デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1993

ほんとうにおかしな夏でした。天候はめちゃくちゃでしたし、私の生活も同じようなものでした。 夏休みに子供達を山に連れていくこともできず、私達3人はずっと、ここ東京のマンションにいなければなりませんでした。 夏の間中ずっとここで過ごすようになってから、もう何年もたちます。やれやれです。今回のニューズレターの主な話は夏の話ではなく、 1月に準備したものです。私は、去年の冬、紙作りに使う楮「こうぞ」を供給している方々を訪ねました。 楮作りの過程の写真や説明を楽しんで下さい。

又、タンザニア及びケニヤと伝統的木版画との関係について書いて見ましょう。それから『この企画の始まり』は、もうすぐ終わりになります。

このページの回りの47個の小さな数字に丸がつき、あと数ヶ月で半分になるのがまちきれません。私には興奮するような出来事で、あなた方も少しそれに加って下さい。(詳しくは、うらをご覧下さい)

その12:最初の展示会...

(前回からの続き)

その年は、最初の展示会に始まりました。 私の作品を展示するなどということは考えてもなく、そのようなことは何年も先のことだと思っていました。地方新聞の発行とカルチャーセンター(そこでは週一日英語を教えていました)を組織しているある女性グループが、近くのフリースペースで6日間の展示をするように手はずをととのえて下さったということでした。この考えには、ちょっと慣れませんでした。というのは、展示会というのは芸術家がするもんでしょう? そうではありますが、私の版画や、それについての説明文を展示する準備をしました。展示の間に、妻が仙台の友人を訪ねたり、子供達はまだ保育園だったり、英会話クラスもたくさん教えていたので、とてもいそがしくなりました。約90人の方が来て下さって、そのうち 3人が収集家になって下さいました。私の仕事を見て下さる方々との最初の出会いでした。その時、毎年 1月に展示会をやり、 100枚終わるまで10枚づつ増やして行こうと決めました。この最初の展示会では 9枚終わっただけでしたが、次から毎年最新のセット10枚を展示できるように作ってきました。

その後何週間がたって、もう一つおどろくことがありました。英字新聞(Japan Times)のコラムに、私の百人一首の企画について好意的な記事がのり、その日午前10時までに 3人の方々が収集家になって下さいました。その月そのコラムを読んだ 7人の外国の方(日本に住んだり、働いたりしている)も私の版画を集め始めて下さいました。そのうちの 5人は 3年半後の今でも集めて下さっています。日本人以外の人々が私の版画に興味をもって下さったのに最初ちょっとおどろきました。と言ってもおこらないで下さい。 もちろん外国人が日本の版画が好きなことは知っていましたが、私の版画は、どんな文化的背景の人にでも容易に好感がもたれる、広重の雪の景色とは違っています。和歌や歴史や書道に深い知識のある人々だけが私の仕事に興味をもってくれると思っていました。しかし私は学ぶことへの欲求はすでにその知識があるのと同じように重要なことだということを忘れていました。もしその日にそのコラムにのらなかったとしたら、この『百人一緒』は、たぶん日本語だけで、これらの人々との出会いはなかったでしょう...

収集家の方々は、ゆっくりだけれども確実に増えていき、仕事量が問題になり始めました。マット製作、包装や郵送、収支計算などの余分の仕事があり、版画製作に集中するのが不可能になってきました。そこで英会話クラスの生徒の母親である芦田美代子さんがパートタイムでこれらの版画製作以外の仕事をして下さることになりました。版画製作では家賃さえも払えないのに従業員が出来たのは、少しおかしな気がしました。その後彼女は、三年間すばらしい仕事をして下さり、最近普通の仕事につくためにやめられました。

二年目は、彫ったり、摺ったり、三千代の翻訳を書き直したり、英会話を教えたり、子供達と遊んだり、『百人一緒』の準備をしたり(その年の秋にニューズレターを発行しはじめました)と毎日忙しく過ぎていきました。その上カナダやアメリカで版画製作の実演すらしました。これがその後、数年間のパターンとなりました。英会話クラスや翻訳の仕事をやめて、私の全エネルギーと時間を伝統的版画製作の芸術と技術を学ぶ為に使えるように経済的に安定する時点までコレクターの数を徐々に増加すること、そしてもちろん常によりよい版画を作ること。 それは、それほど単純ではありませんでした...

