デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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こんにちは、「百人一緒」の春号をお届けします。 昨年の仕事の、非常にあわただしい「フィナーレ」の後、ここ2ヵ月ほどはゆったりとした日々を送っています。 しかし、ゆったりとばかりもしていられませんね、このニュースレターにとりかからないと。 前号に対する読者の方々の反応は大変良いもので、この仕事を続けていくうえでとても励みになりました。
このニュースレターの読者は今やおよそ300人となりました。 私は、私の版画のセットをひとつでも集めてくださった方にはみなさんに、毎回、これをお送りしています。 私の気持ちとしては、版画セットの注文がひとつであっても、「百人一緒」の全号—最初から最後まで—が含まれているのです。 私の計画に大変興味があるけれど、版画を集めることはできない、という方々にも御希望があればあ送りしています。 そしてもちろん、ニュースレターは、この計画に関心を持ってくださっているマスコミの方々とのコンタクトを保つ手段でもあります。
これには時間もお金もかかりますが、そうする価値は十二分にあると確信しています。 現在27号です! 私はいったいどうやってそんなにたくさん話す事を見つけたんでしょう? 本当にまだ言い残していることが何かあるのでしょうか? チャンネルを変えないで下さいね...
前回からの続く...
前回書きましたように、私は冬になっても屋外での演奏を続けました。 でも寒すぎたりして上がりの悪い週には、家賃捻出のため他の仕事を探さなくてはならなくなったのです。 当時は深刻な失業問題もなく、肉体労働ならばいろいろありました。 職業紹介に登録しておき、月曜日の朝早く事務所に行くと一週間分の仕事がもらえたのです。 5日間仕事をして金曜日の夕方には給料を受け取りました。
どんな仕事ですかって? そうですね、ある週は、ワインボトルにラベルを貼る機械の操作。 またある週は、家具店で陳列の手伝い。 月曜の朝、すぐに解雇されたこともありました! それはレンガ運びの仕事で、やせっぽちの私には到底無理だということを知っておくべきでした...
これらはみんなおもしろい経験でしたが、時が経つにつれ、私は自分のフルートをどうしていくのか、ということについてきちんと考えなければなりませんでした。 イギリスに行く前、多くのフルート奏者のレコードを聞きましたが、私が最高だと思ったのはウイリアム・ベネットでした。 当時、彼は、ロイヤルフィルハーモニックオーケストラで第一フルート奏者をしていました。 私は大変内気な性格だったので、彼に会う方法を見つけるなんてできそうにありませんでした。 しかし、春先のある日、勇気を奮い起こして、電話帳で彼のロンドンの住所を調べ、フルートを小脇に抱えて玄関の階段を上り、ドアのベルを鳴らしました。 彼は自分でドアを開けると、私が話すより先に、「おや、君はフルート吹きだね。 さあ、中へ!」と言いました。 私が部屋に入るか入らないかのうちに、彼は私のフルートケースに手を伸ばしていました。 「これは美しいケースだね。 君が作ったのかい? 僕にも作ってもらえないだろうか? 2階へ来てくれ、僕の仕事場を見せてよう...」 彼は一流のフルート奏者であるだけでなく、フルートの設計に大変興味を持っていて、もっとよい楽器を作ろうと、屋根裏の仕事部屋でせっせと試みていたのでした。 どうしたらフルートがもっとよいものになるかということについて、彼はたくさんのアイデアを持っていたのですが、彼の金属加工の技術はごく基礎的なもので、彼がもっとよい音を求めて改造した楽器は、雑にはんだ付けした部品を寄せ集めたへんてこなものでした。 もちろん、私はこれにとても興味を覚えました。 そして、設計の理論について数時間話し合った後、ようやく「さて、君の演奏を何か聞かせてもらおうかな...」と言ったのでした。
