デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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ハリファックスから羽村へ

(前回からの続き)

高校に入って何カ月かが過ぎ、私は15才になりました。ちょうどその時、私の家族はまたも引っ越しをしました。この引っ越しは、今までと比べるといくつかの点で少し違っていました。私の父は、軍のバンドという安定した仕事をやめました。フリーのミュージシャンとして独り立ちするための、大きな一歩をふみだしたのです。そして私たちも、それまで10年間住んでいた大草原を離れ、西海岸のバンクーバーへと移ったのでした。

最近になって、両親は、「この後の数年間は経済的に大変苦しかった、何しろ新しい土地でやっていけるようになるには時間がかかったから。」という話をしてくれましたが、当時は私はそんなことは何も知りませんでした。食卓にはいつも食べ物がありましたし、足には靴をはいていました。私たち子供は、自分たちが「貧乏」だなんてまるっきり感じていませんでした。でも、両親の髪に白いものが見え始めたのはこのころからだったにちがいないと思います... (両親はその頃40才でした。おもしろいことに、 3年前、版画家としてやっていこうとして私がどん底であがいていたのもちょうど40才の時でした... そしてその頃、私のあごひげもやっぱり白くなり始めたのです...!)

この引っ越しは私の人生に大きな影響を与えることになりました。受講科目を登録しに高校へ行った時、どんなコースを選択するか、ということについてひとりの先生と面談しました。(新学期は数カ月前、既に始まっていたのです。) 大学進学コースに進むために必要な科目を登録しても、ひとつ時間があまりました。先生は書類を見て、私の父がミュージシャンであることに気付きました。「バンドのクラスをとってみたら? 何か楽器はできる?」

できませんでした。私にはその素質も興味もありませんでした。父は確かにミュージシャンでしたが、だからといって、それが私にとって何か意味をもっている、ということはありませんでした。音楽は父が仕事でやっていたことで、家でやっていたわけではありません。実際、我が家にはそれほど音楽があふれてはいませんでした。私は、 7年生の時に学校の小さなバンドでフルートをやってみたことがありますが、すぐにやめてしまいました... そんなにおもしろいとは思わなかったのです。でも私は、それほど自分を強く主張する子供ではなかったので、結局はこの先生の提案に従いました。次の日私は、楽しそうに楽器を吹く仲間に囲まれて、音楽室にいました。フルートを手にして... 「これはどうやって持てばいいんだい?」

時々、私たちの人生の出来事において、適切な時期とか場所というものがあるように思われます。 7年生の時には私のなかには音楽の「お」の字もありませんでした。それがこの10年生の時期には爆発したのです。私はフルートを吹くことに夢中になり、他の何も目に入らないほどでした。他の音楽科の生徒に比べると、私は数年おくれてスタートしました。他の生徒のほとんどは中学時代に楽器を始めていたからです。最初の週、バンドに参加した時、私は楽譜を目で追うこともできませんでした。そのスピードについていけなかったのです。でも数カ月後には他のメンバーにひけをとらないくらいになりました。

その当時、みなさんが私に「大きくなったら何になりたい?」と尋ねたとしたら、私は迷うことなくこう答えたでしょう。「交響楽団の第一フルート奏者になりたい」と。私の人生には他の何物もありませんでした。数学? 国語? 女の子? スポーツ? こうしたことについては何一つ記憶がありません。あったのは銀色の管と、音楽となって流れ出すのを待っている黒い音符だけでした...

そういうわけで、長く退屈なだけになるかと思った高校生活は、生き生きとした楽しいものとなりました。 3年間は、コンサートやコンテスト、パレード、演奏旅行などであっというまにすぎていきました。私にとって未来はもう決まっていました。そして私は進みたい道をまっすぐに見つめることができました... と思っていました。

次回に続く...

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