デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 1996

いつものように、この最初のページは「百人一緒」の一番最後に書いています。ほかの部分はすべて書き上げました。今回も「版画以外の話」のほうに随分とスペースをさいてしまいます。もっとページを増やして、4枚構成で16ページという作りに変えたほうがいいのでしょうか? そうすれば版画についての話をもっと書けます。いえいえ、もしそうすると、とても時間内に版画が仕上がりませんし、版画を作らなければこの「百人一緒」の意味がありません!

私は作家ではなくて版画家だ、ということを思い出さなければなりません。でも長い時間、仕事台に向かっての1日の作業が終わると、ここに座ってキーボードに向かうのが楽しみなことがあります。私の身の回りのさまざまな事柄を皆さんとおしゃべりするのです。でも内容のどれもが皆さんにとって面白いかどうかはわかりません。この小冊子が実際に読まれているのか、あるいは捨てられてしまうのかもわかりません。でも、私にとっては楽しいことですし、これからも書き続けるだろうと思います...

少なくとも何人かの方にとっては、読んでみる価値があると嬉しいです。ともかくも、どうかこの号の文章を楽しんでください。次号ではまた、もう少し版画「路線」に戻ろうと思います。

ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

大学を中途で終えてしまい、私の自由気ままな日々もそれとともに終わってしまいました。そして、更に悪いことには、私はプロのフルート奏者になるために通るべき道をはずれてしまったわけです。私の心の中では、計画は非常に明快でした。「大学へ行って、その後、どこかのオーケストラのオーデションを受ける。」... 何の問題もありませんでした。でも、今は...?

私は、次に何をすればいいのかわかりませんでした。もし、私が優秀な学生であったなら、両親は私の援助を続けるためにできることは何でもしてくれたでしょう。しかし、脱落してしまったとなっては、話は違います。こういう問題に関して両親の考え方ははっきりしていました。「大人」になった子は、生活費を稼ぐか、さもなくば家を出なくてはいけない。...まずやらなくてはならないのは、何か仕事を見つけることでした。

仕事は簡単に見つかりました。でも、この仕事についてお話するのは、ちょっと恥ずかしい感じがします... 私は、短期の夜間学校でギターを教えることになったのです。フルートじゃなくて? そう、ギターなんです。私はギターが弾けたんでしょうか? いいえ、全然。でも、初心者の生徒たちより少しばかりうまく弾けるようにすることはできるはずだ、と思ったのです。で、実際、そうでした。私より少しばかりうまい学校の友達の助けを借りながら、私はそのレッスンをうまくやりこなしました。それで、私は続けて採用されることになり、その土地を離れるまでの数年間、週に何日か、ギターでフォークソングを演奏する仕方を教えていました...

音楽を「演奏する」ことではなくて、「教える」ことが、しばらくの間、私の活動の中心となりました。この数年前、父は、町に小さな楽器店を開きました。(サックスを演奏する父の仕事は、ほとんど夜だったので、彼は、日中はたいてい時間があったのです...) そこで、私は、父の仕事を手伝うようになりました。店番をしたり、店でもギターを教えたり、時にはフルートを教えたりもしました。

こうしてギターに関わったために、私は楽器に対して、今まで以上に興味をもつようになりました。そして、ある時、ひとつ作ってみよう、と決心しました。基本的な製作方法が書いてある本を見つけ、店の2階の使っていない部屋を作業場としました。まず、必要となる特別の道具や型を作り、それから、いよいよ楽器そのものを作り始めました。階下の店でレッスンする仕事の合間を縫ってこれを仕上げるには、2、3か月かかりました。でも、ついに完成したのです、素晴しい出来でした! 少なくとも私はそう思いました。実際にはたくさん問題がありました。重すぎるし、共鳴板は柔らかすぎるし、ニスは濁っているし、その上、フレットを完全には正確に配置できなかったので、やや音がはずれていました。でも、そんなことは些細なことです...素晴しいギターでした! そして、次にお話することも少し恥ずかしいのですが...私は近くの印刷屋さんへ行って、ギターの内側に貼る特製のラベルを作ってもらいました。「弦楽器製作者デービッド・ブルによるハンドメードギター」... 確か、そんなことが書いてあったと思います。それからその宣伝をして... いくつかの注文をとりつけました。

私は、その当時作った楽器のひとつひとつのかなり細かい部分まで思い出すことができます。いくつかは、その土地のギター愛好家のもとにいきました。彼らはハンドメードの楽器を安く手に入れることができたのです。プロの演奏家から注文を受けたこともありました。10年後に再会した時、彼はまだそれを使っていました。これらの私の「子供達」は今、どうしているのでしょう... まだ音楽を奏でているでしょうか、それともゴミ山に捨てられてしまったでしょうか...