前回、オーケストラの指揮者の前で演奏した時は、彼の顔が演奏を聞いてぱっと明るくなるのを見て、満ち足りた気持ちになりました。 でも、今回は違っていました。 ベネットはたくさんの弟子をもっていました。 彼らはイギリスでも最高の若い演奏家たちでした。 私の音色を聞いてすぐに、彼の顔に軽い矢望の色が見えたのを私は見逃しませんでした。 しかし、これは大変おもしろい訪問となりました。 2、3日してようやく自分の部屋に戻った時には(私はソファで寝ていました)、私は「フルートケースをいくつか作ってくれ」という彼の注文を受けていました。
この出会いは、私の方から押し掛けたものでしたが、この後に続くある出会いはまったくの偶然によるものでした... ある日、カフェで食事をしていた時、若い女学生と彼女の父親が近くに座っているのに気がつきました。 彼女はフルートケースを持っていました。 彼らに話しかけてみると、大変おもしろいことがわかりました。 父親は、娘にもっといいフルートを作ってやりたいと思っており、彼は金属加工にかけてはプロ(コンコルドの機械技師)なのですが、フルートの構造については素人でした。 もちろん私はこの話を興味深く聞きました。 それからまもなくして、私は彼の家を訪れ、びっくりするような体験をしました。 「びっくりするような」というのにはふたつの理由がありました。 ひとつは、彼の案内で、コンコルド旅客機を作っている工場の個人見学をしたこと。 そしてふたつめは、フルートの頭管部を彼が旋盤で作ってくれたこと... しかも私が見ている目の前で! となればもちろん、次にやるべきことはおわかりですね。 この二人を結びつけることです。 私は二人が会えるようにはからい、彼らがおたがいの知識を出し合って仕事を始めるのを見ていました。
彼らが協力した結果、革命的に新しいフルートが誕生し、世界を席巻しました...と言えればいいのですが、実のところ、その結果がどうなったのかは私は知らないのです。 というのは、カナダにいる音楽仲間からの連絡で、夏の音楽キャンプの補助教師としての手伝いを頼まれたからなのです。 キャンプが終わったらまたロンドンに戻って来るつもりで引き受けたのですが、ことは違った方向に進んでしまいました。 キャンプで出会ったのが銀のキー付の管でなくて、ある女性だったからなのです。
次回へ続く...
私が山本正勝さんにお会いしたのは2年半前、初めての大阪での展示会の時でした。 そこで彼は百人一首の版画の全セットを注文され、またその時、趣味で「すごろく」に関係のあるものを集めておられる、と話されました。 古いもの中には木版画の技術を使って作られたものがあり、私の仕事とも関連があって、なかなかおもしろそうに思えました。 その時、山本さんは「いつかコレクションを見にいらっしゃい」とおっしゃってくださったのですが、大阪は遠いですし...私も大変忙しく...なかなか機会がありませんでした。
しかし、この2月、名古屋で開かれたあるフォーラムに招かれたついでに、大阪府箕面市にある山本さんのお宅を訪ねることができました。 コレクションを収めてある部屋に入ってすぐ、ここへ来るのが2年も遅れてしまったのは大きな過ちだった、と感じました。 そこで私が見たものは、まさに「Incredible!」としかいいようかありません。
