デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Spring : 2000

これは百人一緒の春号なので、どんな内容になっているかは想像がつきますね。そう、今年の展示会の報告があります!ちょっとした報告を書くのは簡単なのですが、今回は写真を撮るのはむずかしかったです。展示会に来られた方にはその理由がおわかりでしょう!

「ハリファックスから羽村へ」もあります。ついに日本に関係のあるところまで来ました!(まだ日本に来たわけではありませんが...近づいてきています...)

それから、私の仕事場にある「魔法の」本棚も紹介したいと思います...みなさんは「超感覚的知覚」というのを信じますか?そうでなければ、自分の家から一歩も出ずに、私の本棚にある版画の本の中を見たり、その一言一句が読める、というのをどう説明すればいいのでしょう?そんな魔法なんてたいしたことないよ、とおっしゃるなら、もうひとつ、「悪い事が良い事に転じた」をお話しましょう。あるアメリカの町で起きた災害が、どうやって、1冊の江戸時代の本を元通りにしたか、という物語です...

「百人一緒」を読んでくださってありがとうございます!..

ハリファックスから羽村へ

私が働くことになった音楽店の支店は、まだ混沌とした状態でした。そこができたのは2年前なのですが、既にふたりのマネージャーがやめていました。社長のビルが私にこの仕事を引き受けるよう頼んだ理由のひとつは、おそらく、私が彼のところで3年間働いたことがあり、仕事をよくわかっているはずだ、と思ったからでしょう。

私が赴任したのは、ちょうど1年の最も忙しい時期の始まり、学校の始まる季節で、やらなければならないことがいっぱいありました。スタッフの何人かは私の家族の友人で、以前から知っていた人達だったので、そこに慣れるのに苦労はしませんでした。しかしマネージャーの仕事は初めてだったので、わからないことがいろいろあり、質問事項のリストを作って本店に尋ねられるようにしておき、毎日適当な時間にビルに電話しては、ひとつひとつそれらを検討していました。最初、彼は協力的で、私の質問を聞いては必要に応じてアドバイスや指示を与えてくれました。しかしある日、私がその仕事を始めて2週間たった頃でしょうか、電話の彼の声が突然変わったのです。「いつもいつもそんな質問ばかりして、いったい何をやってるんだ?僕は君をマネージャーとして雇ったんだぞ!いいかげんに自分で仕事をしろ!」彼の言うとおりでした。私はいつしか、自分で考える代わりに誰かに尋ねる、という行動パターンにおちいっていたのでした。しかしこのことがあって以来、だんだん仕事をうまくこなせるようになってきました。できる限り、店をきちんとしたものにするようにし、そして時間を見つけて、以前働いていたバンクーバーの本店でやっていたプログラムを実行し始めました。

こうしている間、私は自分の住み始めた新しい場所を楽しんでいました。トロントは大変おもしろい町で、散歩やサイクリングにいい所がたくさんあるし、古本屋さんで時間を過ごすのも楽しいものでした。更に、新しい所へ旅もしました。以前、カナダの西部はおおかた見てまわりましたが、今度はまた新たなおもしろい場所をいろいろ見ることができたのです。私達の会社がまだ手をつけていなかったのはケベック州周辺で、そこでビジネスができるようになるために、私は1週間に何回か、夜、フランス語教室に通い始めました。これが功を奏したとは言えませんが、というのは、ケベック州でも私達の仕事はある程度成功をおさめたのですが、ほとんどは英語を話す団体だったからです。でもとにかく私は努力はしました...

