デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Spring : 1998

また「百人一緒」の季節がやってきました。これはこの長いシリーズの最終年の最初の号です。いつもと同様、春号には、1月の展示会の報告を載せています。連載中の「職人を訪ねて」のコーナーもあります。今回の話にはいつもとはちょっと違った感じがすると思いますが、それが何か、中を見ればおわかりになるでしょう。

烽ソろん、「ハリファックスから羽村へ」のコーナーもあります。もともと、このシリーズは今年で終わりにする予定だったのですが、書いているうちに、いろいろ失敗談などを思い出してきて、百人一首のシリーズの終了と同時には「羽村」までたどりつきそうにありません。でも、別に問題ではないかもしれません。百人一首シリーズが終わった後も、ニュースレターは続けるつもりでいますから。そのことについてはまた今度...

この号で何かおもしろいものを見つけて下さるといいな、と思います。

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

フルートの演奏に夢中になっていた何年もの間、私は父から何か音楽的な影響を受けようとはまるで考えていませんでした。私は父のやるような音楽を 完全に見下していました。しかし、楽器店での仕事を通じて多くのポピュラー音楽に接するようになると、次第にそういう音楽に馴染んできて、偏見を持たなくなりました。オーケストラの仕事を得るのに失敗してしまった私は、クラシック音楽にこだわ らなくなっていたのだと思います。ですから、ある日友達が「町のホテルで演奏する仕事があるよ」と電話してきてくれた時、行ってみる気になったのでした。

町で一番高級なホテルのとても豪華なレストランでは、7人のミュージシャンが音 楽を担当していました。まず、フルートを含む3人のグループが、ディナータイムに軽音楽を、その後4人が加わって小さなオーケストラとなり、ダンス音楽を演奏しま す。こう いう流れが毎晩繰り返されます。とてもおもしろそうな仕事でしたが、ひとつ大きな問題がありました。フルート奏者はダンス音楽の演奏時にはサックスに持ち換えなけ ればならなかったのです。

採用を担当している人のところに電話をかけると、彼は「楽器を持って、家に試験を受けに来るように」と言いました。私はサックスのこと、つまりそれを持っていないということを言おうとしたのですが、彼は「それも持ってきて何か曲を吹いてくれ!」と言って、私に最後まで言わせてくれませんでした。 私たちは翌日会うことになりました... その時私は、何年もプロのサックス奏者と一緒に暮らしていたのに、自分がそれに何の興味も持たなかったことを、本当に後悔し始めました...でも、それほどくよくよはしませんでした。心の中ではまだ、クラシックの音楽家のほうが優れているのだ、と思っていたのです。私は楽器店でサックスを買って家に持って帰り、どうやって吹けばいいのかやってみました。

翌日、非公式のオーディションを受けに行くと、くだんの担当者は待ちわびていて、私を見るなり、「よし、フルートから始めよう!」と言いました。彼はポピュラー音楽のサックス奏者を何人も知っていました。彼らの多くはフルートも吹きましたが、その演奏はひどいものだったので、彼はまずフルートの演奏を聴いて私の実力を試そうとしたのでした。しかし私がフルートを吹き始めると、彼の目は輝きました。私の演奏は良かったのです!いくつかの曲を一緒に演奏した後、彼は言いました。「これはすごい!仕事は君に決まりだ!」そして彼は、仕事を始める日を数日後と決めました。私がサックスのことを言いかけると、「大丈夫だよ」と手をふってさえぎってしまいました。彼は明らかに、フルートをあんなにうまく吹ける者ならサックスの演奏に問題はないだろうと決め込んでいたのです。そういうわけで、数日後、私は真新しい黒のスーツを着て、ホテルのミュージシャン控え室で仲間に紹介されました。私を含む3人がまず最初の演奏を始め、私の「プロのミュージシャン」としての仕事が現実のものとなったのです。私は、演奏する曲を全部は知りませんでしたが、トリオのリーダーが始めると私が後に続き、そして合奏になりました。それは大変楽しかったのですが、1時間ほどして、別のミュージシャン達がステージにあがってくると、この後はそう簡単にはいきませんでした...

