デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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34番目の版画が完成すると、1/3が終わります。ちょっと早目に先月祝うべきだったか、ちょっと遅くして今月にすべきかと考えています。
職人さんの欄では、和紙にドーサ液を塗って下さる方を紹介します。ドーサは私が摺りをする前に欠くことのできない手順です。 それからちょっと変わったところで、百人一首シリーズを作っている他の方についても書いてみましょう。
今回は,ニューズレターの翻訳にファクスを必要としません。というのは、三千代が夏休み(働く為の休み)で日本に戻っているからです。家族全員そろって楽しく過ごしているであろうとは容易に想像していただけるでしょう。そして私の狂気じみた忙しさが少し緩和され、たぶんその影響が彫りに出ているでしょう。少なくとも私はそうであればと思っています。
松崎さんとの接触により,まったく新しい摺りの技法を学びました。私は、摺りの技術をあげることに焦点を合わせました。そして、天智天皇を何回も何回も試し摺りしました。 以前私はチューブに入った水彩絵の具を用いていましたが、少し顔料を購入しました。これは、日本画に使われるものと同じで、使い方の練習をはじめました。版画に使われる色はチューブから直接出して使うのではなく、摺り師が自分で色を作り出すということに少し驚きました。もちろん、青と黄色を混ぜると緑色になるということは誰でも知っていますが基本色から無数の色が創り出されるということは信じ難いことです。 松崎さんは、版画を摺るのに、ほんの少しの基本色から驚くばかりしっとりとしたさまざまな色を作り出すことが出きます。三千代は、私の色についてのあまりの知識の無さにあきれてしまいました。『学校で習ったことないの?』 そうですね... よく聞いてなかったようです... (それ以来、日本では、小学生全員が、基本の色の混ぜ方、音符の読み方、版画の作り方、泳ぎ方、掃除の仕方、その他... もちろん読み方や書き方や算数を学ぶということがわかりました。)
「摺り師は芸術家」であるという概念は私には天啓のようなものでした。 私は木版画の摺り師は単に芸術家の指示にしたがっているにすぎないと思っていましたが、今ではいろいろわかりました。絵師(デザイナー)は単に墨書きをして、色については少しばかり簡単に指示するか、又はまったくしなかった。美しい浮世絵の色は、ほんとんどが無名の摺り師によって作りあげられたものです。
私は、新しく得た技術を試してみたくても時間がなくてイライラしていました。英会話教室が忙しく、それにテキストをいっさい使用しませんでしたので、準備に多くの時間を費やしました。これに加えて、毎週何百ページも三千代の医学翻訳を手伝いました。しかし私は、この版画シリーズの企画が私達の生活を変えるものになる可能性があるとわかっていましたので前進あるのみでした。20ケース注文した布張りの版画ケースが届き、それに貼るラベルを彫って、摺り、それから和紙で版画を入れるホールダーを作りました(ラベルも摺りました)。私は天智天皇の摺りのいいもの(一番最近のもの!)を選んでケースに入れ準備万端ととのいました。二ケースは私自信の為にとっておこました(二人の娘がいるので将来のトラブルを避けたいと思います)。一つは日本語のコーチ坂崎さんへ、この企画を始めるきっかけを作って下さったお礼に差し上げました。そしてこれを趣味から生計を立てる手段に変えるやり方について考えました。
私は又、難しい決定をしました。英会話教室へ新しい生徒を受け入れないこと。三月の学年の終わりには幾人かの生徒がやめ(入学試験にパスする等)、普通は新しい生徒を受けは入れてきました。版画製作が軌道に乗るやいなや英語を教えるのを止めようと考えているので新しい生徒を何年間か責任を持って教えられるとはどうして約束できましょう。 そんなことはできません。 そこで新しい生徒を受け入れるのを止めました。その結果として収入は月々容赦なく減少していきました。というのは生徒がやめていっても新しく受け入れなかったからです。英語の収入がなくなる前に版画の収入でやっていけるようになるでしょうか。
それは賭けでしたが私には他にやりようがないと思いました。
... 続く ...