ひどいことをしていたもんだなあ、と思われますか? ギターが弾けもしないのにギターの先生になったり... たったひとつギターを作っただけで、「弦楽器製作者」になってしまったり... 私が未熟だったからこんなことをしてしまったのでしょうか? この質問には答えないほうがよさそうですね...

次回へ続く...

東洋文庫を訪ねて...

その昔、私がほんの子供だった頃、将来はジェットパイロットになろうと思っていました。いつかこの考えは消え去り(たぶん、メガネを着用しなければならなくなったからでしょう)私は次なる夢に移りました。おそらく、ほとんどの子供がそうであるように、その当時は、今思い出せるよりもずっとたくさんの夢があったのでしょう。でも、一つのことが思い浮かびます。7年生のとき(中学1年)、私は図書館の司書になりたいと思っていたのです。放課後、学校に残って司書の雑用を手伝ったことを思い出します。新しい本のための分類カードを作って、ラベルを貼り、書架にきちんと並べました。魅力的だったのは、司書という仕事よりもむしろ、図書館の中で働くということだったのです。たくさんの本が、何列も何列も並んでいる光景... 時がたち、最初の「本当の」仕事、楽器店で職についたとき、この夢の一部は実現しました。私のおもな仕事は、ごみごみした倉庫に雑然と積まれた、山のような音楽の本を整理し、それを管理することだったのです。私にとっては、完璧な仕事でしたし、うまくやってのけたと思います(その結果として、すぐに上級職に昇進しましたから。でもその結果が自分にとってよかったかどうかは疑わしいのですが)。

ですから今回のこのお話のための取材をすることは、ことのほか興味深かったのです。5月のある日、貞子さんと私は東洋文庫を訪れました。ここは東京の文京区にある研究図書館で、私が復刻している春章の「百人一首」のオリジナルを保管しています。小山勲(いさお)さんは私たちを歓迎してくれました。私の版画の仕事の仲介をしてくださっているのが小山さんですし、今回は、わざわざ時間をとって、この興味深い場所を案内してくださいました。

「普通の」図書館と違って、ここでは本を目にすることはありません。足を踏み入れても大きくてほとんど何もない閲覧室には、古くて、かなり質素な椅子とテーブルが置かれているだけです。ここを訪れる人はほとんどが学者や研究者で、図書館のスタッフに自分の見たいものをリクエストします。すると建物の奥深くにしまわれている書物がこの部屋に運ばれます。数年前の「百人一緒」に書きましたが、初めてこの東洋文庫を訪れたときには、コレクションを見せてもらえるとは思っていませんでした。私は「公式の」研究者ではありませんし、コネも紹介者もありません。ジーンズをはいたむさくるしいヒゲの外国人でした。しかしその日、なぜか小山さんは私を信用することに決めて、ゆっくりと読んでもよい、と春章の本を持ってきてくれました。今でも覚えていますが、私が古いテーブルの前に座り、本を開いたときの小山さんの顔には不安な表情が浮かんでいました。こう思ったのに違いありません... 「彼はこんなに古い本の扱い方を知っているんだろうか? ページを汚しはしないだろうか? 破かないだろうか? 私の判断は、...」

今回の訪間では、小山さんはそのことで大笑いしました。そうです、私に本を渡したときはあまり落ちついた気分ではなかった、と認めました。小山さんのような立場の人にとって、これはいつもついてまわる問題なのです。大事な宝物を守ることと、研究のための来館者に提供することのバランスをどうとるかということです。私は版画製作者として本に触れて、柔らかな和紙の感触を指先で感じて、作者たちに近づきたいと思うのですが、収蔵物を最良の状態に保って次世代に手渡すことは小山さんの責任です。ですから、最低限の接触だけが許可されることになります。

「彼の」コレクションは莫大な量にのぼります。現在は80万点以上の品々が、この建物に保管されています。私が興味を持っている江戸時代の本のみならず、韓国や中国を含めたあらゆるアジアの国々からのものがあります。東洋文庫はおよそ70年前に、三菱グループの創立メンバーの一人、岩崎久弥氏の手で設立されました。彼はさまざまな個人の収集品を買い上げ、アジアに関する多量の品々をコレクションし、研究者が利用できるように財団を設立しました。昭和23年以来、コレクションは国会図書館の収蔵品の一部になっています。

可能なことかどうか、私はあえて尋ねませんでしたが、私たちが訪問したときに、小山さんは私たちに蔵書をひと目見ますかと申し出てくださいました。重いドアを通り抜けて倉庫に入ったとき、そこは私が想像していたところとは全然違っていました。私が想像していたのは、奥深く暗い鉱山のような場所に、ほこりっぽい学術書がはるか遠くまで並んでいる... 神田の古書店のようで、それを1000倍もの規模にしたような...。頭上にランタンをかかげて、ときおり後ろを振り返りながら迷子にならないようにしなくてはならないかな?

