デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1997

この扉ページのレイアウトを少し変えたことに気付かれたでしょうか。インターネットのホームページのアドレス、電子メールのアドレス、郵政省の定めた新しい郵便番号、NTTから割り当てられた新しい電話番号...たくさんのものが変わりました。でも、わたしが引っ越したわけではありません!

例年と同様、暑い夏を過ごした後、この涼しい秋の訪れには本当にほっとします。とりわけ木版画家にとってはありがたいのです。寒い季節がやってくると、摺り師のデービッドは、仕事をしている間に紙がかびてしまうことを、もうそれほど心配しなくてもよくなります。もちろん、彫り師のデービッドは、仕事中ほとんど体を動かすことがないので、暖かくするために彫り台のところでちぢこまっていなくてはなりませんが。しかし、そこまで寒い季節がやってくるのはまだ先です。今の所はどちらのデービッドも、この気持ちのよい秋の日々を楽しんでいます。

この号の話を楽しんでいただけますように。「版画の秋」です!

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

音楽店の倉庫での仕事を始めた日々のことは、ちょっとやそっとでは忘れらません。その広さは2DKのアパートくらいなのですが、いろいろな商品であふれかえっていました。奥の部屋は楽器の入った箱でいっぱいだし、手前の部屋の壁という壁には床から天井まである棚があって、そこは楽譜でいっぱいでした。

時は9月。学校納入業者にとっては一番忙しい時期で、「これこれの楽譜が欲しい」という音楽の先生たちからの注文が押し寄せてきていました。お客の注文の品をすぐさま探し出せる、というのは必須でしたが、夏の間に非常にたくさんの新しい楽譜が届いていたので、ふたりの従業員でそれらすべてを整理するのは不可能でした。床一面、楽譜がごちゃまぜになって積まれており、やっと人が通れるスペースが空いているだけでした。私が社長のビルから与えられた最初の仕事はこれでした。「楽譜が山積みになってるだろ?これを整理してくれ!」「整理した楽譜はどこへ置けばいいのでしょうか?」と尋ねると、「どこか探せ!」と言われました。またある時は、何百という楽器-これだけあれば何十校ものスクールバンドができます-を積んだトレーラ車がドアの外に止まり、「よーし。こいつらを奥の部屋へ運んでくれ」と言われました。「奥の部屋はもういっぱいです。」と言うと、「どこか探せ!」と言われたのでした。

実の所、この仕事は私にぴったりでした。私は物をきちんと整理するのが好きで、パズルも好きです。ですから、こういうごちゃごちゃしたものをきちんと片付けることは、みんなはいやがっていたのですが、私にとってはちっともいやな仕事ではありませんでした。

初仕事の日の出来事で、私の心に今も残っていることがひとつあります。ビルもまだ覚えているかもしれません...楽譜の整理は私の仕事のひとつだったので、私はマーチをアルファベット順に整理して棚に並べておきました。その日の午後、あるマーチを探している先生から電話が入りました。その電話をとったのはビルでしたが、私は彼が注文を書きとめながら言っていたことをたまたま耳にしました。彼が顔をあげた時には、私は棚に行きもしないで、「2冊あります。ひとつはX出版社のもので、もうひとつはY出版社のものです。」と言ったのです。実際この通りでした。ビルが、私を雇うのは考え直そうかな、と思わなくなったのは、この時だったのではないかと思います...

翌年かその次の年あたりは、もう天国でした。単純な倉庫の仕事ばかりではありません。忙しい秋が過ぎると、私はいろいろおもしろいことをやっていました。新しく発行されたたくさんの楽譜の中から良い物を選んで、アドバイスを求めている先生たちに推薦する、フルートの指導をしたりバンドの客員指揮者として学校を訪問する、いろいろなところへ旅行して音楽産業の会議やイベントに参加する...など。仕事を始めた頃、私は大変内気で引っ込み思案の「子供」でした。しかし、責任ある地位を与えられ、人と会わなければならない状況に追いやられると、殻にとじこもっているわけにはいかなくなりました。

そしてもちろん、美しい生き生きとした若い女性と暮らすという経験も効果がありました!当時のイギリス人はあまりお風呂に入りませんでした。私が子供の頃、お風呂は1週間に1度入る、というのが普通でした。私がひとりでロンドン暮らしをしていた時には、公共の入浴施設へ行ったのは1年のうちせいぜい3,4回でした。でも彼女はそんなことは許しませんでした!彼女はまた、私が長年行っていなかった歯医者へ行くようにしむけましたし、とにかく、私が「人前に出られる」ような人間にしてくれました。この数年で私はずいぶん「大人」になりました...

