確かめられないこともありました。しかし同時に、興味深いこともわかりました。非常に寒いところでは、摺りに使う紙はいつもよりかなり強くなり、ばれんをしっかりかけることができるのです。以前、年配の摺師の方が、「冬摺り」について話しているのを聞いたことがあったのですが、今、その意味がわかりました!私って偉いでしょうか...古くからある本物の伝統を学ぶために大変な犠牲を払うなんて???