もちろん、こんなふうではありませんでした。信じられないほど清潔でした。床はつるつるに磨きあげられ、本はまっすぐに、書棚にきちんと並んでいます。陰になっている部分がありますが、そうです、これは照明を暗くして、本が傷まないようにしてあるからです。でも陰気な感じはしません。小山さんに運れられて歩いていると、私が自分のささやかな本棚を知っているのと同じにように、小山さんははるかに続く蔵書について熟知していることが明らかでした。あちらこちらで立ち止まっては、特に面白そうな品々を指し示してくれます。チベットの修道院で使われていた古代の祈願用の道具。アジアについて書かれた莫大な量の西洋の書物。目を見張るような奈良時代の手描きの絵本。事実上、「死滅した」モンゴル語で書かれた本の完璧なセクション。これは、世の中に保存されている最後のものとなるかもしれません。もちろん小山さんは、ふたつの特別な場所でも立ち止まりました。ご自身で研究している東洋建築に関係した品の前と、最後に立ち寄った階のひときわ離れたコーナーにある、一番下の棚のはずれの角に。そこには、なじみのある紺のケースが並んでいました。だいぶ部数が増えてきた私の「百人一首」の版画です!

それを見たとき、貞子さんと私は笑いました。この版画は、図書館の信じがたいほどのすぐれたコレクションと比べると、はるかにかけ離れていることを自覚しているからです。閲覧室の研究者がこの版画をリクエストするまでには、まだまだ何十年も何世紀もかかるでしょう。「うーむ、面白い... 平成時代に作られたのか。ここには何と書かれているのかな? 『彫・摺 David Bull』。誰だこれは?」 彼らが、私のしたことを、あるいは何故作ったのかを理解するかどうかはわかりません。でも少なくとも私の仕事を見る機会はあるはずです。この素晴らしい組織、東洋文庫のおかげで、未来の人間が、いつでも過去とつながりをもてるのです。小山さんとご同寮は、このように重要な歴史遺産を管理し、最良の状態で保護することに誇りをもっていらしゃいます。

駆け足での見学が終わり、またいつもの世界に戻りました。重たいドアが閉じられ、果てしない宝の書棚が消えていきます。小山さんはご自分の仕事に戻り、私たちは明るい日差しの下に踏み出し、帰路につきました。しかし、建物からの道すがら、新たな誇らしい気持ちになりました。私の版画は、これらの宝のコレクションの一部になっているのです。棚の一番下に収められていても少しもかまいません。人類が獲得した素晴らしいコレクションの一部である限りは...

「すみませんが、今から5百年後の2496年になったら、いつか東洋文庫を訪れてみませんか。閲覧を記入して、古ぼけたテーブルの前に座り(きっと今とそう違わないでしょう)私の版画を見て下さい。気に入ったら、製作者の私にだけではなく、小山さんとご同寮にもありがとう、とお願いします。この人たちのおかげで、過去に戻り宝物に触れられるからです。

幕間

この間、私は「百人一緒」の読者の方から手紙をもらいました。そこには、「送ってくださってありがとう」ということと、他にもいくつか嬉しいコメントが書かれていたのですが、その中に、「自分の感情をつつみ隠さず話される、あなたのあけっぴろげなやり方に感銘を受けました...」という文がありました。これを読んで、私は少し驚きました。そんなことをしているつもりはなかったからです。こうした文章を書くために机に向かう時は、ふたつのうちのどちらかの状態になります。書くことを何も思いつかなくて、「後にしよう」とかたずけてしまうか、言葉が自然にどんどんあふれてくるか、です。「よし、このことについてはこういう雰囲気で書いてみよう」などとは決して考えません。もし、これらの文章が非常に個人的なものであるとすれば、それは私の世界がとても狭いもので、いつもたいてい自分のことしか話していないからだと思います... 私は明らかにプロの作家ではありません。でも今日は、とりわけ個人的な事柄について書こうとしてここに座っています。そして、これは書くのが難しい話になりそうです...

私の当時の妻がカナダの大学で勉強するために家を離れることをお話したのは、5年前、1991年の秋でした。それは私たち家族にとって非常に大きな変化でしたが、公にあれこれお話するのはふさわしくないことだと思われたので、私は長い話は書かずに、何が起こったのかという事実だけを、短い文でお話しました。それだけで、みなさんは十分私たちの状況をわかってくださるだろうと思いました...