そんなある日、父が倉庫に立ち寄り、悪い知らせをもってきました。地方の交饗楽団のフルート奏者のひとりが急死した、というのです。その人は私の大学時代フルートの先生でした。彼の死はもちろん悲しいことでしたが、別の考えも心にうかびました。空席をうめるためのオーデイションがあるはずです。これは私がずっと待っていたチャンスでした。私は(町の他のフルート奏者みんなと同様に)、彼の席に自分がすわれるように、と行動を起こしました。私はビルに自分のしていることを隠さずに話し、彼は「頑張れよ」と言ってくれました。楽器店の店員というありふれた生活と、オーケストラというロマンスとの二者択一の状況になったなら、もう比べるまでもない、ということを彼はわかっていたのです。私はやってみなくてはなりませんでした...

次回に続く...

横田清子様

五日市街道に沿って車を走らせると、両側に並ぶ太い欅が昔の街道を思わせる。小金井橋を過ぎて間もなくの静かな武蔵野の一角に、横田さんのお宅があった。

こじんまりとしたアトリエに通されると、何ともぬくもりを感じたのは、部屋の中が、心を込めて作られたたくさんの作品で飾られていたためなのだろう。ひと針ひと針、気の遠くなるような作業の結晶である。

そんな作品の中で、花をモチーフにしたフランス刺繍に混じり、毛筆の流れるような草書体の文字がひときわ目についた。実際、私もデイヴィッドも、てっきり墨で書かれているのだと思ったほど、それは精巧に仕上げられた刺繍であった。目を近付けて細部を覗き込んで見ると、なんと書き順まで正確にたどられている。そう、筆の重なりもきちんと計算されて刺されているのだ。お聞きしてみると、日本語の文字をフランス刺繍に仕上げるというのはユニークな試みであるため、横田さんはそれこそ試行錯誤を繰り返しながら制作していらっしゃるとのこと。刺繍糸の束を御存じの方なら、その一本取りというのがどれほど細いものか、おわかりになることと思うが、よりリアルに仕上げるためにはできることならその一本よりも細い糸が欲しいというのであるから、その打ち込みようは並大抵のものではないことがわかると思う。話を聞きながら、デイヴィッドの彫りへのこだわりに、非常に共通したものを感じたのだが、それにしても、この草書体を刺繍するという発想はいつ、どこから出てきたものなのだろうか。

話は遡って、横田さんが女学校時代のことになった。ヘルマン・ヘッセといえば、青春時代に彼の作品に心引かれた人が結構いることと思う。横田さんもそんな一人で、彼女がヘッセの作品のなかでとても気に入った詩があり、いつかその詩を刺繍に仕上げてみたいと、乙女心に描いていたとのこと。女学生時代から、当時でいえばかなりハイカラなフランス刺繍を楽しんでいた横田さんならではの発想だと思う。

念願かなって、習字の先生に下地となる詩を筆で書いて頂き、こつこつ仕上げたわけだが、それで終わらないところが彼女の凄いところなのだと思う。もっときれいに仕上げたいという要求が高まり、文字を刺す面白味を深めてきているとのこと。ここが一つの事をとことん究める人とそうでない人との差なのだとつくづく思い至った。

話しの合間に、扉にまではめ込まれている美しい刺繍に見入っていると、横田さんはやや小ぶりの物入れのその扉をそっと開いて下さった。中には、デイヴィッドの作品がブルーの帙(ちつ)に入ったままきちんと収まっている。仕切られた棚には、デイヴィッドに関係した切り抜きからニュースレターまで、きちんと箱に入って整理されていた。一事が万事とは良く言ったもので、彼女の几帳面さがこんなところにも表われているのだった。

今こうしていても、アトリエで、時には生徒さん達と、そして時には一人で、穏やかに針を運ぶ横田さんの様子が目に浮かんでくる。

横田さん、これからも良い作品を見せていただくことをとても楽しみにしています。くれぐれもお体を大切に。

私の道具

つい先日のこと、何気なく今までの「百人一緒」に目を通していてある写真を見たとき、思わず唸ってしまいました。バレン職人、五所さんの話の中にあったもので、よりによって私のバレンを握っている、その手を大写しにしたものだったのです。1991年ですから、恐らく撮ったのは6年以上は前になるはずで、今にして思えば、当時五所さんがこれを見たときはさぞかし渋い顔をされたことでしょう。バレンそれ自体はとても良い出来なのですが、竹の皮の包み方がへたなんです(もちろん包んだのは私)。五所さんは、これを見た人達が、「この程度の腕前か」と思うんじゃないかと、さぞ心配なさったことでしょう。

