デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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その12:最初の展示会...

(前回からの続き)

その年は、最初の展示会に始まりました。 私の作品を展示するなどということは考えてもなく、そのようなことは何年も先のことだと思っていました。地方新聞の発行とカルチャーセンター(そこでは週一日英語を教えていました)を組織しているある女性グループが、近くのフリースペースで6日間の展示をするように手はずをととのえて下さったということでした。この考えには、ちょっと慣れませんでした。というのは、展示会というのは芸術家がするもんでしょう? そうではありますが、私の版画や、それについての説明文を展示する準備をしました。展示の間に、妻が仙台の友人を訪ねたり、子供達はまだ保育園だったり、英会話クラスもたくさん教えていたので、とてもいそがしくなりました。約90人の方が来て下さって、そのうち 3人が収集家になって下さいました。私の仕事を見て下さる方々との最初の出会いでした。その時、毎年 1月に展示会をやり、 100枚終わるまで10枚づつ増やして行こうと決めました。この最初の展示会では 9枚終わっただけでしたが、次から毎年最新のセット10枚を展示できるように作ってきました。

その後何週間がたって、もう一つおどろくことがありました。英字新聞(Japan Times)のコラムに、私の百人一首の企画について好意的な記事がのり、その日午前10時までに 3人の方々が収集家になって下さいました。その月そのコラムを読んだ 7人の外国の方(日本に住んだり、働いたりしている)も私の版画を集め始めて下さいました。そのうちの 5人は 3年半後の今でも集めて下さっています。日本人以外の人々が私の版画に興味をもって下さったのに最初ちょっとおどろきました。と言ってもおこらないで下さい。 もちろん外国人が日本の版画が好きなことは知っていましたが、私の版画は、どんな文化的背景の人にでも容易に好感がもたれる、広重の雪の景色とは違っています。和歌や歴史や書道に深い知識のある人々だけが私の仕事に興味をもってくれると思っていました。しかし私は学ぶことへの欲求はすでにその知識があるのと同じように重要なことだということを忘れていました。もしその日にそのコラムにのらなかったとしたら、この『百人一緒』は、たぶん日本語だけで、これらの人々との出会いはなかったでしょう...

収集家の方々は、ゆっくりだけれども確実に増えていき、仕事量が問題になり始めました。マット製作、包装や郵送、収支計算などの余分の仕事があり、版画製作に集中するのが不可能になってきました。そこで英会話クラスの生徒の母親である芦田美代子さんがパートタイムでこれらの版画製作以外の仕事をして下さることになりました。版画製作では家賃さえも払えないのに従業員が出来たのは、少しおかしな気がしました。その後彼女は、三年間すばらしい仕事をして下さり、最近普通の仕事につくためにやめられました。

二年目は、彫ったり、摺ったり、三千代の翻訳を書き直したり、英会話を教えたり、子供達と遊んだり、『百人一緒』の準備をしたり(その年の秋にニューズレターを発行しはじめました)と毎日忙しく過ぎていきました。その上カナダやアメリカで版画製作の実演すらしました。これがその後、数年間のパターンとなりました。英会話クラスや翻訳の仕事をやめて、私の全エネルギーと時間を伝統的版画製作の芸術と技術を学ぶ為に使えるように経済的に安定する時点までコレクターの数を徐々に増加すること、そしてもちろん常によりよい版画を作ること。 それは、それほど単純ではありませんでした...

次回の最終回へ続く...

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