何年かが過ぎ、93年の秋、また「家族」の物語がこの「百人一緒」に登場しました。私たちが離婚した、という話でした。彼女はカナダに永住し、私はここ羽村にふたりの娘と共に住み続けるつもりでした。この時も、私はあまり多くを書き過ぎないようにしました。これが大変個人的につらいことであったからだけではなくて、何が起こったのかについて、私自身の気持ちもとても混乱していたからです。当然、気持ちが落ち着くには、非常に長い時間がかかりました。このひどい時期に私を支えてくれたものがふたつありました。版画の仕事と私の子供達です。月毎に新しい版画を仕上げなくてはいけない締め切りがあるというのは本当に救いでした。どれほど気持が動揺していようとも、どれほど多くの涙が絵の具と混じろうとも、私は版画の仕事をおしまいにしてしまうことはできませんでした。でも、最も大きな支えは日実と富実の存在でした。彼女達から休みなくあふれだすエネルギーと笑いが、問題を忘れさせてくれました。私にはまだ家族がいたのです。それだけはこわれていませんでした。私たちは、ともに元気で...幸せでした... ここ数年の間には、うまくいかない時期もありましたが、たいていはとても楽しくやってきました。それは、この「百人一緒」に時折載せた彼女達の写真を見てもおわかりいただけると思います。

そして、更に3年が過ぎ、またみなさんにお話しなくてはならない個人的な出来事が起こりました... ここでも、できるだけ簡単に話したいと思います。日実と富実は4月の初めに、日本を離れました。彼女達は今、バンクーバーで母親とその友人と一緒に暮らしています。

何年もの間、彼女達の母親はこうしてほしいと言ってきていましたが、それを拒否するのはたやすいことでした。たやすくなかったのは、「自分達も行きたい」という子供達自身の要求を拒否し続けることでした。昨年の夏、彼女達は夏休みをカナダで過ごし、それ以来、「また行きたい...遊びにいくだけじゃなくて、そこに住みたい」と強く思うようになったのです。これにどう対処したらいいか、ということについて、私のなかにはふたりの自分がいました。ひとりの私は、彼女達にこう言いたい、と思っていました。「黙りなさい。おまえたちはまだ子供だ。おまえたちにとって何が一番いいかは私が知っている。カナダには行かせない。」 しかし、もうひとりの私は「自分は彼女達から、彼女達の生活の中心にいるべきもうひとりの人物...彼女達の母親...と正常な関係をもつ機会をずっと奪ってきているのではないか」と心配し、そしてその心配は日増しに強くなってきました。更にもうひとつの心配事は、彼女達がここで直面していた教育環境の問題でした。地域の小学校という安全な港を離れ、中学、高校へと進んでいく時期にきていました... そしてもちろん、私自身が、休息やプライバシーやしばしの平安を必要としていなかったと言ったらうそになってしまいます...

それで、よくよく考え、彼女らの母親から「ちゃんとした家に住み、自分の都合より子供達の必要を第一に考える」という約束をとりつけたうえで、私はついに彼女達の要求に応じました。3月に学校を終えると、子供達は行ってしまいました(猫も一緒に)。空港での別れは、私の人生のなかでまさしく最悪の経験でした。でも、時間が経つにつれ、心の痛みは薄らいできています。ここ数年、いろいろなことがありましたから、これ以上悪くなることはもうないのではないかと思います。

この話に対して、みなさんがどういう反応を示されるかを想像するのはむずかしいことです。どうか、「何もかも悪い結果になって悲しい話だ」などと思わないでください。日実と富実は、健康で、順応性があり、明るい子です。彼女達と電話で話し、生き生きした声を聞く度に、彼女らは、強く、しっかりした大人になっていくだろうと感じます。子供達が成長するための環境として、バンクーバーほど良いところは、この地球上にそう多くはないと思います。彼女達がいなくなったさびしさは、とても言葉では言い表せませんが、でも、彼女達は大丈夫だろうと思います...

私はどうかというと...もうみなさん、私が何を言おうとしているかおわかりですね。私は、私の人生のなかにもう長いこと確固たる位置を占めてきたものを手放しはしません...版画の仕事です。ここ数ヵ月、子供達がカナダへ行くための荷作りや手続きなどで予定が少し遅れてしまいましたが、だんだんといつものペースにもどりつつあります。そして、私は、長い間求めていた平安と静けさをいくらか見出しはじめています。彫り、彫り、そしてまた彫る毎日。時にはレコードや本で息抜きをしたり、また時には、しばらく前にプールで知り合った女性と川辺へピクニックに行ったり... 彼女は、本当に素晴しい支えとなってくれています... 私も大丈夫です...