次回の最終回へ続く...

軽部和樹氏ご夫妻

木版画の世界...コーヒーの世界。  この二つ本質的に異なるトピックが見つけられるでしょうか。 そうですね。 そんなことは考えていませんでしたが、それらはあなた方が考えるほど離れてはいません。 熊谷市の喫茶店『Cafe de BJ』の経営者である軽部和樹氏ご夫妻にお目にかかる機会があり、彼らがコーヒーをたてるのも木版画を作るも実際には大変似ている職業だと教えてくれました。

私は、コーヒー好きというわけではありません。そして、和樹さんは私が最初に訪ねた時、それに気がつかれたと思います。 彼が私に「タンザニアとケニヤのどっち」と聞かれた時、私はボケーッと見つめ返しました。 彼や彼のお客さんには、それは大いに違いがあるのです。 彼は生の豆から始めます。 世界中のトップのコーヒー産出地域から輸入し、それらを選出し、彼らのアパートの台所で色を注意深く見ながら、ちょうどいいパチパチ音を聴きながら、そしてもちろんちょうど良い香りをかぎながら、手で注意深く煎ります。 彼は、一回に二日分だけ作ります。 煎ってから豆を一粒ずつしらべて味に影響する標準以下のものはすてます。 煎った豆は、ビンに入れて、ふたをしめ、コーヒーの注文があったらそれを挽きます。 彼はすべてをコントロールします... 火にかける前の水の温度、ドリップ装置の材料、ひいたコーヒーにそそぐお湯の正確なやり方、カップの選択... このようにしないとより新鮮でより味わいのあるものはできません。


お客さんはそのことを知っています... 又は学んでいます。 BJは、コーヒー通(つう)の為の場所として評判を得つつあります。 軽部さん達は、がぶ飲みするお客さんには興味がありません。 すばらしくおいしいスパゲッティ(手製のおいしいソース付)ランチをメニューからはずしてしまいました。 誰もがスパゲッティーの味をほめるとこぼしました。 でも、軽部さん達は、そんなに気難しい人ではありません。 彼らは、私と同じことに興味があります... みつけられるかぎり最上の材料を集め、利用できる最上の道具を用い、最高の技術を集めて出来得るかぎり最上のものを作ります。 作った物を単に提供するだけではなく、それについて説明することです。 そうすることによって、自分自身が最高の水準にたっするだけではなく、他の人達をも引き上げます。 いいコーヒーは何か... いい木版画とは何か、教えることです。

和樹さん、久代さん、ありがとうございます。 私や子供達に示して下さった友情だけではなく、私の版画をあなたの店にかけて下さり新しいコレクターに出会うのを助けて下さったばかりでなく、私の地平線を広げ、見ることを期待しなかった所にある価値を示して下さったことに感謝します。 たとえばコーヒー豆のいり方です。 いつの日か私でさえもケニヤとタンザニアの味の違いを学ぶことができるかもしれません。

〒360
埼玉県 熊谷市
玉井 1ー68
Cafe de BJ
0485(32)9575

('BJ'と言うのは、バンジョーで、もしあなた方がブルーグラスミュージックをやっていたら、和樹さんに彼の古いバンジョーについて聞いてみて下さい...)

相馬さんーこうぞ職人

相馬さんが電話を下さって、いつ私がたずねていくかについて断固とした、断言するような早口で聞かれた時に、この訪問はいつもの「職人さんを訪ねて」とはちょっと違うと気がつくべきでした。 私は、彼を訪ねていくことに躊躇しました... それは長い道のりで、茨城県のはしまで行くには、私は大変忙しく本当に時間もお金の余裕もありませんでした。 彼は私の躊躇に明らかにうんざりしていました。 そこで、「来ますか?」彼はこのことにかたをつけて、自分の仕事に戻りたがっていました。 私は訪ねていくことに決め、手はずを整えましたが、電話をおいてから、私は首をかしげました。 それは相馬さんが、紙漉の原料を山口さんに提供する為に、蒸した楮(こうぞ)の枝から皮をはがすのに何時間も座っている根気があるような人には思えなかったからです。 そこについた時、私は何を発見したでしょうか?

