デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Summer : 1995

さあ、また「百人一緒」夏の号がやってきました。この文章を書いている間、外はずっと土砂降りでしたが、レイアウトがすみ、印刷して、郵送が終わる頃には真夏になっていることでしょう。

この号は内容が盛りだくさんです。「職人」さんの話がなかった前号とは違い、今回は二人の方!が登場します。(お一人の場合は「収集家の横顔」をよそおっていますが)前回は、彫り師の方と親交を深める時間があまりとれないことに不平を言いました。しかし先日、短時間ですが、一流の彫り師を訪れる機会がありましたので、ご紹介します。

また、別の仕事ですが、私は記事を書くことも始めました。ですから、毎月版画と一緒にお届けしているニュースや、この「百人一緒」だけでは「物足りない」とおっしゃる場合は最後ページを開いて、何があるのか見て下さい。

ハリファックスから羽村へ

(前回からの続き)

高校に入って何カ月かが過ぎ、私は15才になりました。ちょうどその時、私の家族はまたも引っ越しをしました。この引っ越しは、今までと比べるといくつかの点で少し違っていました。私の父は、軍のバンドという安定した仕事をやめました。フリーのミュージシャンとして独り立ちするための、大きな一歩をふみだしたのです。そして私たちも、それまで10年間住んでいた大草原を離れ、西海岸のバンクーバーへと移ったのでした。

最近になって、両親は、「この後の数年間は経済的に大変苦しかった、何しろ新しい土地でやっていけるようになるには時間がかかったから。」という話をしてくれましたが、当時は私はそんなことは何も知りませんでした。食卓にはいつも食べ物がありましたし、足には靴をはいていました。私たち子供は、自分たちが「貧乏」だなんてまるっきり感じていませんでした。でも、両親の髪に白いものが見え始めたのはこのころからだったにちがいないと思います... (両親はその頃40才でした。おもしろいことに、 3年前、版画家としてやっていこうとして私がどん底であがいていたのもちょうど40才の時でした... そしてその頃、私のあごひげもやっぱり白くなり始めたのです...!)

この引っ越しは私の人生に大きな影響を与えることになりました。受講科目を登録しに高校へ行った時、どんなコースを選択するか、ということについてひとりの先生と面談しました。(新学期は数カ月前、既に始まっていたのです。) 大学進学コースに進むために必要な科目を登録しても、ひとつ時間があまりました。先生は書類を見て、私の父がミュージシャンであることに気付きました。「バンドのクラスをとってみたら? 何か楽器はできる?」

できませんでした。私にはその素質も興味もありませんでした。父は確かにミュージシャンでしたが、だからといって、それが私にとって何か意味をもっている、ということはありませんでした。音楽は父が仕事でやっていたことで、家でやっていたわけではありません。実際、我が家にはそれほど音楽があふれてはいませんでした。私は、 7年生の時に学校の小さなバンドでフルートをやってみたことがありますが、すぐにやめてしまいました... そんなにおもしろいとは思わなかったのです。でも私は、それほど自分を強く主張する子供ではなかったので、結局はこの先生の提案に従いました。次の日私は、楽しそうに楽器を吹く仲間に囲まれて、音楽室にいました。フルートを手にして... 「これはどうやって持てばいいんだい?」

時々、私たちの人生の出来事において、適切な時期とか場所というものがあるように思われます。 7年生の時には私のなかには音楽の「お」の字もありませんでした。それがこの10年生の時期には爆発したのです。私はフルートを吹くことに夢中になり、他の何も目に入らないほどでした。他の音楽科の生徒に比べると、私は数年おくれてスタートしました。他の生徒のほとんどは中学時代に楽器を始めていたからです。最初の週、バンドに参加した時、私は楽譜を目で追うこともできませんでした。そのスピードについていけなかったのです。でも数カ月後には他のメンバーにひけをとらないくらいになりました。

その当時、みなさんが私に「大きくなったら何になりたい?」と尋ねたとしたら、私は迷うことなくこう答えたでしょう。「交響楽団の第一フルート奏者になりたい」と。私の人生には他の何物もありませんでした。数学? 国語? 女の子? スポーツ? こうしたことについては何一つ記憶がありません。あったのは銀色の管と、音楽となって流れ出すのを待っている黒い音符だけでした...