こうして会社の管理の仕事にかかわるようになると、私は物事に対して違った角度で見るようになりました。そして、「コンピューターがあればもっと私達の仕事がうまくいくかもしれない」と思うようになったのもこの頃のことでした。それは1979年、パソコンができる前のことだったので、コンピューターの導入とは「機械でいっぱいの大きな部屋が必要だ」ということを意味していました。そんなことは私達の小さなビジネスには現実的な話だとは思えませんでしたが、とりあえずもっと勉強するために私はコンピューター会社から端末を一台貸してもらえるようとりはからいました。それはコンピューターの本体ではなく、キーボードと画面があって、電話で大きなコンピューターにつなぐようになっていました。これを使っているうちに、私はプログラムとかデータ−管理の基本的な考え方が少しずつわかるようになってきました。それから少しして、私は夜、街の大きなコンピューターのある所へしばしば出かけていき、それを実際に見て、どんなことができるのかについて、より考えを深めるようになりました。

私はまた、別のコンピューター会社と連絡をとって、私達の仕事を見てもらい、どんな改善策があるかを示唆してもらいましたが、ビルはその相場を聞いて、「なかったことにしよう」と言いました。確かにそんな巨額の投資はお話にならないものでした。コンピューターが私達の仕事を改善するのに役にたつかもしれない、という私の考えはまちがってはいませんでしたが、時期が早すぎたのです。機会は数年後にやってきたのでした...

こうしてコンピューターに関心を持ったことが、まったく違ったものへの関心も呼び起こすことになったのです。私が行っていたコンピューターのある場所は、たいていは夜遅くまで開いていました。そして私がそこから出てくる頃には、ほとんどのレストランは閉まっていました。でもすぐ近く、その建物からほんの数歩のところに大変遅くまでやっている店があったのです。私はそこに入るのをずっとためらっていました。出している食べ物がどんなものなのかよくわからなかったからです。しかし、ある夜、私はとてもおなかがすいていて、他には何もなかったので、そこに入ってみました。それは日本料理でした...どんなめずらしいものがでてくるかと思ったのですが、なんとそれはパンケーキによく似たものでした。「お好み焼き」です...そしてこれが日本と私との出会いでした...

展示会の総括

昨年は「百人一首版画シリーズ」の完成展示会でしたが、おいでになった方は御存じのように、ちょっと変わった展示方法を試してみました。ギャラリーの明るい照明を避ける一隅にちょっとした小部屋を作り、斜めに差し込む柔らかな光で版画を見られるように工夫してみたのです。その後の一年間は、その小部屋で見た版画の美しさが忘れられず、次の展示会で会場全体をそんな雰囲気にするためにはどうしたものかと、ずうっと考え続けてきました。  そして、新しく始めた「摺物アルバム」の第一回展示会の準備に向けて具体策を考えたところ...。手間も時間もずいぶんとかかりそうだし、費用もかさみそうだったのです。でも、やってみる価値はあると判断して、結局実行に移すことにしました。

今までの会場では、壁に掛けられた版画が、明るい照明を浴びていました。でも今回は、奥に向かってずらりと並べられた障子越しに、柔らかな明かりが漏れているだけの薄暗い空間になっていたのです。

「これは展示場かしら...?それとも小料理屋かしら...?」でも、いったん会場内に入ってしまい展示物の方に近付くと、そこに置かれたこんな説明が目に入ったのです。「江戸時代の人達は、どのような明かりで版画をみたのでしょうか。ここに再現してみました」

初回「摺物アルバム」の作品十枚が、台紙に載せられただけの状態で、障子の前に設置された台の上に置かれています。額に入れてあるわけでも、ガラスをはめてあるわけでもなく、照明も当たっていません。近付くと、もう一枚、こんな説明が書かれていました。「どうぞお手にとって御覧下さい」来場の方達は指示に従っていました。版画と間近に接して、その柔らかな色合や表面の凹凸を正しい状態で見て楽しんでいたのです。私は、これを見てとても満足でした。

障子の列が終わったところは部屋の片隅で、わたしはそこに天井からの照明を当てて摺台を用意しました。そして、例年のように一番新しい年賀状を使って実演をしたのです。今年の賀状は、最後の摺りに色を使わない空摺となっていたので、とても実演向きでした。バレンでこすり終えて紙を版木から剥がして表に返すと、観客からはきまって感動のため息が洩れてきました。

