デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 2000

 夏ももう終わりそうです...このニュースレターの「夏」号は、もしかしたらなんとか「夏」と言える間に出た、ということになるかもしれません。しかし、遅れるのにはわけがあるのです。この夏は予定がぎっしりつまっていました。三つの大きなイベントがあって、私の仕事のスケジュールを狂わせたのです。そのことについてはこの中に書いてあります...

このページの小さな丸をご覧になればわかるように、いくつかの作品は仕上がりました、そして新しい版画もひとつずつ私の作業台から加わっていきます。今年の摺物アルバムはとてもうまくいっていて、続く数ヶ月にも素晴らしい版画を用意しています。是真、岳亭、永洗富岡 ...名前はご存知ないかもしれませんが、絵はきっと楽しんでいただけると思います。

そしてニュースレターの秋号にとりかからなくては、でないとクリスマス前にお手元に届きませんから!

ハリファックスから羽村へ

お好み焼きを初めて食べてみて、私は日本食に興味をもち、町にある他の日本食のレストランを探し始めました。当時のトロントでは(もしかしたら今でも)、日本食が大変なブームになっており、電話帳を繰ってみると、ちっぽけなラーメン屋さんから高級ホテルのレストランまで、40軒くらいの日本食レストランが見つかりました。それからの数ヶ月というもの、私はそれらをひとつひとつ試してみたのです!そしてすぐに日本食の様々な種類や味を覚え、猛烈にいろいろなものを試した後は、いくつかの好みの店を見つけ、ほとんど毎日のようにそれらの店へ通うようになりました。

日本食は私の好みによく合いました。私は大食漢ではなく、多くの西洋人とは違って、比較的少量の食べ物でも物足りないということがありませんでした。また、イギリスでの子供時代、家庭では香辛料のきつくない食べ物で育ったので、一般的に言ってくせのない味の日本料理に、親しみがもてたのです。

そして私が魅力を感じたのは食べ物だけではありませんでした。たいていのレストランでは若い日本人女性をウエイトレスとして雇っていました。私のような客を惹きつけようとしていたのでしょう。そして私はその策略にまんまとはまってしまいました!あるひとりのウエイトレスが特に気に入って、そのレストランが私の「一番のお気に入り」になりました。しばらくして彼女が別のレストランに移ると、私の「お気に入りレストラン」も変わりました。どのテーブルが彼女の担当になっているのかを覚えて、必ずそこに座るようにしました。前の恋人と別れて数年が経っており、新しい出会いを求める気持ちがあったのです。そこで、どうなったでしょうか?お話するのはちょっと恥ずかしい気がします...

彼女をショーに誘ってみようと考えて、2枚のチケットを手に入れ、ある日それをポケットに入れて、彼女のいるレストランに食事に出かけました。行ったのはかなり遅い時間で、ちょうど彼女の仕事が終わる頃に私も食べ終わるように、というつもりでした。仕事の邪魔をしたくなかったので、テーブルで話し掛けることはせず、彼女が出てくるまでレストランの外で待っていました、どう言うかを何度も練習しながら。やがてドアが開き彼女が出てきました...他のウエイトレス達と一緒に歩きながら!

そんなことは全然予想していなかったので、私はちょっとうろたえてしまい、さっと反対方向へ歩いていってしまったのです。なんてまぬけなんでしょう!27歳、職場ではマネージャーの仕事をしていながら、女性をデートに誘うこともできないくらい内気だったのです...チケットは無駄になり、私は再度挑戦することはありませんでした。しばらく後に、彼女はまた別のレストランに移りましたが、今度は私はついていきませんでした。「今度の焼肉レストランってあんまり好きじゃないんだよね...」と言って...そう、そうだったのです!

そういう面ではみじめな失敗をしましたが、その他の面ではとてもうまくいっていました。私にはうちこめるものがありました。昼間の仕事、そしてそれが終わった後は、コンピューターの勉強。どちらにもいろいろおもしろいことがあって夢中になったのです。

そしてこの長い(長すぎる?)「ハリファックスから羽村へ」の話も、ようやく、羽村への道が見えてきました。デービッドは日本の版画に初めて遭遇するのです...

