デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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木造りの校舎

村の中で一際目立つ建物があります。 海岸沿いの町から走って来たバスが、最後の角を曲がると、最初に目に入ってくる建物がそれです。 谷間を行くその道は、切り立った山の際を抱くように、山の輪郭に沿って右に左にくねくねと続き、稲が太陽の光を浴びて波打つ広い田團を通り過ぎて行きます。

ここは、おじいちゃんの生まれ育った大里という村です。 「大きい」里と言っても、長く続く谷間のあちこちに点在する小集落に比べらば大きいというだけの事で、せいぜい数十件程の集落でしかありません。 それでも、川の上流にあるほんの小さな部落と川口の、ほぼ中ほどにある唯一の小集落であるために、谷間の中心的な村となりました。

ですから、村の教育関係者たちが百年以上も前に、中学校を立てる場所として大里を選んだのも当然のことです。 そして私のバスの中から見えるのは、人家より少しだけ高い山腹に建つ、平屋造りの木造校舎の細長い屋根なのです。

先日、娘たちと涼しくなってからの散歩をしている時、丘を登ってこの場所にやって来ました。 木造の外壁の深みのある茶色は、何十年も経っているためにまだらになっていて、染みも付いています。 それでも、ほとんどの人家が色あせて灰色になっているのに比べれば、豊かな色を保っていました。 石ころだらけの校庭を抜けて、正面の階段を上がっていくと、鍵がないどころか入り口の扉さえありません。 建物の端から端まで遮るもののない廊下がずうっと続いているのです。

わたしたちは、靴を脱いでその黒光りのする木の床の、別世界に入って行きます。 まさに、「何世代にもわたって足で磨きこまれた。」という感じです。 床だけでなく、人の手の届くところのすべてが、窓から水平に指し込む夕陽を浴びて光っています。 ドアーの取っ手、手摺り、柱...。 どこもかしこもが、まるで名匠による年代物のバイオリンのように艶を放っています。 いったい、いくつの手がこの柱を触っていったのでしょう。 いくつの足がこの入り口を通り過ぎて行ったのでしょう。

わたしたち三人は、並んでいる生徒用の机のところに座ります。 何もせず、ただこの何ともいえない雰囲気を味わいたくて。 でも、どんどん陽が落ちて行くので、わたしたちは急いで校舎の残りを見て回ります。 何もかもが、茶色です。 どこもかしこもが使い込まれて光っています。 わたしたちが校舎を後にし、すでに薄暗くなった村の小道を家へと向かっているとき、沈んで行く夕陽の光をうけた一列の窓が、夜の空を映し出しています。 三人は、それぞれの思いに浸って黙ったままです。

ああ、でもここで、本当のことを言わなくてはなりません。 ここまで、「です」とか「..ています」とか、書いてきましたよね。 この通りだったらどんなにかうれしいことでしょう。 でも、今となってはもう、そうではないのです。 正直にお伝えするなら、「でした」「..ていました」となるのです。 だって去年の話だったからです。 わたしたちが居ない冬の間に、この『夢の不思議の建物』は取り壊され、近代的なコンクリート造りに替えられてしまったからです。

たぶん生徒達は、清潔で明るく、そして暖かい新しい教室に満足している事でしょう。 寒い夜に火事になる心配もなく、保険会社も安心なことでしょう。 父兄の方々も、村の子供達が都会の子供達と同等な施設が使えて満足でしょう。

みんながこんなに満足しているというのに、それなのに、どうしてわたしの目は潤んでしまうのでしょうか。

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