昨年は百人一首シリーズの完成という特別な展示会でしたから、それに比べると今年は静かで落ち着いた雰囲気でした。それでも、マスコミがとても良く紹介をしてくれたので、予想していたよりはずっと多くの方々が来てくださったのです。次のアルバムに選んだ作品の内容は、前回と同様に表示しませんでした。予約をなさったお客様に、一枚ずつ届くのを楽しみにしていただきたいからです。そう、いつも「のぞきっこなし」です!でもこれは、皆さんに「私を信じて下さい。良い作品を作りますから。」とお願いすることでもあって、昨年同様このやり方に難色を示す人もいました。ともあれ、初回の摺物アルバムはとても評判が良く、また、来場された方々からの第二集への予約も結構あって、大変うれしく思っております。 

これでまた、充実した一年が過ぎました。このニュースレターが皆様のお手元に届く頃、私はもう第二集に取り組んでいるはずです。

来年の展示場は、もちろん、すでに予約済み。制限時間が刻々と追いかけてきます!さあ、しごと、しごと!

不思議な書庫...

版画作りを始めたいと思った場合、日本に住んでいれば事は簡単です。入門者用の情報がいくらでもありますから。指導者が必要ならば地域のカルチャーセンターに参加すればいいでしょうし、また、自分で学びたければ図書館に行って入門書を探せばいいでしょう。あるいはもっと簡単にNHKテレビの版画入門の教育番組にチャンネルを合せてもいいのです。

ところが、外国にいる人にとっては、ちょっと事情が難しくなります。もちろん版画に関する本はたくさんありますが、木版画に関して詳しく書かれた本はほとんどないのです。たいていはエッチングやリトグラフなどの現代版画に関する本だからです。実際のところ、過去には、面白くて実用的な版画製作に関する本はけっこうありました。でも、そういった本はベストセラーなんかになりませんから、今となっては探す事が非常に困難なのです。

たとえばこんな例があります。1890年初期に、日本政府はアメリカの国立博物館に版画製作に必要な道具一式を寄贈しました。それには、彫りや摺りの道具、顔料、版木、和紙など、版画を作るのに必要なものは全て含まれていました。こういった材料の他にも、様々な観点からの図解入り説明も入っていて、その内容は後に米国国立博物館から細部を説明した解説書として出版されてもいます。でもこの解説書は、今日ではとても高価なもので、入手することが恐ろしく困難となっているのです。そういった事情があるために、このように興味深い情報が「閉じ込められて」しまい、版画家たちには手の届かない存在となっているのです。

でもそれは、今までの事です。なぜなら、この本は文章も図解も全てインターネット上にある私のホームページに載せてあり、内容に興味のある人ならば誰でも読む事ができるからです。  私は2年程前から、版画製作に関する古典本を探し始めていて、手に入った本を自分のホームページに載せていますが、今ではそれがかなりの数になっています。そして、ネット上での充実した「版画関係の本を納めた書庫」ができあがり、今では入門書も含めて計12册以上となりました。ですから、誰でもが、自分のコンピューターの前に座っているだけで、私のホームページを開いて、こういった本を読んだり図解を見たりできるのです。あたかも手に取って見ているようにです。

ところで、これは法律上では合法なのでしょうか。著作権はどうなるのでしょうか。もちろん私には他の人の仕事を盗むつもりなどありません。幸い、著作権には期限というのがあって、私のネット上の書庫にある本はどれも著作権が消滅した本です。それで、法律的にも道義上からも、この情報を複写して公開して何ら問題が無いのです。