私は、朝 5時ごろ家を出ました。 そして電車を 5回乗りついで、 5時間後に水戸市から北へ走っている水郡線の袋田駅に降りていました。 相馬さんは、まさに電話で話した時の相馬さんと同じでした。 活発、すじが通り、いそがしい人で、「カメラを持った? さあ、いこう。」 それから 4時間ほど、休みなしに行動しました。 私は、彼の生活全域...畑から最終産物の束まで...全部見てまわりました。 もちろん彼は根気のいる職人ではなくて、実業家でした。

実際に、いそぐには理由がありました。 その楮加工過程は季節に影響される為です。 この仕事をするのは、ほんの短い間に限られています。楮の枝を切るのは、お正月直後に始まり、枝を切ってから約70cmに切りそろえ束にして、 2時間蒸します。 

やわらかくなった枝を蒸気釜からとり出し、手早く皮を木からはぎます。 枝の端をすばやくねじって、皮をはがしむいていきます。 木、そのものは、必要なく、伝統的な木のオケをしばるのに使う為に売られます。 

そばの大きな納屋に、はぎとった皮の束がラックにかけてあり、近くの山にある農家へ運ばれていくのを待っています。 その農家ではもっとも労働力を要する仕事が行われます。 不必要な黒い外皮を白い内皮の楮の繊維からとり除きます。 相馬さんは、その過程を私に見せてくれる為に山まで車で連れていってくれました。

これは、私が予期していた以上のことでした。 古く雨風にさらされた田舎屋。 もちろん大きな藁葺きの屋根でした。 冷たい風から守られ、冬の太陽が当たる軒下の、 4つの仕事台が置かれた縁台で年寄り達が座って働きます。 毎冬、彼らはこの仕事を相馬さんから請負っています。 そして彼らは、明らかに長年それをやっています。 ここには、早く早くといった緊張はなく、三人が(その日は一人休み)実際の仕事よりも互いのおしゃべりに笑いころげるのにより多くカロリーを消費していたのは確かです。 それでも仕事は確実になされ、きれいになった楮の太い束の列が竹ざおに下っていることから彼らがいかに朝早く仕事を始めたかがわかります。

私が写真をとってから、一人が休憩をとって、私を古いイロリに招いて、お茶と食べ物をすすめてくれました。 なんとおいしい! 田舎風の焼モチとつけものと野菜でした。 私は、我を忘れて、いかにモチがおいしいかを強調してしまいました(それは私がいつも食べている白いもちよりずっとおいしかった)というのは次に何がおこるかわかるからいつもは気をつけるのですが... 帰りには、私のバッグに大きなモチのつつみが入っていました。 (山を下りてから気がついたのですが、私は全員のお昼の食べ物を全部もらってきてしまったに違いありません。)

今はまだ早すぎますが、80いくつかになったら、誰もやりたがらないけれど、美しい木版画を作るのに絶対必要なこの仕事を、友人とともに日なたに座りながらこなすことほど楽しい時間の過ごし方はないと思います。

下の仕事場では、きれいになった楮は束ねられ紙すき職人のもとに送られます。 次のシーズンまで仕事は終わります。 再植林の必要はなく、 5月には、再び新しい芽が出ます。 年間を通して手入れの必要はほとんどありません。 農薬は散布しません。 この地域では楮につく害虫はないし、単にいらない枝を折ってしまうだけです。 しかし10週間ばかりはこのように忙しく過ぎていきます。彼らは、他の 9ヶ月寝てるというわけではありません。 同じ畑の楮の木の間にコンニャクを植えます。 でも、コンニャク作りのことは別の話ですね...

相馬さんは楮の産地でもっとも有名な場所の一つであるこの谷間で楮の仕事をしてきた家系の三代目です。 彼の祖父は福井県からうつって来たのです。 相馬さんの親戚の方々が今も福井に住んでいます。 紙すき職人の山口さんの家の近くです。 彼は、楮の皮を日本中の紙すき職人のもとに送ります。 そして彼はそれを大量に送っています。 手すき和紙は今日「成長産業」ではありませんが、非常に重要な日本人の生活の一部分で、質の高い楮は大きな需要があります。 相馬さんが直面している大きな問題はたとえ季節的であったとしてもこのような労働集約的な仕事を望む労働者を見つけることです。 この田舎の人口はだんだん少なくなっており、労働者を見つけるのはだんだん難しくなって来ています。

午後半ば頃、駅まで送ってもらって同じように 5回のりかえして家へもどりました。 ちょうど娘達がベッドに入る前でした。 日実と富実は自分達だけで一日中朝から夜まですごすということにとても興奮しましたが、問題はありませんでした。 どなたか私の娘達が本当に日本人になったかどうか疑う方にお知らせしますが...彼女達は、今までに私が持ちかえった中で、この焼モチが最高のおみやげだと思いました...!