みんなが持ち場につき、私はサックスを取り上げてストラップを首にかけました−フルートと比べるとなんと重いこと!リーダーが最初の曲名を告げました。それは大変なヒット曲でしたが、演奏が始まると私は、ページの半ばくらいに、コードネーム(和音)の他には何も書かれていない大きな空白部分があることに気づきました。テナーサックスの長いアドリブソロなのです!ソロの部分が近づいてくると、リーダーは私に手を振って立ち上がるように合図をしました。私は生まれて初めて即興のソロをやり始めていました...

今でもこの時のことを思い出すと、恐怖で目をぎゅっと閉じたくなります。でもその時は私は目を開けていたはずです。というのは、私は決して...決して、あの時のオーケストラリーダーの顔を忘れることができないからです−私の出すものすごい騒音がマイクから漏れ出てきて部屋中に響き渡った時の−。それはガチョウの群れの瀕死の叫び声のようだったのに違いありません...しかしありがたいことにすぐ、リーダーは狂ったように手を上下させて私にやめるように合図を送り、ギタープレイヤーを指差しました。彼はさっと飛び出てきて素晴らしいソロを奏で、空白部分を埋めてくれました。

その夜の演奏がすべて終わった時、私はただちに首になるものと思っていました。 しかし驚いたことに、そうはならなかったのです。彼らは私のフルートの演奏を大変気に入って、ダンス曲のアレンジを変えてオーケストラの別のメンバーがソロをするようにしてくれました。そのメンバーはもちろん、自分の演奏のチャンスが増えることを喜んで受け入れてくれました。私はそれからも毎夜サックスを吹ましたが、どの曲もテーマのところを吹いただけでした...もうソロを吹くことはありませんでし た...   こうして、生涯で最も素晴らしい経験のひとつが始まったのです。私は相変わらず、日中は仕事で大変忙しくしていましたが、それが終わると毎日、ホテルへと車を走らせて、4時間の音楽活動の時間を楽しみま した。私の音楽的技術は日に日に磨かれていきました。私はもちろん、初日のひどい出来事のことは、すぐにみんな忘れてしまいました。ついに私は「本物の」ミュージシャンになったのです!

次回へ続く...

展示会の総括

今年の展示会は、思いがけず、素晴らしい成功を収めました。「思いがけず」と言ったのは、「今年は『静かな』年になるだろうな」と思っていたからです。自分の仕事に対して悲観的になっていたわけではなく、マスコミの注目をあまり期待していなかったのです。例年と同様、いろいろなメディアに、展示会の知らせを送りはしましたが、雑誌や新聞の編集者は「これについては、来年、シリーズが完結してから扱おう。今年は必要ない」と考えるだろう、と思っていたのです。思ったとおり、ほとんどの編集者はそんなふうに考えたようで、私は来場者も多くないだろうと予想してい ました。

ところが、だいたいのマスコミはあまり注目してくれなかったのですが、私は「重要なのは量より質だ」ということを学びました!ある日の電話で私は、「展示会開催中の土曜日の早朝、NHKラジオの30分のインタビュー番組に出演してほしい」と依頼されました。もちろん喜んで引き受けました。そして番組の司会者とあれこれおしゃべりして楽しい時を過ごしましたが、その効果を別にそれほど期待してはいませんでした。ところがふたを開けてみると、その番組を聞いた後で、毎日何百人もの人が展示会に来てくれたのです−みんな、作品がどんなものなのかに興味をひかれて。

 

こういうことには、ラジオの方がテレビよりも有効な場合があるようです。テレビなら、版画を見ることができるし、わざわざ出掛けて行く必要はありません。しかし、ラジオでは何も見えないし、好奇心がかきたてられます。主にこの短いインタビューのおかげで、今年の展示会は今までで最も盛大なもののひとつとなりました。そして、版画を多くの人に見てもらえたし、いろいろな人と話をすることができ、そして又、新しい収集家の方が増えたという点でも、今年の展示会は素晴らしいも のでした。

そしてみなさんがこれを読んでおられる頃には、私は「最終コーナー」にさしかかっています−最後の10枚です!