職人の技量をはかるのには、2通りあります。手っ取り早いのは、当然のことながら出来上がった物を見る方法です。直接見れば、どの程度の腕前かはすぐわかります。ふたつめの方法は、的をちょっとずらして見るやり方ですが、かなり信憑性があります。つまり、使っている道具を見るだけで、どんな職人か、また仕上がりがどんなものか、推し量れるのです。経験を積んだ職人がこの写真を見れば、わたしの版画がどんなかすぐにわかってしまうのです。芯を包む竹の皮は強く張ってないから、摺り上がった色味は浅いだろうとか、芯の周りのひだは均一でないし、また幅広だから、バレンの使い方だってそんなものだろうと。つまり力が一定せず不均衡な動きになっているだろうと。こういった的を射た結論に達するのに実際の版画を見る必要はなく、写真を見れば一目瞭然という訳です。

年季の入った職人さんを訪ねると道具に神経質な人が結構いるのは、きっとこういった理由からなのでしょう。彼等は、他の職人さんに道具をいじり回されたりするのは当然のこと、真近で見られるのも良く思わないのです。日本に来て間もない頃は、こういった職人さん達の気持ちがわからず、そんな失敗をいくつかしました。なにげなく彫刻刀を手に取って調べたり、刃先の鋭さについてうんぬん言ったりしたのです。私としては極く自然に、率直に振る舞ったつもりだったんですが、今振り返ってみるとみなさん腹立たしさを抑えていたんですねえ。刃先が鋭いなんて言うまでもないことであって、そんなことを言うこと自体失礼なことだったのです。

では、わたし自身どうかと言えば、年を経るに従いこだわるようにはなってきています。といっても、年季の入った職人さん達程ではなく、もっと単純で、私の道具を見たければ見てかまいません。まだまだ上達の余地があると思っていますから、何といわれようとあまり気にしません。とは言うものの、自分の道具へのこだわりは、やはりあります。自分と同じ、あるいはもっと若い職人が私の彫刻刀をつまんで刃先を調べ始めたら、やはり気になるでしょう。

仕事場にやって来る人達の道具に対する態度は、職人以外の人達の場合、とても丁寧な人から無造作な人まで実に様々です。それで、版画を見に来た人が、彫刻刀やのみを触ろうとした時には、「刃がとても鋭いから、怪我をしないように...」とだけ注意します。自分にも好奇心のあまり、同じ様な事をした経験があるので。でも、写真家やテレビのカメラマンが良い写真を撮りたい事ばかり考えて、作業台の上の道具の配置を変えようとし、鋼の部分をぶつけたりすると、つい「刃がとても鋭いから、壊さないように...」と言ってしまうのです。ま、こんなことはまれで、たいていの人は丁寧に扱ってくれますが。

あんな写真を載せて、五所さんご免なさい。そしてみなさん、この難しい仕事を五所さんほど巧みにやってのける人は、まずいないんですよ。彼の手にかかれば竹の皮もぴしゃりときまって、こうなるんです。


バレン内輪話

バレンの包み皮は、摺っているうちにどんどん擦り切れてくるので、しょっちゅう変えることになります。熟練した摺り師なら、摺り台から離れる事もなくさっと取り替えてしまうのでしょうが、そこまでいかない者にとってはひと仕事なのです。繊細で込み入った作業でして、竹の包み皮がきっちり芯を締め付けていないと、バレンはとても使いにくくなるのです。最初の写真を撮った頃は、ほとほとこの作業にはてこずっていて、写真に撮ったのは中でも出来のいい方だったんです。

摺りを専門にやっている人の場合、包み皮の取り替えはほとんど毎日の作業なので上達するのも早いのですが、私の場合は月に一度のペースで摺りに入るためどうしても間隔が開いてしまい、ちっとも上達しなかったのです。うまくいかないと尚のこと、取り替えは延ばし延ばしにするものですから、包み皮は擦り切れ、どうにも使い物にならないところまでいってしまうのです。そこで渋々取り替えに掛かるわけで、何枚かの皮を駄目にしてやっとどうにか使い物になる程度に包み終えたものです。まさに恐怖の作業でした。

こうして何年か四苦八苦した後、どうにかしないことには現状から抜けられないとつくづく思ったのです。そこでです、包み替えをするときには、ある状況を思い描くことにしました。つまり、部屋の中で熟練した摺り師達が自分の作業をじいっと見つめていると思うわけです。心を落ち着け、冷静にやります。周りで見ている摺り師達がいつもするように、自信をもって、落ち着いて滑らかな手つきでやってみたのです。こんな事を考えたのは二年ほど前の事ですが、とてもいいやり方で、以来少しずつ上達して来ています。今では、皮を取り替える時が来ても憂鬱ではなくなりました。こうして、とても五所さんの様にはいきませんが、確実に上達してきてますから、作業台の上にあるバレンを見られても、もう恥ずかしくありません。