子供のゲームを集めたものの何がそんなに「すごい!」のでしょうか? これは本当に大の大人が時間をかけるだけの価値のあるものなんでしょうか? なんと、山本さんは仕事(皮膚科のお医者さんです)をしている時と寝ている時以外のすべての時間を、このコレクションのために使っておられるのです。 そこで4時間くらい、広大なコレクションの中のとりわけすばらしいものをいくつか見せていただいたのですが、子供じみたものはひとつもありませんでした。 彫り、摺りの美しいすごろくが、低いテーブルに何百枚も積み重ねられていくと、さながら江戸時代の生活絵巻が目の前で繰り広げられているようでした。 人々を楽しませたり、情報を与えたりしてくれるテレビも新聞も雑誌もなかった時代に... これらのすごろくがその役割をはたしていました。 そこに描かれているものは無限にあります。 歴史、旅、歌舞伎、日常生活、性、宗教... みんなこれらの紙に写し出されているのです。 布きれに摺られて破れてしまったものも、美しい芸術作品も、これらの版画のひとつひとつがおもしろい物語を秘めているのです。
その部屋は、床から天井まで壁という壁に、箪笥や棚がひしめいていました。 山本さんは、何か私に見せたいおもしろいものを思いつく度に、ひとつの棚を脇にのけ、また別の棚をじゃまにならないところへ動かし、そうやってようやくお目当てのものを探し当てて、「やったぞ!」というような目をしてそれを持って来てくださるのでした。
コレクションの中には大変めずらしいものもありました。 ていねいに摺られた木版画の本、殿様の娘のものだったというボードゲーム、手塚治虫の原画、中国古代の版画、絵巻物... 何時間も何時間も、私的な「展覧会」が続きました。
ここまで読んできて、みなさんは山本さんに対してどのようなイメージをもたれたでしょうか。 日中は仕事、夜はずっとコレクションを収めた部屋にこもって何かしていて、自分の自由になる時間とお金はすべて趣味に使ってshまう... これは理想的な「マイホームパパ」とは程違いイメージです。 しかし、私たちがその部屋で数時間を過ごした後で、奥様の武子さんが入って来られたのですが、彼女のお話を聞いて私は少なからずびっくりしました。 武子さんは、御主人が家族のささえや助けを楽しんでおられるようすを、山本さんと同じくらい生き生きと楽しそうに話されるのです。 彼女は、コレクションのコンピューターデータベースを作るという大変手間のかかる仕事を、御主人と一緒にされています。 そして、人生を最高に楽しんでいる男性のパートナーであることをとても幸せに思っておられて、山本さんがこのすばらしい計画に時間とお金をつぎこんでしまおうことに不満をもっておられるようすは少しもありませんでした。
ここで、この話を読んでくださったみなさんにちょっとお願いがあります。 山本さんのコレクションは膨大なもので(4500以上のすごろく、1400冊以上の本や関連した物)、完成するということはありえないようです。 山本さんはコレクションに加えるものをまだまだ探し続けてあられます。 もちろん、これを読んでいるほとんどのみなさんにとって、ふだんの生活のなかで、江戸時代のすごろくに出会うことなんでありそうもないことだろうと思うのですが、山本さんはすごろくに少しでも関係のあるものなら、何でも求めておられるのです。 (ある棚にはハローキテーの本まで置いてありました... きっと中にすごろくの絵があるのでしょうね。) ですから、もしみなさんが、おもしろいかもしれない、と思うもの(地方新聞の記事でも、雑誌の写真でも、古本屋さんのほこりにまみれた本でも...)を何か見かけられたら、どうか葉書で山本さんにそのことを知らせてあげてください。 どんなものでも、大きすぎるということはありませんし、小さすぎるということもありません。 みなさんは、「とても幸せ」という状態を「もっと幸せ」な状態にするお手伝いをすることになります。
〒562 大阪府箕面市箕面8-4-7 山本正勝様
以前書いたように、私は百人一首の仕事が終ったら次に何をするかまだ決めていません。 でも、今回の訪問で思ったのですが—絵のどこかにすごろくの絵が隠されているようなものだったら...少なくともひとりはお客さんがつきそうだな!