トロントの町を何気なく歩いていて、日本の木版画展をやっているギャラリーに入って見ようと思った日からもう20年以上が経っていますが、私は決してあの日を忘れません。それはトロントの中でも流行の先端を行くヨークヴィルにある小さな場所で、「スチュアート・ジャクソン・ギャラリー」として知られていました。私は版画のことなど何も知らなかったし、「芸術」になんてまったく興味はありませんでした。私は日本食レストランに食事にでかける途中で、ただ掲示板にある「Japanese」という文字に惹かれただけなのです。

その展示会でどんな版画があったのかはもう覚えていません。絵に何が描かれていたかよりも、壁にかかっていた「物そのもの」に強烈な衝撃を受けました。ジャクソン氏はこれらの版画をどういうふうに展示すべきかを心得ていたのです。優しい、ななめの光のもとで、それらは実に素晴らしく見えました。私は近寄ってよく見ました。 柔らかな色合い、みごとな浮き出し模様...「どうやったらこんなことができるんだ?」...私は「一目惚れ」するタイプの人間ではありません(どうかな?)し、あの日ギャラリーから出てきて木版画家になろうと決めた、と言ったら言い過ぎになってしまうでしょう。しかし、この短い訪問がその種を植え付けることになったのは間違いありません。

そしてもちろん、この話を読んでくださっている方ならもうよくおわかりの通り、デービッドが何かに興味を持ったということは、それを自分でやってみようとした、ということです。実際にとりかかるまでに1年くらいかかることになってしまいましたが...そう、まずは例によって、本屋さんに行って何かないか見ることから始めたのです......

旅行記

前回の「百人一緒」でちょっと触れましたように、今年は夏の初めの3週間をカナダで過しました。今回は「3つ1組の得用パック」のような滞在で、最初にバンクーバー・アイランド南部の観光を少し、つづいて両親の結婚50周年記念の家族大集合に3日間、残りの8日間は、仕事の一部始終を公開するという形をとりながらワークショップで教えました。性質の違う3つの行事を盛り沢山に詰め込んだ旅行が良いのかどうか。これは疑問の残るところですが、各々のために3回も旅行をする時間の余裕など到底ありえず、仕方なくこういう次第になったわけでして...

最初の休暇の部分は「庭巡り」に集中しました。観光日程の最初の6日間を貞子さんと一緒に過すことになったので、私達はカナダでも有名ないくつかの庭園を訪ねることにしました。東京の私の仕事場にいらしたことのある方は、我が家のベランダを御覧になって、私がガーデニングを楽しむなどとは思いもよらないでしょう。でも、彼女と一緒にいくつかの庭園を訪ねるのは結構楽しく、日本の似たような場所とはひと味違った趣きが面白いと思いました。(このことについては、最後のページに彼女自身が短いレポートを書いています)

週末になると、飛行機、車、フェリーと乗り継いで、ブル家の面々が地球のあちこちからやって来ました。集まって何をするかって?これといって特別なことをするわけでなく、お茶を飲み顔を見合わせながら、思い出話やらなんやら、取り留めのないおしゃべりです。どこの家庭でも同じですよね。子供三人(妹と弟と私)、そして孫にあたる私の娘達、皆が健康で、仕事その他の面でも充実して幸せに暮らしていますので、おじいちゃんもおばあちゃんもとても嬉しそうでした。

記念パーテーは月並みなものでしたが、高齢の両親のためにちょっとした贈り物を用意しました。兄弟でお金を出し合って、二人を一週間のアラスカへの豪華な船旅に送り出したのです。(彼等が帰ってきた時には、真っ黒に日焼けして、見てきた鯨や氷河の話などでもちきりでした)全体として、数日間の家族の集いは結構楽しかったものですから、次回の予定まで決まってしまい.... 次は、60周年記念です。