そういうわけで、長く退屈なだけになるかと思った高校生活は、生き生きとした楽しいものとなりました。 3年間は、コンサートやコンテスト、パレード、演奏旅行などであっというまにすぎていきました。私にとって未来はもう決まっていました。そして私は進みたい道をまっすぐに見つめることができました... と思っていました。

次回に続く...

円谷岩男ご夫妻

外国に住んでいる人に、日本について何を知っているか尋ねると、様々な答えが返ってくるでしょう。富士山、桜、ソニー、着物などなど。それぞれのリストは異なるでしょう。しかし、ほとんどの人が口にする言葉が一つあります。畳です。西洋人はもちろん、日本の家屋はすべての部屋に、壁から壁まで畳が敷かれていることを「知って」います。雑誌に紹介される日本の家の写真では、すべての床に清潔な黄金色の畳が敷かれています。

去年のことですが、円谷(ツブラヤ)岩男さんが私のお客さんになった時は二重の喜びでした。もちろん、新しいお客さんを迎えた喜びが一つ。さらに、畳について学ぶことができるという喜びです。円谷さんは畳屋さんなのです。新しい畳を新居に準備し、古くなったら取り替えます。

仕事場の上の部屋に座り、円谷さんと奥さんの千江子さんをまじえて話をした時、しばしば感じたのですが、まるで私と同業の職人さんと話しているようでした。たとえば、今回、写真を撮るために円谷さんをお訪ねしたまさに前日のことですが、私は彫り師の伊藤さん(次のページから彼の話が始まります)の家にお邪魔しました。その時のことをメモしたノートは、円谷さんに関して書いたこととよく似た内容でした。厳しい親方について学んだ若かりし頃「何も教えてくれようとはしなかった!」長く厳しい日々。世の中が変わって、需要が減っていったこと、など。畳と版画はまったく別のものですが、職人の世界は変わりません。

仕事や生活のことを話していて驚いたのですが、畳について私が知っていることの多くが思い違いだったのです。畳は、平安時代から日本家屋にはつきものだと思っていました。しかし円谷さんの話では、普通の人々が畳を使うようになったのは、ほんの百年ほど前からだといいます。畳の大きさも基準が決まっている思っていたのですが、必ずしも 1種類ではなく、 4種類あるのですね。一番大きなのが京都サイズで、東北サイズ、関東サイズがあり、団地サイズでは何センチも小さくなります。センチではなく、何「寸」も小さいというべきでしょう。版画の世界では長さの基準は伝統的な「寸」で表されるからです。

円谷さんが、近代工場ではいかに簡単に、そして速やかに畳を作れるかという話しをされた時、私はちょっと悲しくなりました。しかし円谷さんの立場から見ると、機械化によって辛い骨の折れる仕事がなくなったのです。若い頃は、厚く固いワラのマットを手で縫わなくてはなりませんでしたし、 1日 6畳分しか作れませんでした。今は「楽(らく)」に簡単になりリラックスできるといいます。

私の仕事を支えて下さる職人さんのことを語るときはいつも、和紙職人、バレン職人といった人々のことを考えていました。版画仕事の上では必須の人々です。しかし、円谷さんのことを外すわけにはいきません。同じように貢献していただいているのですから。カーペットに座って版画を彫り、摺る? 不可能です! ほんの数カ月前、円谷さんは私の部屋に新しい畳を持ってきてくれました。その後数週間、そこに座り仕事をしている時、新しいイグサの何ともいえない香りをかぎ、私はまるで田舎の谷間にいるような気がしました。やがて香りは薄くなり消えてしまいましたが、そのときの感覚は残っています。柔らかな黄金色の畳に座るすてきな感じ... 日本に座っているという感じです...

円谷さん、私の版画製作へ貢献していただきありがとうございます。私の仕事を支えてくれる人たちのリストにあなたの名前を入れることを、これからは忘れません!