そして 恐らく、恐らくですが、近頃私の作品に色合いの深みが出てきているのは、この事と関係があるのかも知れません。恐らくですがね。

新しいホームページ

先号でお話したように、このところ、インターネット上に私の作品を展示できるように準備をすすめていましたが、それがようやくできるようになりました。インターネットにアクセスできる方は、次のアドレスで私のホームページを御覧になれます: http://www.asahi-net.or.jp/~xs3d-bull

何が見られるんでしょうか?いろいろです!ホームページには、6つの主な項目があります。(このニュースレターと同様、ほとんどが2か国語になっています。)

はじめに:私の版画製作活動の概要を紹介しています。新聞記事のいくつかも載せてあります。

百人一首版画シリーズ: このシリーズのすべての版画が、エッセイとともに載っています。もちろん、コンピューターの画面上では版画の細部の美しさはわかりませんが、少なくとも春章の絵はこんな感じなのだ、ということはわかります。それぞれが10枚ずつ(小さいサイズで)セットになったページもあります。

「百人一緒」ニュースレター:ここには、このニュースレターのバックナンバーがすべてそろっています。紙のニュースレターと何か違うところがあるでしょうか?少しあります。コンピューターのニュースレターの写真はカラーです。また、記事が探しやすいように目次がついていて、「続く...」と書かれた記事は、すぐに次の号が読めるようにもなっています。

木版画の美しさ:ここには、私が木版画のどんなところに惹かれるのか、ということをみなさんと話し合いたいと思って書いた、短い一篇があります。自分の仕事部屋でそれを話すのは簡単です。そこでは、電気を消して、版画の見方を直接話すことができます...しかし、コンピューターの画面上でこれをやるのはなかなかむずかしいです...

木版画の技巧(英語のみ): このコーナーは、そのうち充実させていきたい、と思っているところです。百人一首版画シリーズをやりながらこちらも完成させる、というのは不可能です。しかし、将来、締め切りに追われることがなくなったならば、このコーナーを、「木版画製作の実際の過程を学びたい」と思っている人々に情報を提供する場となるようにしたいと思っています。それまでは、数年前に英字新聞に書いた「版画はどういうふうに作られるのか」の概要を、いくつか載せておきます。(日本には版画製作についての役にたつ本がたくさんあるので、ここは英語だけです...)

エッセイ(英語のみ): ここは、ホームページの中で、私が好きなコーナーのひとつです。ここには新聞や雑誌に書いたような短いエッセイが載せてあります。その数は200ほどで、活字になったものもありますし、そうでないものもあります。私がこのニュースレターで書いてきた事柄を楽しんでくださっていたなら、ここのエッセイの中にも何かおもしろいものが見つかるかもしれません...

これらの主な項目に加えて、イベントのお知らせや、ホームページの更新情報、そしてもちろん、関連した別のホームページのいくつかにもリンクしています。

ホームページを作る、というのは私には大変いい勉強になりましたし、またとても楽しいことでした。インターネットは電話線でつながっているので、私はアメリカやカナダ、イギリス、スウーデンの人たちから電子メールをもらいました。これらの人達はみんな、もしインターネットがなかったなら、私の作品を見る機会はなかったでしょう。

今年のニュースレターの秋号は遅れることになるかもしれない、と言っていたのですが、それほどでもなかったようです。ええ、娘達がここに来ていた間、私は彼女達といっぱい遊びました。でも、彼女達が友達のところへ行っている間に、私が自分の仕事をする時間も十分あったのです。

とても楽しい夏でした。私たちの間には暗黙の了解がありました。一緒にいられる時間はごく限られているのだから、つまらない喧嘩や意見の食い違いで時間を無駄にしないようにしよう、と。どんなことをしたのかって?一緒に泳ぎに行ったり、アイススケートに行ったり、買い物に行ったり、キャンプに行ったりもしました。家の中では、いろいろなパズルやゲームをしました。悔しさと誇らしさの混じった不思議な気持ちを初めて経験しました...むずかしいゲームで自分の子供に負けた時に。そして座ってゆっくり話をする時間もたくさんありました...

彼女達は、新しい音楽のCDをいくつか持ってきていました。そして私も、ふたりが好きになりそうな音楽をいくつか紹介してやることができました。(ふたりが帰った後、私のCDの棚にはいくつかすき間ができました。彼女らがどんなにそれらを気にいったかがわかりますね!)そして、一緒にマッキントッシュのコンピューターを使って過ごした時間もたくさんありました。ふたりともインターネットについてたくさんのことを学び、私がほんの少し手助けをしただけで、写真や文書の入った自分達のホームページを作り上げました。

彼女達もコンピューターが使えるようになったので、私たちのこれからのコミューニケーションはもっと楽になりそうです。私はしょっちゅう彼女らに電子メール(写真と音声付きで)を送っていますし、彼女達のほうは私ほど頻繁には返事をくれませんけれども、あちらで元気でやっているんだな、ということはわかります。

そして、私は、来年の夏を指折り数えて待っています