デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

前回からの続く...

大学を中途で終えてしまい、私の自由気ままな日々もそれとともに終わってしまいました。そして、更に悪いことには、私はプロのフルート奏者になるために通るべき道をはずれてしまったわけです。私の心の中では、計画は非常に明快でした。「大学へ行って、その後、どこかのオーケストラのオーデションを受ける。」... 何の問題もありませんでした。でも、今は...?

私は、次に何をすればいいのかわかりませんでした。もし、私が優秀な学生であったなら、両親は私の援助を続けるためにできることは何でもしてくれたでしょう。しかし、脱落してしまったとなっては、話は違います。こういう問題に関して両親の考え方ははっきりしていました。「大人」になった子は、生活費を稼ぐか、さもなくば家を出なくてはいけない。...まずやらなくてはならないのは、何か仕事を見つけることでした。

仕事は簡単に見つかりました。でも、この仕事についてお話するのは、ちょっと恥ずかしい感じがします... 私は、短期の夜間学校でギターを教えることになったのです。フルートじゃなくて? そう、ギターなんです。私はギターが弾けたんでしょうか? いいえ、全然。でも、初心者の生徒たちより少しばかりうまく弾けるようにすることはできるはずだ、と思ったのです。で、実際、そうでした。私より少しばかりうまい学校の友達の助けを借りながら、私はそのレッスンをうまくやりこなしました。それで、私は続けて採用されることになり、その土地を離れるまでの数年間、週に何日か、ギターでフォークソングを演奏する仕方を教えていました...

音楽を「演奏する」ことではなくて、「教える」ことが、しばらくの間、私の活動の中心となりました。この数年前、父は、町に小さな楽器店を開きました。(サックスを演奏する父の仕事は、ほとんど夜だったので、彼は、日中はたいてい時間があったのです...) そこで、私は、父の仕事を手伝うようになりました。店番をしたり、店でもギターを教えたり、時にはフルートを教えたりもしました。

こうしてギターに関わったために、私は楽器に対して、今まで以上に興味をもつようになりました。そして、ある時、ひとつ作ってみよう、と決心しました。基本的な製作方法が書いてある本を見つけ、店の2階の使っていない部屋を作業場としました。まず、必要となる特別の道具や型を作り、それから、いよいよ楽器そのものを作り始めました。階下の店でレッスンする仕事の合間を縫ってこれを仕上げるには、2、3か月かかりました。でも、ついに完成したのです、素晴しい出来でした! 少なくとも私はそう思いました。実際にはたくさん問題がありました。重すぎるし、共鳴板は柔らかすぎるし、ニスは濁っているし、その上、フレットを完全には正確に配置できなかったので、やや音がはずれていました。でも、そんなことは些細なことです...素晴しいギターでした! そして、次にお話することも少し恥ずかしいのですが...私は近くの印刷屋さんへ行って、ギターの内側に貼る特製のラベルを作ってもらいました。「弦楽器製作者デービッド・ブルによるハンドメードギター」... 確か、そんなことが書いてあったと思います。それからその宣伝をして... いくつかの注文をとりつけました。

私は、その当時作った楽器のひとつひとつのかなり細かい部分まで思い出すことができます。いくつかは、その土地のギター愛好家のもとにいきました。彼らはハンドメードの楽器を安く手に入れることができたのです。プロの演奏家から注文を受けたこともありました。10年後に再会した時、彼はまだそれを使っていました。これらの私の「子供達」は今、どうしているのでしょう... まだ音楽を奏でているでしょうか、それともゴミ山に捨てられてしまったでしょうか...

ひどいことをしていたもんだなあ、と思われますか? ギターが弾けもしないのにギターの先生になったり... たったひとつギターを作っただけで、「弦楽器製作者」になってしまったり... 私が未熟だったからこんなことをしてしまったのでしょうか? この質問には答えないほうがよさそうですね...

次回へ続く...

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