職人を訪ねて ...

このニューズレターを作り始めてかれこれ9年、木版画に関わる職人さんをずいぶんと訪ねてきました。ところで、これまでお訪ねしてきた職人さん達の共通点にお気付きでしょうか。みなさん男性で、少なくとも私よりは年上の方達だったのです。でも今回のゲストはちょっとばかり違うんです。二人とも私よりずうっと若くて、しかも一方は女性です。

今まで、長い経験を積んだ年配の職人さん達ばかりを紹介してきたので、この方達の寿命が尽きてしまったら、伝統木版画はおしまいになってしまうのでは、と心配されたかもしれません。私自身もそのことが気になっていたので、バランスを取り戻すという意味もあって、松崎浩繁さんと小池香世子さんに会うことにしたのです。ふたりは年配どころか、両方の年齢を足して私より4つ多いだけです。ちなみに私は46!

「百人一緒」を始めから読んでいる方は覚えてらっしゃるかもしれませんが、浩繁君は第4号で彼のお父さんをお訪ねしたときに、話の中でちょっとだけ登場していたんです。写真は後ろ姿だけで、失礼だったかなあ。当時、彼はまだこの世界に入ったばかりでしたが、今ではもう摺師として10年も経験を積んだことになります。今回こうして話をしてみると、腕が上がったことで職人のひとりとしての自信もついてきているようです。父親について、多様な種類の仕事をおびただしい数こなしてくるうちに、私がまだ知らない技術なども習得してきています。にもかかわらず、彼としては、まだ見習いで一人前になるにはあともう5年と考えているようです。


香世子さんの彫師としての経験は、まだそれほどではありません。高校を卒業してこの仕事をするようになったのが3年前ですから。彼女が言うには、最初に与えられた仕事は、長唄の文句がいっぱいつまった版木だったそうです。これには驚きました。なぜなら、今から数百年前に職人の見習いがしたのと、まるで同じだったからです。そして、こういった太くて丸みのある書体を彫っていくのは、版木を動かさずにあらゆる方向に向かう曲線を彫れるようにするための、とても良い練習になったというのです。これこそ、私が経験した事のない訓練で、しっかりとした基礎を築いている彼女がうらやましく思えました。とすると、ついている親方は保守的で厳しい師なのだろうか、と心配になったのですが、どうやらそんなことはなく、分らない事があれば見てもらえる開放的で居心地のいい環境にいるようでした。


珍しいという点では、香世子さんと私は共通しているかもしれません。でも、私が、髪の毛や目の色の違いに関係なく本当の実力で評価してほしいと思うように、彼女も女性だということをまるで意識せずにやっているようです。そう一個の彫師として。

3人で食事をしながら、香世子さんは生粋の職人だなあ、と思うようになりました。というのは、仕上がった版画に自分の名前を入れて欲しいかどうか聞いて見ると、こんな答えが返ってきたのです。そんなことはどうでもいい、板に彫ることが自分の仕事なのだからと。私としては、自分の名前は当然作品に記されるべきだと思っていて、浩繁君も自信の持てる作品に名前が書かれても良いという控えめな意見でした。最近の傾向としては、こういった仕事のできる職人があまりいなくなっているので、仕事に誇りを持つという意味でも、名前が記されるようになっているようです。

今回二人の若手の職人と話をして、とてもうれしく新鮮な印象を持ったのは、仕事の将来を明るいものとして見ているということです。若いんだから当然とおっしゃるかもしれませんが、彼等は情熱があるだけでなく、社会が彼等の技術を価値あるものとして支えていくだろうという自信を持っているのです。経済の動向には浮き沈みがあるものだし、仕事の少ない時もあるかもしれない。でも長期的には自分達の仕事は評価されていくだろうと。僕自身もそう思っているのですが、だれもが同じ考えではないので、このことを聞いてほっとしました。

伝統的木版画を作る時、彫師と摺師は各々別の仕事場で作業をするので、お互いの仕事について話合うという機会はあまりないことが多いのです。ですから、ある絵がこんなふうに彫られたら、それを摺る時にどう影響してくるかなどと、食事をしながらの会話が弾み、何枚かのナプキンは書き込みでいっぱいになってしまいました。となりの席にいたお客さん達には僕達が何の話をしているのか皆目わからなかったことでしょう。好奇心をそそる話の展開に、いつかまた彼等と会えたらと思いはしたものの、ちょっと妙な余韻が残ったのです。この世界の職人さんを訪ねるといつも、自分がとても若い気分になって帰って来るのですが、今回はちょっと...