新宿、高野での展示会も5回を過ぎると、大分と要領が分かってきました。新しい10枚の作品とエッセイはこの場所に、パンフレットはあそこに、80枚の総作品はあの壁面に、といった具合です。今回、80の全作品を壁面に飾ってみると、もうびっしりなので、一体来年はどうしようかなどと思ったんですが、ま、きっと何とかなるでしょう。
作品全部を壁一面に並べてみると、なかなか壮観です。皆さんもそうでしょうが、自分の家では一枚ずつしかみることができませんから、こうして作品の全てを見渡す事ができるチャンスは展示会の時だけなのです。毎年、全作品を一度に見渡してみると、それまでの年月の間にどれほど作品が変ってきたかということに驚きます。初期の頃の作品はまるで別の人が作ったみたいなんです。ほんとうのところ、別の人が作ったんじゃないかと思うんですよ、その人のことはほとんど覚えていませんけどね.....。
今年も、マスコミの人達の反応や取材は昨年とほぼ同じで、次々と取材の人達がきては説明をしたり実演をしたりと、忙しない日々が続きました。新聞を読んでいると、経済情勢が思わしくないことが毎日のように書かれていたので、収集家の方が増える事はあまり期待していなかったのです。ところが驚いたことに、私の'百人一首プロジェクト'に興味を示してくだる方は結構いて、これからもゆとりを持って続けられそうです。今年新たに収集家になられた人達の特徴と言えば、その人達のほとんどが、まるで知らなかった人達と言うのではなく、次のような方達だったのです。1) 現在の収集家の方に勧められた。2) '百人一緒'の読者だった。3) 元収集家で、1セットを集めた後暫く中断していた(版画の出来が良くなるのを待っていらしたのでは....)。理由はともあれ、みなさん、ようこそこのプロジェクトに!一緒に楽しんでください。
ところで、今年、大阪での展示会をしなかったことについて、かなりの人から理由を聞かれました。その一つには、雰囲気が良くて作品の展示に程よい広さのところが見当たらなかったということがあります。でも本当のところを正直に言うと、別に訳がありまして、それは大阪での2度の展示会を通して、何となく居心地の悪い思いをしたという事なのです。日本に来てから、関西人と関東人の違いについては何度となく聞いていました。でも、そんな違いは自分には関係のないことだと思って肩をすくめるだけだったのです。「百人一緒」の#25号をお読みになった方にはおわかりになると思うのですが。
さて、東京と大阪では、展示会に来る人達の振る舞いにずいぶんと違いがあります。自分が東京で『育った』せいか、どうも関西流に慣れるのは難しいのです。一番困るのは、ひと通り展示場見た後、東京のお客さんは、まずお礼を言って(口に出して言わないまでもせめて出口でお辞儀をして)出ていくのですが、大阪のお客さん達はそうでないということです。彼等は、作品を見、エッセイを読みながら会場をひと渡りすると、少しずつ出口の方に寄って行き、私がそちらの方を見ていない隙に目を避けるようにさっと出て行くのです。
このことを友達に話すと、これは単に作品を買わずに帰ることが気まずいからだと言うのです。だとすれば、気付かれずにそおっと出て行くほうが気楽という訳です。でも私としては、自分の作品を楽しんでくれたというちょっとした会釈の様なものが欲しく、何の反応も示されないとがっかりしてしまいます。
これを読んでいらっしゃるのが、関西かの方ならどうか気を悪くしないでくださいよ。私の独り善がりかも知れないのですから。実際、大阪の会場は狭く、私がいつも出口に陣取っている事も影響しているはずなんです。きっと、展示場の隅にある椅子に座って新聞でも読んでいて、お客さんの事なんか気に掛けなければ良いんです。そして誰かが満足した様子で話しかけてきてくれた時に、素直に喜べば良いのでしょう。
事実ここ東京でだって来るひとみんなが気楽に話し掛けて来ると言う訳ではないのですから。今年の展示会でしたが、こんなことがありました。一人の紳士が近づいて来て、なにも言わずに名詞を手渡して会場を出て行ってしまったのです。そして、名詞の裏にはこんな事が書いてありました。
『日本の良さ 外国人に 教えられ』
ご来場ありがとうございました!