両親、妹、弟と、各々が出発してしまった後、数日は娘達と水入らずで過せましたが、その後には再び、飛行機、車、フェリーと乗り継いだ一団が雪崩れ込み、版画作りのワークショップが始まりました。(この一連の行事は全て同じ場所、すなわち最寄りの町から8キロほど離れたベッド&ブレックファースト、いわば日本のペンションのような所で行われましたから、家族や生徒達の一団が出たり入ったりする3週間のあいだ、私は一つの場所にいればよかったのです)。

ワークショップの生徒達は、ほとんどがアメリカ人で、初めて版画を作るという初心者から、すでに別の方法で版画を作った経験があるけれど木版画について学びたい人、また、以前にもこのワークショップに参加したことがあり、もっと経験を積みたいという人までいろいろでした。生徒達は、大きな教室で銘々が自分の作業台を割り当てられましたから、私は皆がいつでも自分の仕事を見ることができるように、同じ教室の隅で床の上に陣取って作品の製作をしました。 

このワークショップでは、授業形式の学習がまるでなく、誰もが自分のペースで自分の計画にそって作業を続けました。ですから、早起きの人は朝食前にすでに数時間の作業を済ませていましたし、夜型の人は皆が寝てからもずうっと続けていました。中には私のように「両方型」の人もいました!でも毎晩の夕食は一緒で、全員が数台の車に分乗して町に繰り出し、乾杯をして夕食を楽しみました。こうして一日中、誰かが行き詰まると答えられる人なら誰でもその疑問に答えるとうい風に、どこにいても部屋中に質疑応答が飛び交いました。

私も一緒になって、皆の作業の経過を見守りながら助言できることはしてあげるようにしました。この参加者達にとって、私の道具をじかに見られたということはとても重要なことでした。たとえばバレンですが、生徒達の物は、自分で作ったのや、あちこちで見つけたのやと、ごちゃごちゃだったのです。ですから、私の本物のバレンを試すと目を見開いて「わ〜、全然違う!」と口々に叫んだのです。日本製の本バレンは高価ですから、全員が購入できるというわけにはいきませんが、本職の道具がどんなものかという感触を得るだけでも、今後道具を作る時の良い参考になるのです。

今回私がワークショップに持ち込んだ中で遥かに意義深かった事は、私の助言よりもなによりも「仕事の仕方」でした。その週いっぱい、私は「摺物」の最新作を220枚連続で摺りましたが、この作業を目のあたりに見ることは生徒達にとって文字通り目を開かれる思いだったのです。彼等はいつも3、4枚から、多くても数十枚という程度しか摺りません。ですから、220枚もの数を、一色摺っては重ねた紙の山をひっくり返して次の色を摺っていき、これを次々と繰り返していくという作業を見せることは、私が彼等の為にできる最高の教育になったと思います。

最後の日になって、私は摺り終えた作品をパラパラとめくって見せました。すると、まるで印刷機から出てきたみたいに、均一に出来上がっていましたから、これを見て生徒達は、木版画の持つ可能性についてグンと理解を深めたのです。今後、彼等の中から摺師になろうとする人が出るとは思いませんし、数百枚ずつ摺ろうとする人が出てくることもないでしょう。でも、彼等の作品にもっと安定性がみられるようになり、製作上での悩みも幾らかは減ってくると思うのです。

おしなべてみて、この一週間は実に楽しい日々でした。いつの日か、こういった設備がなんとかなるのならば、ぜひ自分の手でワークショップを開きたいものだと考えております。もっとも、現在のこのアパート住まいでは及ぶべくもないことですが.... でも、先のことは 誰にも分かりませんから...

足長おとうさん

娘達がカナダに移ってからもう4年になります。毎年夏の初めに2ヶ月程帰ってくるので、成田に迎えに行くのにも慣れてきました。でも今年はちょっと違っていて、日本で迎える変わりに一緒の飛行機に乗って来ました。6月の終わりにカナダで版画のワークショップがあり、その帰りと娘達の帰国予定とがうまく重なったため、同じ飛行機に乗れるように手配したのです。

ワークショップが終わった後の数日は自由だったので、その日々を彼女達とバンクーバーで一緒に過すことができました。娘達は、住んでいる家とその界隈を案内してくれ、飼い猫だったミミにも改めて紹介されました。東京にいた頃このネコは、私が版画を摺っている間じいっと膝に丸まって私を暖めていてくれたのです...僕のことを覚えていたかな?ネコというのは3年以上前の事は覚えていないとどこかで読んだことがありましたが、どうやらその通りらしく、覚えているらしい様子は皆目見せませんでした。