彫り師伊藤進さん

その部屋に足を踏み入れてすぐ目についたのが、彫り台でした。それは、固く重いケヤキでできていてどっしりとしており、何十年にもわたって毎日使われてきたために、すりへって傷がついています。台の表面は、版木の裏側を保護するための布でこすられて、てかてかと光っています。それは庭に面した窓の前におかれており、今日の曇り空からもれてくる光が、台の上にある彫りかけの版木の上にやわらかく落ちて、彫り跡をくっきりと浮かびあがらせていました。

台の上には、その版木のとなりに彫刻刀がのっており、その持ち柄もやはり長年の使用で垢光りしています。彫り師は仕事の手を止めて私たちのほうに向き直り、あいさつをしてくれました。作業台、版木、彫刻刀...それらは、百年以上昔と寸分違わない光景です。私は貞子さんとともに、木版画の名彫り師伊藤進さんを訪ねました。彼は東京の下町、荒川区の狭い裏通りにひっそりと建っている自宅で仕事をしています。今日は彼の仕事の様子を見せていただき、お話しをうかがうために来たのです。

彼はこの家で暮らし、この小さな2畳の部屋で、仕事をしてきました。何十年も... 私が生きてきたよりももっと長い間です。彼は、12才の時に彫刻刀を初めて手にしてから、80年余りの人生のほとんどをこうした彫り台の前に座ってすごしてきました。右手には細い彫刻刀を握りしめてーそれがまるで彼の手の中に埋めこまれているかのようにーそして、彫り、彫り、彫り続けて... どのくらいたくさんの版木がこの台の上に置かれてきたのでしょうか? どのくらいたくさんの版画を彼は作ったのでしょうか? 伊藤さんはそんなことを考えたり答えたりしたことはありませんでした。彼にとってこれは仕事であり、日常のごくありふれたことにすぎないのです。彼は彫り師です...彫ることが彼の仕事なのです...

今日ここへ来るために家を出る前、私は自分のもっている一枚の版画ー有名な歌麿の作品の複製ですーをしばらくの時間じっと見てきました。女性の顔のまわりの、ほとんど見えないくらい繊細な髪の線、布の流れるような曲線、彼女の持っているうちわのなめらかでくっきりとした線... これらの線はすべて、何年か前に伊藤さんがこの台で彫ったものです。それらは、私がとうてい到達することはできないんじゃないかと時々絶望的な気持ちになるほどの技術で、素晴らしい自信にあふれた彫りです。

ここへ来て私は、自分の版画を数枚と版木のひとつを伊藤さんにお見せしたのですが、この部屋でこうして彼の隣に座っていると、突然、私が「悪くないな」と思っていた作品が何か未熟で素人っぽいものに見えてきたのです。彼はそれらを眺めーかなり長い時間でしたーいくつかの思いやりあるコメントをしてくださいました。でも、私は彼が本当はどう思っておられるのかということを考えなくてはなりません。同じ様な道を進もうとしているこの外国人のことをどう思っておられるのかを。

私たちが、話している間、私の仕事のこと言う時は、伊藤さんは何度も「趣味」という言葉を使われました。でも彼は、決して人を見下したような態度でそういう言葉を使われたわけではありません。むしろ、私が彼とちがって、自由な立場で「何を彫るか、どういうふうに摺るか、どこでそれを売るか」などを決められるので、「本当に仕事を楽しんでいるんですね」ということを言おうとされているのです。一方で、伊藤さんのしておられることは「仕事」です。彼はこれらのことを自分で決めることなく、ただ版元がもってくる仕事内容が何であれ、それを受け入れるだけです。彼は広重や北斎の有名な版画と同じものを、何度も何度も彫ってきました。でも彼はこうした繰り返しを不満に思われるないでしょう。彼は彫り師です...彫ることが彼の仕事です... 私だったら、同じ版画を何度も何度も作ることなど考えられません。私は本当の意味では「職人」ではないのです。私はこの仕事で生計をたててはいますが、まだこの点ではいわば「アマチュアー」ーもともとのフランス語の意味は「愛好家」ーなのです。

でも、私はきっと伊藤さんも御自分の仕事を愛しておられると思います。彼はそんなふうには言っておられませんが。会話している間、しばしば彼は、私の質問したことに答える前にずいぶんと考え込んでおられました。というのもそんなことは今まで彼が考えたことのないことだったからです。木版画は彼にとって知的な職業などではなく、単に生活の手段にすぎないのです。彼が食べたり息をしたりするのと同じ様に...彫っているのです。

伊藤さんのお話しでは、彼がこの仕事を始めた頃には、彫り師として生計をたてている人は 250人以上いたが、今ではたったの10人かそこらになっていると思う、とのことでした。この数がもっと減ろうが、あるいは現状維持であろうが、伊藤さんはそんなことは少しも心配しておられないように見えました。このもの静かな、心安らかに生きておられる人は、窓の外の世界のできごとにはあまり関心をもっておられないように思われました。彼の世界は、この小さな部屋の中に、道具のつまった引出しの中に、台の上にある版木の中にこそ、あるのです。私たちがいろいろと「うるさい」質問をして帰った後、彼はきっと 2分もたたないうちに座布団に座り直して、鼻を版木から10cmと離れていないところまで近づけ、固い桜の木を刻む彫刻刀に全神経を集中させていたにちがいない、と私は思います。彼は彫り師です...彫ることが彼の仕事なのです...