幕間

「百人一緒」の原稿を書く時いつも悩むのが、版画製作に関係したことと、個人的な話題のバランスをどうとるかという問題です。 自分自身のことについては、つい、よい点ばかりを話してしまうようです。 その結果、読者の方々は、二人のすてきな娘とともに楽しい仕事に従事している私の生活に関して、いわば「バラ色」のイメージを浮かべられるでしょう。 最近の事ですが、ある女性の収集家と話している時に明らかになりました。 彼女は何か個人的に大変な問題を抱えていて、私の生活がいかにすばらしく幸せであり、どれほどうらやましいかを説明しようとしました。 私の生活の実情を理想化して見られると、とても落着かない気分になります。 ごまかしや気取りは嫌いですし、出きるかぎり自分に正直でありたいと思いますので、ちょっと反対のイメージのことを書きます。

なるべく簡潔にいきます。 三千代と私は 8月の初めに離婚しました。 私は子供達と一緒に、この羽村での生活を続けていますが、彼女はカナダで新しい生活を始めました。

数年前、彼女がカナダの大学で学ぶために、離れて暮らすようになった時、こういう生活は問題を引き起こすかもしれないと言って多くの友人が心配してくれました。 忠告は正しかったようです。 メロドラマのような、細かなことにまで触れたくありませんので簡潔に言いますと、先学期、三千代は教師の一人と、とても親しくなりました。 その結果、私達の個人的な関係は壊れてしまいました... 夏の話し合いでは、彼女には、二つの選択肢が残されました。 一つは、日本に残り、何か勉強でも仕事でも自分に興味がもてることを探し、もう一度、夫と子供達と一緒の生活に戻ることです。 もう一つは、カナダに戻って自分のことを続けることです。 彼女にとっては、どちらの選択もひどいものでした。 日本にいれば、医科大学へ入る夢を諦めなくてはなりません。 しかし、カナダへ戻った彼女を、私は援助することが出来ませんので、彼女は家族を失うことになります。 彼女はカナダを選びました。 彼女は空港に向かい、私は役所に行って離婚手続きをとりました。

その後も、私の生活は以前と変わりません。 仕事と子供に時間を費やしています。 どちらにも十分な時間はさけませんが。 二つの作業も変わらずに続いています。 毎月毎月、彫っては摺り、彫って摺はりしています。 頭の中にだけ、変化が起きました。 形の上では再び独身になりましたが、結婚する前の13年前と同じ「独身」ではありません。 私の仕事と生活に対して心から関心を持ち、子供達を育てる手助けをしてくれる誰かがここにいてくれたらと思うのは、一種の夢のようなものだったのかもしれませんが、私は好機を逃がしたようです...

これで十分でしょう。 今現在、私の生活は正確には「バラ色」で楽しいものではないかもしれませんが、何もかもひどいということもありません。 少しずつ、口の中から、この問題にまつわる苦味が取れています。 たとえ何が起こるにしろ、私はこれからの生活に期待しています。

次回のニューズレターを受け取られる頃には、『百人一首版画シリーズ』50番目の仕上げにかかっているでしょう。もちろん半分まで到達することは画期的なことです。次のニューズレターは、その出来事を記念して特別のものにしたいと考えています。

又、コレクターや読者の方々によって書かれたコーナーをもうけようと思っています。皆様方にこの企画や私の版画製作についてのおもしろいコメントを考えてもらいたいと思います。そして10月半ばまでに送って下さい。それを読みごたえのある記事にまとめてみたいと思います。好意的な言葉を要求したり、単に「美しい版画をありがとう」のようなコメントを意味してるわけではありません。この企画に参加されての感想や、その他、何でもあなた方のお考えを書いて下さい...

(やった!これでニューズレターを書くのを少し休めそうですね...)