義務的な案内事から解放されれば、親子3人にはもっと大事なことが待っています!それは地元の古本屋を覗きに行くことでした。最近はインターネットで本を買うことができるようになり、コンピューターを使って世界中の本を探せるようになりましたが、長距離の送料を入れると割高になるので、購入はやはり慎重になってきます。そんなわけですから、本の在庫を増やすチャンスを逃す手はない、というわけです。スーツケースの中にはまだ余裕がありましたし...

娘達は「本探し」をどう思っているかというと、即、「行こうよ!」彼女達も読書が大好きで、カナダにある二人の部屋は、棚が本であふれんばかりでした。いくらいっぱいでも、詰め込む余裕はいくらだってあるわけで、娘達がお気に入りの古本屋へまっしぐらとなったわけです。ところで、どうしてそこが娘達のお気に入りの本屋になったかというと、それは、お金を払わずに本が買えるからです。つまり、実はこんなからくりがあったわけで...

日本で娘達を手許において育てていた頃、私は当然のこととして、できるだけ本を読むように仕向けていました。本屋には良く行きましたし、行けば手ぶらで帰宅するようなことはありませんでした。でも、娘達がカナダに行ってしまうとなると、もう本を読まなくなるのではと心配になったのです。その当時はふたり共まだ英語が良く読めませんでしたから、身についた読書の習慣が消えてしまうのではないかと懸念したのです。それで子供達が住むことになった家の近くに手頃な古本屋を見つけて、前金を払って、娘達に匿名で「図書購入券」を送るように店主に頼んだのです。娘達は、一体誰が本のお金を払ってくれているのか、またいくらまで買えるのかわかりませんでした。でも、ふたりとも大喜びで(もちろんです)私が側にいてやれなくてもこの特典をうまくつかって程々の量の本を読んでくれたのです。この策略はうまくいって、その後何度か追加支払いをしましたが、そうこうするうちに、娘達は本の資金がどこから出ているか勘付いたようです。今3人で出かけて行こうとしているのは、正にこの本屋だったのです。

店の中に入って行ってカウンターにいる女性に声を掛けると、残念なことに高齢だった店主はほんの少し前に亡くなり、彼女(娘さん)が後を継いでいるとのことでした。自己紹介をすると、私達家族との取り決めのことは良く心得ていたので、3人はすぐにホコリっぽい本棚の間に潜り込んでいきました。私はその店が大層気に入ってしまい、自分用に取り出した本はすぐに山積みになってしまいました。後から、娘達のための本を選ぼうと、自分が彼女達くらいの年令の頃に興味を持った本を捜して棚の方に歩いていった時に、ちょっと面白い経験をしました。子供達の興味は私の頃とまるで同じというわけではありませんでしたが、共通する部分もかなりあったのです。ですから、きっと面白がって読むだろうと思える本をたくさん見つけることができました。

娘達は私の助けなどなくても自分達でかなりの本を選んでいましたから、2時間もいた後で会計を済ませると、バッグは本の重さでずっしりとなり、家まで持って帰るのに、もうヨロヨロしていました。それでも、私達の本の買い出し騒動はこれで終了とはいかなかったのです。スーツケースがあまりにも重くなってしまったので、数日後に空港のチェックインカウンターの所でこれを計量器の上に載せるのを見た担当の女性と押し問答になってしまったのです。でも、私達は前もって慎重に重量計算をしてありましたから、各々のバッグの重さが均等になるように中身を移動して、なんとか通してもらえました。騒動はその後も尾を引き、飛行機を降りて成田で荷物を受け取る時に一番重かったバッグが私の足の指の上に落ちてしまい、後で爪がはがれる始末となってしまいました。でも、その本の山が今はこの私の部屋にあって、いつでも読めるのですから、この事を考えればその程度の犠牲はたいしたことはないです。

