デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

幕間

この間、私は「百人一緒」の読者の方から手紙をもらいました。そこには、「送ってくださってありがとう」ということと、他にもいくつか嬉しいコメントが書かれていたのですが、その中に、「自分の感情をつつみ隠さず話される、あなたのあけっぴろげなやり方に感銘を受けました...」という文がありました。これを読んで、私は少し驚きました。そんなことをしているつもりはなかったからです。こうした文章を書くために机に向かう時は、ふたつのうちのどちらかの状態になります。書くことを何も思いつかなくて、「後にしよう」とかたずけてしまうか、言葉が自然にどんどんあふれてくるか、です。「よし、このことについてはこういう雰囲気で書いてみよう」などとは決して考えません。もし、これらの文章が非常に個人的なものであるとすれば、それは私の世界がとても狭いもので、いつもたいてい自分のことしか話していないからだと思います... 私は明らかにプロの作家ではありません。でも今日は、とりわけ個人的な事柄について書こうとしてここに座っています。そして、これは書くのが難しい話になりそうです...

私の当時の妻がカナダの大学で勉強するために家を離れることをお話したのは、5年前、1991年の秋でした。それは私たち家族にとって非常に大きな変化でしたが、公にあれこれお話するのはふさわしくないことだと思われたので、私は長い話は書かずに、何が起こったのかという事実だけを、短い文でお話しました。それだけで、みなさんは十分私たちの状況をわかってくださるだろうと思いました...

何年かが過ぎ、93年の秋、また「家族」の物語がこの「百人一緒」に登場しました。私たちが離婚した、という話でした。彼女はカナダに永住し、私はここ羽村にふたりの娘と共に住み続けるつもりでした。この時も、私はあまり多くを書き過ぎないようにしました。これが大変個人的につらいことであったからだけではなくて、何が起こったのかについて、私自身の気持ちもとても混乱していたからです。当然、気持ちが落ち着くには、非常に長い時間がかかりました。このひどい時期に私を支えてくれたものがふたつありました。版画の仕事と私の子供達です。月毎に新しい版画を仕上げなくてはいけない締め切りがあるというのは本当に救いでした。どれほど気持が動揺していようとも、どれほど多くの涙が絵の具と混じろうとも、私は版画の仕事をおしまいにしてしまうことはできませんでした。でも、最も大きな支えは日実と富実の存在でした。彼女達から休みなくあふれだすエネルギーと笑いが、問題を忘れさせてくれました。私にはまだ家族がいたのです。それだけはこわれていませんでした。私たちは、ともに元気で...幸せでした... ここ数年の間には、うまくいかない時期もありましたが、たいていはとても楽しくやってきました。それは、この「百人一緒」に時折載せた彼女達の写真を見てもおわかりいただけると思います。

そして、更に3年が過ぎ、またみなさんにお話しなくてはならない個人的な出来事が起こりました... ここでも、できるだけ簡単に話したいと思います。日実と富実は4月の初めに、日本を離れました。彼女達は今、バンクーバーで母親とその友人と一緒に暮らしています。

何年もの間、彼女達の母親はこうしてほしいと言ってきていましたが、それを拒否するのはたやすいことでした。たやすくなかったのは、「自分達も行きたい」という子供達自身の要求を拒否し続けることでした。昨年の夏、彼女達は夏休みをカナダで過ごし、それ以来、「また行きたい...遊びにいくだけじゃなくて、そこに住みたい」と強く思うようになったのです。これにどう対処したらいいか、ということについて、私のなかにはふたりの自分がいました。ひとりの私は、彼女達にこう言いたい、と思っていました。「黙りなさい。おまえたちはまだ子供だ。おまえたちにとって何が一番いいかは私が知っている。カナダには行かせない。」 しかし、もうひとりの私は「自分は彼女達から、彼女達の生活の中心にいるべきもうひとりの人物...彼女達の母親...と正常な関係をもつ機会をずっと奪ってきているのではないか」と心配し、そしてその心配は日増しに強くなってきました。更にもうひとつの心配事は、彼女達がここで直面していた教育環境の問題でした。地域の小学校という安全な港を離れ、中学、高校へと進んでいく時期にきていました... そしてもちろん、私自身が、休息やプライバシーやしばしの平安を必要としていなかったと言ったらうそになってしまいます...

それで、よくよく考え、彼女らの母親から「ちゃんとした家に住み、自分の都合より子供達の必要を第一に考える」という約束をとりつけたうえで、私はついに彼女達の要求に応じました。3月に学校を終えると、子供達は行ってしまいました(猫も一緒に)。空港での別れは、私の人生のなかでまさしく最悪の経験でした。でも、時間が経つにつれ、心の痛みは薄らいできています。ここ数年、いろいろなことがありましたから、これ以上悪くなることはもうないのではないかと思います。

この話に対して、みなさんがどういう反応を示されるかを想像するのはむずかしいことです。どうか、「何もかも悪い結果になって悲しい話だ」などと思わないでください。日実と富実は、健康で、順応性があり、明るい子です。彼女達と電話で話し、生き生きした声を聞く度に、彼女らは、強く、しっかりした大人になっていくだろうと感じます。子供達が成長するための環境として、バンクーバーほど良いところは、この地球上にそう多くはないと思います。彼女達がいなくなったさびしさは、とても言葉では言い表せませんが、でも、彼女達は大丈夫だろうと思います...

私はどうかというと...もうみなさん、私が何を言おうとしているかおわかりですね。私は、私の人生のなかにもう長いこと確固たる位置を占めてきたものを手放しはしません...版画の仕事です。ここ数ヵ月、子供達がカナダへ行くための荷作りや手続きなどで予定が少し遅れてしまいましたが、だんだんといつものペースにもどりつつあります。そして、私は、長い間求めていた平安と静けさをいくらか見出しはじめています。彫り、彫り、そしてまた彫る毎日。時にはレコードや本で息抜きをしたり、また時には、しばらく前にプールで知り合った女性と川辺へピクニックに行ったり... 彼女は、本当に素晴しい支えとなってくれています... 私も大丈夫です...

この10年は、結局はどんなふうになるのでしょうか! あと2年と半年。まだこれ以上驚くようなことが待ち受けているのでしょうか?

コメントする