この10年は、結局はどんなふうになるのでしょうか! あと2年と半年。まだこれ以上驚くようなことが待ち受けているのでしょうか?

青い香りの中で...

今日は、特別な日なんです。いつも通り、朝のうちは六畳の仕事部屋に座っていましたが、とても大きな違いがあるんです。今日は、わたしの部屋がどういう訳か空中に浮き上がって、のどかな片田舎のど真ん中に舞い降りたみたいな気分なのです。何か魔法の力が働いて、薄汚れたほこりっぽい東京から、はるか遠くの澄み渡った田舎に運ばれたような気分なのです。刈りたての草の香りで一杯の谷間にです。そうです、今日仕事部屋に新しい畳が入ったのです。

念願の畳替えでした。版画家という仕事は、収入が余り安定していなく、ご存じのように畳はなかなか高いものです。新しい畳を使い始めてから8年も経っていました。8年間... 長いこと待ち望んでいただけに、喜びはひとしおでした。古くなった畳は、随分と擦り切れてきていて、あちこちテープでつぎはぎをしてましたから、お客さんが来たときは恥ずかしく思いました。それなのに、今日はだれも来ない。新しい畳はいい気持ちなのに。でも、きっと明日は来る... そしたら、その人は部屋に入るなり、きっとこう言うんです、『あーいい匂いですな! なんていい匂いなんでしょう。』 お客さんと私は、滑らかでしっかりした感触の青い畳の上で、お茶を飲みおしゃべりをします。そうして、新しくさわやかな畳の上にいると自然と沸き上がってくる郷愁に浸るのです。

家族でカナダにいたころ、日本から畳を一組取り寄せようと思いました。部屋の雰囲気を良くし、座り心地も良くなり、寝具を敷くのに格好だと思ったからです。(私たちは、ベッドを使っていませんでした。) でも残念なことに、厳しい農産物輸入制限のため、取り寄せできなかったのです(いぐさの病虫害のためだと思います)。私は諦めませんでした。そして8年とちょっと前に日本に来たときには、借りることになるアパートに和室があることをしっかり確認しました。それ以来、ほとんどずっと畳の上で暮らしています。仕事はすべて畳の上でしますし、もちろん寝るのもです。おそらく一日20時間くらいは、畳のうえで過ごしていると思います。

そんな訳ですから、今日の畳替えは、待ちに待ったということもありますが、ことのほかうれしいことだったのです。数週間、そして数ヵ月と経つうちに、このさわやかな匂いと青さは薄れて行くでしょう。でも、それが続く限り、私はこの心地良いさわやかな田舎にいるような気分を味わえるのです。もう、今度の畳替えまで8年も待ったりしないつもりです。

今号の「百人一緒」の原稿は、今年2番目の版画が終わって、3番目を始める「合間」に書きました。ここ数年は仕事のやり方が少しづつ変わってきたように思えます。別々の作業を同時に進めるのが難しくなってきました。次の仕事にとりかかる前にひとつを終わらせるようになっています。版画が終わるまでは「百人一緒」の作業にはいりませんでした。「協力者」が、翻訳をするために待っていたとしてもです。今ようやく原稿が終わり、次の版画の彫りに安心してとりかかれます。

カナダの大きな楽器店で仕事していたときのことを思い返すと、あの時と同じデービッドが今の私だということが信じられません。あの頃のデービッドは、毎日、どのくらい色々な事をしていたでしょうか? お客さんと業者に手紙を書き、楽器販売のための入札準備をし、電話の応答をし、従業員の仕事を割り振り、楽団の曲を探している音楽教師を手伝い、見込み客にフルート演奏を実演してみせ、業努用のコンピュータのプログラムを書き、新しい音楽テープを聞きいて、どの曲を仕入れるかを決め... 毎日することが山のようにあり、決して終わることはなく、1日の仕事の終わりになっても、机の上は決して片づきませんでした...

カナダでの友人はきっと今も同じ事を、おそらくはもっとたくさんのことをしているのだろうと思います。でも私にはもう2度とこういった事はできません。楽しいこともたくさんありますし、満足してもいましたが、今はもっとゆったりしたペースで暮らしています。日本は、こういった生活をするのに最高のところではありません。きっと私は、ここでは変わり者でしょう。でも少しも構いません... 一度にひとつのことをやっていきます。

お読みいただき、ありがとうございます。また数ヵ月後にお目にかかりましょう。