子供達の方も、この夏の読み物として中から何冊かを日本に持ってきていて、その中の一冊を見た時には、ついニヤリとしてしまいました。なぜなら、大きくて分厚い800ページもある本だったし、皆さんも御存じの有名な「風と共に去りぬ」の続編だったからです。私はもう小説は読まなくなっていますが、ふと、10代の頃に似たような大河小説を読んだことを思い出しました。ここ数週間、二人がこの厚い本を読む様子を観察をしていると、面白いことに交代で読んでいるものですから、本挟みが2枚挟まっていて、進行状況が良く分かるのです。二人とも、内容が全部分かっているとは思いません。南北戦争後のアメリカの社会状況についての知識などはかなり浅いですし。でも、知識は少しづつ積み重なっていくことでしょうから心配はしていません。なによりも読書に熱中するということが大事なのです。熱中してしまえば...800ページを超える大作だって...

話は戻ってまたバンクーバーですが、例の本屋を出る時、店長に「前払い金」を追加してきましたから、娘達は戻ってもまた読みたいだけ本が読めるようになっています。これって贅沢でしょうか?私はそうは思わないのです。親ならだれでも、子供達がお腹を空かせれば当然食べ物を与えますし、寒さを凌ぐ服も用立てるでしょう。学用品だって、スポーツ用品だって...子供のためには何とかしてやる。いつでも本が身近にあるようにすることは、こういったこと程大切ではないのでしょうか?

この秋、私がここ東京で新しい本の山の中から読書を始める頃、遠いバンクーバーでも娘達が同じことをしているだろうと思いを馳せることでしょう。甘やかし過ぎかも知れませんが...いつか彼女達が大人になって、私がもうお金を出してあげなくなったら、自分で本屋に行って本の代金を払わなくてはならないことに気付いてきっとショックを受けるでしょう。そしてどうなるか、それは賭けてみることにして....。今のところはとにかく、子供達がどんな本に鼻を突っ込みたがっているのか、それが見られて嬉しいのです、...本が厚ければ厚い程!

カナダの園芸

カナダ、庭、とくれば、ちょっと草木に興味のある方なら、まずブッチャートガーデンを思い浮かべることでしょう。石灰を採掘した後の荒廃地を広大な庭園として蘇らせるなどという、途方もない発想からして魅力的です。石ばかりの地に、果たしてどれほどの土が運び込まれたものか、視界の開けた場所に立ち止まって見晴らしては、ガーデンデザイナーの妙に感嘆するばかりでした。アウトラインを決定する樹木では、高さ、色、生長の仕方、テクスチャーと、ひとつひとつの木の特性を実にうまく生かし、しかも全体としての調和を保っています。温帯モンスーン気候で生活している日本人として、いまひとつ興味深いのは、見なれた木や草が違う環境のもとではどのような生長を見せるかということです。(モミジ、アセビ、アオキ、ボタン...)ただ残念なことに、ここは観光地であるため、常に絶好調の花の状態を公開すべく、草花は最盛期が過ぎると根こそぎもがれて出番を待つ「お次」にとって変わられてしまいます。中高年の仲間入りをした私としては多少のひがみ心でしょうか。「なにもここまでしなくったって」と、同類を哀れむような錯覚に陥ってしまって...

もうひとつの庭は地域の園芸センター。ここは「素晴らしい」のひとことにつきます!地元の住民や学校と密に連係をとってボランティアの協力で運営されているのが特徴で、見ることよりも植物を育て学習することに重点が置かれています。日陰好き、乾燥へいちゃら、アルカリ大好き、などという風にいくつもの区画に分けて植物が植えられていますから、どれも活き活きしています。20年という歳月をかけて集められた豊富な宿根草類がどれもしっかり根を下ろし、それらがうまく配置されて重厚な美しさをかもしだしているのです。庭全体のあちこちにあるベンチに腰掛け、いつまで眺めていても飽きのこない風景です。

私達の観光は一日一箇所。ひがな一日、こんな素晴らしいところでゆったりと過せたなんて、今思い出しても夢のようです。

(詳細は私のホームページにある「バンクーバー・アイランド紀行」を御覧ください。