この私の「書庫」には他にも注目に値する本があります。それは1916年にロンドンのモーリ・フレッチヤーという人が書いた版画製作に関する、完璧な図解入り指南書です。他にも、吉田博という人が英語で書いた、とても内容の濃い「Japanese Wood-block Printing (日本の木版画)」という有名な本があります。(吉田氏の御家族の許可を得ています)私は、この本を自分のホームページに載せる事ができたことに、なかなか感慨深い喜びを感じています。なぜなら、この本は優れているにも関わらず残念なことにあまり出回らなかったからです。1939年という、日米間の関係が悪化している時代に出版されたために...。

ところで、私の書庫にある本は、実際に借りて読まれているのでしょうか。インターネットのホームページの面白いところは、各々のページを訪れた人の数が記録されることです。私が、こういった本をネット上に載せてまもなく、版画に興味のある人たちによって、延べ1100册が完全にダウンロードされました。その人達は今、自分のコンピューターの中に本を保存しているので、いつでも時間のある時に読んだり、勉強したりできるわけです。私のホームページを見た人たちからの電子メールもたくさん届いていて、その中には、とても感謝しているとか、お陰でどれほど技術が向上したかということが書いてあります。

 

私がここ日本で眠っている間にも、地球の反対側では、版画家になる可能性を含んだ若者が、マウスをクリックして私の「書庫」にある本を見ようとしているかもしれません。版画製作の素晴らしい世界に入っていくにつれて、彼の目は段々大きく見開いていきます。やがて材料や道具を集め始め、自分で彫り始めるでしょう。彼がどんな作品を作るのか、私には分かりません。でも、そんなことはどうでもいいのです。私としては、これから学ぼうとする熱心な人に、知識と経験が伝えられれば、それでいいのです。なぜなら、どんな分野にしろ、これは経験を積んだ人がしなくてはならない大切な責務だと思うからです。こうして、自分の版画蔵書を通じて貢献できるということは、なによりうれしいことです。私自身、版画に興味を持ち始めた初期の頃に、たまたま出会った本から強い影響を受けていますが、そんな自分が特別だとは思っていません。この私の蔵書が、版画製作の分野にどの程度の影響を与えるかは、測れるものではありませんが、それにしても、かなり広範囲に渡るとは思うのです。

私の書庫にある本は、今もこうして私の仕事場の本棚に並んでいます。それなのに、その内容は世界中のどこからでも見る事ができるのです。なんて不思議な事でしょう!

友情の洪水

百人一首シリーズに取り組んでいた頃には、このニュースレターに勝川春章の本や絵についてかなりの記事を書きました。今ではもうこのシリーズが終わり、私の仕事は新たな目標に向かって進んでいますが、もう一つだけお話しておきたいことがあるのです...。

それは去年のことでした。あるアメリカ人からとても面白い電子メールを受け取ったのです。事の次第は、わたしの言葉で語り直すのでなく、ふたりの文面をそのまま読んで頂くことにしましょう...

*** *** ***

親愛なるデービッド
15年程前の事ですが、家内と私はトロントのオークションで春章の百人一首の本を入手しました。それは、ヴェイヴァー氏の所蔵品だったもので、私達はその本を自分達の木版画蒐集の大切な一部として加えておりました。
それが1986年の10月、私達が町を離れていた時に自宅周辺が洪水に見舞われてしまったのです。この春章の本も、破損したり完全にダメになってしまった物のなかに入っていました。傷みがひどくて修復の専門家でさえも匙をなげてしまうほどでしたが、私達としては処分するに忍びなかったのです。わずかながら保険金も下りましたが、それでもこの喪失感(と罪の意識)を和らげる事にはなりませんでした。
そして今日の午後、私達が損傷の少なかったものを「eBay*」に載せようと、いつものように必要な情報を得る為の準備としてインターネットで調べている時に貴兄のホームページに出会い、今こうして電子メールを書いているのです。
もしもこの版画が、貴兄にとってなんらかの役にたつのならば、おそらく資料などとして、この版画はそちらにあるべきものと思うのです。痛ましい状態にあるにしても、それが大切にされ役立つものとなるのならば、私達としては心慰められるものとなりましょう。  敬具
ジョン・ウエスト