村の中で一際目立つ建物があります。 海岸沿いの町から走って来たバスが、最後の角を曲がると、最初に目に入ってくる建物がそれです。 谷間を行くその道は、切り立った山の際を抱くように、山の輪郭に沿って右に左にくねくねと続き、稲が太陽の光を浴びて波打つ広い田團を通り過ぎて行きます。
ここは、おじいちゃんの生まれ育った大里という村です。 「大きい」里と言っても、長く続く谷間のあちこちに点在する小集落に比べらば大きいというだけの事で、せいぜい数十件程の集落でしかありません。 それでも、川の上流にあるほんの小さな部落と川口の、ほぼ中ほどにある唯一の小集落であるために、谷間の中心的な村となりました。
ですから、村の教育関係者たちが百年以上も前に、中学校を立てる場所として大里を選んだのも当然のことです。 そして私のバスの中から見えるのは、人家より少しだけ高い山腹に建つ、平屋造りの木造校舎の細長い屋根なのです。
先日、娘たちと涼しくなってからの散歩をしている時、丘を登ってこの場所にやって来ました。 木造の外壁の深みのある茶色は、何十年も経っているためにまだらになっていて、染みも付いています。 それでも、ほとんどの人家が色あせて灰色になっているのに比べれば、豊かな色を保っていました。 石ころだらけの校庭を抜けて、正面の階段を上がっていくと、鍵がないどころか入り口の扉さえありません。 建物の端から端まで遮るもののない廊下がずうっと続いているのです。
わたしたちは、靴を脱いでその黒光りのする木の床の、別世界に入って行きます。 まさに、「何世代にもわたって足で磨きこまれた。」という感じです。 床だけでなく、人の手の届くところのすべてが、窓から水平に指し込む夕陽を浴びて光っています。 ドアーの取っ手、手摺り、柱...。 どこもかしこもが、まるで名匠による年代物のバイオリンのように艶を放っています。 いったい、いくつの手がこの柱を触っていったのでしょう。 いくつの足がこの入り口を通り過ぎて行ったのでしょう。
わたしたち三人は、並んでいる生徒用の机のところに座ります。 何もせず、ただこの何ともいえない雰囲気を味わいたくて。 でも、どんどん陽が落ちて行くので、わたしたちは急いで校舎の残りを見て回ります。 何もかもが、茶色です。 どこもかしこもが使い込まれて光っています。 わたしたちが校舎を後にし、すでに薄暗くなった村の小道を家へと向かっているとき、沈んで行く夕陽の光をうけた一列の窓が、夜の空を映し出しています。 三人は、それぞれの思いに浸って黙ったままです。
ああ、でもここで、本当のことを言わなくてはなりません。 ここまで、「です」とか「..ています」とか、書いてきましたよね。 この通りだったらどんなにかうれしいことでしょう。 でも、今となってはもう、そうではないのです。 正直にお伝えするなら、「でした」「..ていました」となるのです。 だって去年の話だったからです。 わたしたちが居ない冬の間に、この『夢の不思議の建物』は取り壊され、近代的なコンクリート造りに替えられてしまったからです。
たぶん生徒達は、清潔で明るく、そして暖かい新しい教室に満足している事でしょう。 寒い夜に火事になる心配もなく、保険会社も安心なことでしょう。 父兄の方々も、村の子供達が都会の子供達と同等な施設が使えて満足でしょう。
みんながこんなに満足しているというのに、それなのに、どうしてわたしの目は潤んでしまうのでしょうか。
もし事がすべて計画通りに運んだなら、次号の「百人一緒」では、ちょっといつもとは違ったことをやってみたいと思っています。 ふたりの方に何か短い記事を書いてくださるようにお願いしてあります。 このニュースレターは、たいてい、まず英語で書いて日本語に翻訳していますが、この新しい奇稿者の方々がどちらの言語で書かれるかはわかりません。 英語の原稿になるのか、日本語になるのか。 この方達は、私なんかよりもずっとうまくふたつの言語を使いこなすことができ、どちらの言語でも簡単に読んだり書いたりすることができます。 彼女達は経験豊富な著述家というわけではない(実を言うと、まだ12才と14才です。)のですが、おもしろい話をしてくれるのではないかと思っています。 読むのが楽しみです...