私の年齢は伊藤さんの半分にすぎません。そして彫りの経験は彼が仕事をしてきた年月の 4分の 1にも満たないのです。私は時々自分の腕が上達したな、と思うことがありますが、今日のような訪問をすると、自分はまだまだかけだしの初心者なのだと感じずにはいられません。私が自分のことを心から「彫り師」だと呼べるようになるには、まだ長い年月がかかることでしょう。80代になった時、私はまだこうした彫り台の前に座って、彫刻刀を握り、こんなふうになめらかな線を彫っているでしょうか? 私には答えられません。こうした姿を心に描くことは私にはできません。私はまだまだ若造です。でも、これだけは言えますー私の行く手にあるさまざまな未来の可能性の中で、この仕事ほど誰かな手応えを与えてくれそうなものはほとんど考えつかない、と...

伊藤さん、本当に幸せな、生産的な人生を送っておられるのですね。これからの人生がこれまでをふりかえって安らかな満足に満ちたものとなりますように...

黄金時代

しばらく前に、私の母が来日していました。二人の孫に会うためにイギリスからやって来たのです。 1ヶ月ほど滞在し、ほぼ毎日、子供たちが学校に行っている間に、随分遠くまで出歩いていました。

母はもちろん、日本語は少しも話せません。しかし、可能な限りにあらゆるものを目にしたり、人々に出会うのに、このことがさまたげにはなりませんでした。

母にとって、日本とイギリスのコントラストは驚くべきものでした。母の目には、現在の日本は黄金時代を迎えているようにうつりました。私が幼い子どもだった40年前のイギリスと同じように。通りは安全で美しく、誰も仕事に忙しく、人は互いに助け合おうとし、教育水準は高く、公共交通機関は申し分なく、ものごとがうまくいきそうな気配があるのです。母は、イギリスの現状と比較してみましたが、どれ一つとして現在のイギリスにはないと言います。

50年ほどで、この島国に住む人々はとてつもないことを成し遂げました。戦災で瓦礫と化した国から、誰もが、幸福への道を見いだせる自由を与えられるような社会になりました。見返りとして要求されるのは、道は「両方向通行」であり、自由には責任がともなうことを肝に銘じておくことだけです。

世界中のあらゆる国のことを考えましたが、責任と自由のバランスがうまくとれている現在の日本のような国はほかにありません。私から見れば、多くの日本人が、自分たちが作り上げ、そこに暮らしているところこそが「天国」だと気づかないでいることがとても悲しいのです。でも...この環境を私と、そして母と分かち合っていただき、皆さんにお礼を申し上げます。

[百人一緒」の昨年の秋号で、「毎日ウイークリー」新聞にちょっとした原稿を書き、ついで一面に載せるエッセーを頼まれた、と書きました。私自身とても楽しかったのですが、春先に、チャンスが広がりました。もし興味があるならコラムのページに書かないか、という申し入れです。もちろんすぐに承諾しました。

コラムのタイトルは「アート点描」といい、 4月の初めから始まりました。 3週掲載され、 1週はお休みです。この原稿を書くのはとても楽しいのですが、一つだけ大きな問題があります。それぞれの原稿にそえるイラストも描かないといけないのです。私が? 絵を描く? 最初はとても馬鹿げた話だと思いましたが、何とか毎週、絵をひねりだしています。どの絵もボツになったことはありません。いくつかは実際に「子どもっぽい」作品なのですが...

何か、面白くて役に立つようなことを考え出して、文章に合ったイラストを描くために悩むことは、私にとって新しい冒険です。この「百人一緒」と違って、記事は英文だけですが、もし英語でも構わなければ一部手にして、どんな風に感じるか見て下さい。土曜の朝の新聞売場にあります...

でも、私の絵を見ても笑わないと約束して下さい!