[*注 インターネット上で行われるオークションの名前]

***

ウエスト様
 とても興味深くお話を読ませて頂きました...本が損傷を受けたという事はもちろん痛ましい事なのですが。 私は、ちょうど5年前に同じ本をオランダの古本屋で見つけ、もちろん即座に飛びつきました。
(中略)
 送ってくださった画像は小さくて損傷の度合いがよく分かりませんが、かなりきちんと摺られている版と思われます。
(中略)
デービッドより

***  

デービッドへ
 お返事ありがとう。どれか特にお好きな絵がありますか。もしあるのならばさしあげますが。(中略)
ジョンより

***

ジョンへ
ワァーオ!協力していただけると、とても助かることがあります。実は、私が何年も前にこの本を購入した時、これは完全な物のはずだったのです。でもオランダの仲買人から届いてみると、その中の2ページが切り取られていて、98ページしかないということがわかりました。
この2枚の絵が、洪水の被害を免れた可能性はあるのでしょうか。換りとして私の作品をお送りできればうれしいのですが...
デービッドより

***

デービッドへ
喜んで!こういった事こそが蒐集の醍醐味ですよ。明日事務所に行く用事がありますから、不足している絵を教えてもらえれば探してみますが。ひょっとしたら私の方にもないかもしれませんが、調べてみないことにはわかりませんから。
 ジョンより

***

(間もなくジョンから、その2枚があったという電子メールが届きました。その2枚は難をのがれていたのです!)

***

デービッドへ
 版画を送りました。不足分の埋め合わせに協力できて私も満足です。たいした労もなく事が順調に運びましたね。
ジョンより

***

ジョンへ
小包みが無事届きました。時間のある時に、手許にある本をいったんほどき、この2枚の絵が本来あるべき所に戻してから綴じ直すつもりです。 こんな願っても無いことがあるなんて今だに信じられない思いです。
デービッドより

*** *** ***

このようにして、おそらく抜かれてしまったのはずっと昔のことでしょうが、その2枚の絵のお陰で春章の本はついに「正常」な状態に復帰したのです。この親切で礼儀正しい男性は、電子メールでこんなやりとりをしている間、金銭的な事や支払いの事は一切ほのめかしませんでした。そして、お礼の気持ちとして私がした事は、最近製作した数枚の版画をお送りしたという程度です。

良い話だと思いませんか!インターネットというものがなくても、ありえた事かも知れませんが、でも、どんなものでしょうか.....

このニュースレターの1年前の春号で、百人一首シリーズ最後の展示会での写真を何枚かお見せしましたね。みなさんも、このために日本に来た私の家族をご覧になったでしょう。あの展示会の間に、ブル家はちょっとした「同窓会」をしたわけです。これはめったにあることではありません...しかし、今年の6月に、私達はまた集まるのです、といっても私の展示会のためではありません。両親の結婚50周年なのです。私達はカナダで会います、そして今回は家族全員が来るのです。全員というのは文字通り「全員」です。私の親戚全員が集まるのです。

ちょっと聞いてみたいのですが−みなさんの場合、親戚は何人ですか?数十人?100人?私の親戚の数を聞けば少し驚かれるかもしれませんね−6人だけなのです。娘がふたり、両親、妹がひとり、弟がひとり。私の両親はふたりとも一人っ子なので、私には叔父や叔母、いとこはいないのです。そのうえ、私の妹も弟も子供がいませんから、甥も姪もいないわけです。ですから、ブル家全員の同窓会というのはそれほどむずかしいことではありません。しかしもちろん、むずかしい面もあります。私は日本に住んでいるし、弟はドイツ、妹はカナダ(私の娘達の近くです)、そして両親はイギリスです。飛行機の「家族割引」がほしいところですね...

でも私は「同窓会」のためだけに行くわけではありません。木版画の道具も一式持っていきます。でもこの話は次の号のためにとっておきましょう...また次回に!