浩繁さん、香世子さん、お二人の御成功を心からお祈りします。そして、版画製作によって得られる喜びと充実感を、たっぷり味わってください。

東洋文庫の小山さん

二年ほど前、このニューズレターで東洋文庫とその司書の小山さんについて書いたことがあります。小山さんは、当時私が復刻しようとしていた勝川春章の原本を閲覧することを許可して下さった方でした。お陰様で必要な原本のスライドすべてが手に入りましたし、その後、自分でも原本のひとつを手に入れていたので、最近は頻繁に東洋文庫に足を運ぶ必要がなくなっていたのです。でも来年からのプロジェクトのことで、小山さんとお会いして将来の作品についての可能性などを相談しようと、先日久しぶりに出かけてみました。

 

ところが、彼と話をすることはできなかったのです。読書室の受付に行くと、そこにいた若い職員からこんな説明を受けました。小山さんは昨年の夏とても具合が悪くなって入院し、間もなく末期癌で亡くなられたと。

私は、この出来事をどう受け止めていいのか戸惑ってしまいました。小山さんは友人というほど近しい存在ではなく、資料を求めて東洋文庫に行った折に何度かお会いしただけで、話した内容も極限られたものでした。ですから彼の個人的なことについては何も知りません。それなのに、小山さんの訃報に一瞬当惑してしまったのです。この東洋文庫はなにも変わっていない。使い古された机や椅子も、埃っぽいカード入れも、書架に延々と並べられた本の列も。そして、あの机の向こうに座っていた小山さんの姿も、変わらずにあるはずだったのに。

埃っぽい窓から見える東京の町は来る度に変わっていて、古くなったビルは消えて新しく建て直されています。でもここは、そういった周囲すべてから守られているのです。私たちの生活の中で、いつまでも変わらずにあるものなどほんの少しだけれど、この部屋はそんな数少ない場所の一つだと思い込んでいたのでしょう。そこにもってきて、受付の若い職員から「小山は亡くなりました」とあまりに事務的に伝えられたので、変わらないものなどなくここも移り行く場所なのだと、いきなり思い知らされることになったのです。

私は心理学のことは良く知らないし、また小山さんのことを聞いて、どうしてあれほど頭が混乱したのかを分析する気もありません。今日は小山さんの身、明日は我が身かもしれない。文字通り「明日」というわけではもちろんないにしても。自分は今、とても健康で元気だと思っているけれど、小山さんだってきっとそう思っていたに違いない。彼は、東洋の建築にとても興味を持っていたので、病気のためにその研究を続けられないことを知ったときは、さぞかし残念に思われたことでしょう。もしも私がそんな病気になったら、『イヤだ、イヤだ、まだ厭だ。やることがいっぱいあるんだ。版画を作りたいんだ』と叫びたくなると思う。

いつか私にも「くたびれ果てる日」が来るでしょう。そうしたら道具を置いて、本も片付けて、何やかやと質問をするのも止めましょう。避けられないのですから。他の人達の人生がそのまま続いても、自分のはおしまいになるということを。それでも、そんな日はずうっと、ずうっと先であって欲しい。復刻を待つ美しい版画が山とあるんですから。

今はもう、小山さんに仕事のことでお世話になったお礼を再び述べることはできなくなってしまいました。でも、亡くなられても、私たちに知識の蓄えを残してくださった。司書の仕事を始められた時点で、ご存じだったのです。御自分が居なくなっても、あの延々と並ぶ蔵書の数々に収められた情報は、変わることなく保存されることを。この私も、そのことは、わかってる. .つもり. . で. . .す. .

ぼくの作品、良く面倒をみてやって下さいよ . .ね . .