始めてから何年かたちました。彼は百人一首の完全なセットを作り上げようとしていますが、完成までには何年もかかるでしょう。働くのは夜で、一つ一つゆっくりと注意深く作り上げていきます。キーボードを使って。キーボード? 版画について話しているのではないですか?いいえ。今度は違います。 きょうは金井清三郎さんを訪ねてみましょう。 彼は、百人一首の歌に会うように作曲をしています。
約17年前に初めて、53の歌を創り終わりました。 作曲は彼の音楽と百人一首の歌との間のお見合のようなものだと私に話して下さいました。 彼は歌をいろいろな伴奏をともなったデュエットとして作曲し、私に下さったカセットでは男性と女性の声が競うことなく、共にメロディーを織りなしています。彼が言われるには、重要なのは『歌っていること』ではなく『メロディ』です。
この企画の最初の頃は割合早くスムースにいったけれど、最近ではだんだん難しくなってきたと話されます。私は、彼が百人一首音楽シリーズを完成させるであろうと信じますが、音楽にマッチさせるのに最もやさしいものから始めたことをたぶん後悔するでしょう。しかし彼は今ではより経験をつみ、音楽は彼の指からゆっくりと、しかし確実に一曲一曲できあがっていきます。時々演奏会を開きます。昨年はソロシンガーや伴奏者やロックグループ及びコーラスをともなった大きな演奏会が開かれました。
最近65才になられた金井さんは数年のうちに大きな建設会社を退職されるでしょう。そして、キーボードにもっと時間がさけるようになるのを楽しみにしていられるでしょう。私ももっと彼の音楽が聞けるのを楽しみにしています。というのは私が静かに彫りをする時のちょうどいい伴奏になるからです。半分以上終わりました。金井さんがんばって下さい。(私自身何回も言われていますので何と言えばいいかわかります!)
鰐皮! 私は自分の耳を疑いました。鮫皮が版画製作に使われることは知っていましたが、鰐皮が伝統的な版画職人に使われているということは初耳でした。即座にたくさんの質問がわきあがってきました。一体全体江戸の職人がどうやってそのようなものを手に入れたのでしょう...このことを知ったら私の版画を集めてくださっている方々はどう思われるでしょう...どうしてこのことを前に聞いたことがなかったのでしょう。
美澤さんは、私が明らかに混乱したのを見てとりました。彼は、紙にはけで塗っている、にじみ止めの液体の成分が何であるかもう一度根気よく説明しはじめました。明礬(みょうばん)はわかっていましたがワニカワ...?それからあっと気がつきました。それはワニ カワ(鰐皮)ではなく、ワ ニカワ(和煮皮)でした。ああよかった!
私の版画が手漉の和紙に摺られていることは皆様よく御存知ですが、和紙は使う前に準備が必要だということはあまり知られていません。山口さん御夫妻が私の希望どうりに紙を漉いてから美澤勇さんの所へ送ります。美澤さんは一枚一枚にドーサを引きます。こうすることによって、紙はバレンで何回もこすっても大丈夫なように強くなります。もっとよく美澤さん御夫妻を知り彼らの仕事を理解する為にある晴れた、春の日、埼玉県の東南になる彼らの仕事場を訪ねました。
他の会話は、先に述べたように変だったわけではなく、美澤さん御夫妻から仕事について話しを聞いたり、仕事を見たりと大変楽しい午後を過ごしました。版画職人さん達(私も含めて)とは違って美澤さんは立って仕事をされます。柔らかい山羊の毛のはけはその巾が一メートル近いものもあり、そのような道具を座って使うことはできません。入れ物に一杯の温かいドーサ液を仕事台の右に置き、漉きたての新しい和紙を前に積みあげています。まず 5枚の紙の表にそれぞれドーサをひいて裏返して重ね、こんどは裏側にひきます。午前の分の数百枚の紙はドーサが平均にいきわたるのを待って、午後、天井に張り渡している無数の綱に二枚づつぶらさげます。奥さんの久子さんがこれを手伝うのに二階に上ってきます。二本の手では、この仕事をするのに不十分です。というのは、ぬれた紙はしわにならないように非常に注意深く持たなければなりません。長い間一緒に作業しているので彼らのダンスは十分に下稽古がなされています。 彼の手がここに行き、彼女の手がそこに行き、ターンをして、天井に持ち上げて、又 かがんで積み上げられた紙にもどります。 (もし彼らがお昼の食事のときにけんかしたら午後の仕事はどうなるんだろうなどとは絶対考えたくありません...)
乾燥は自然のままに行います。紙漉職人は時として、日にあてて乾かしますが、美澤さんは決して紙を日に当てません。というのは、早く乾きすぎると、ドーサをひいた紙が弱くなるからです。 美澤さんは勘で湿度を計り、窓の開け具合によって調節します。 梅雨期はもちろん頭のいたい時期です。ドーサは長い間湿ったままだとくさくなります。というのはニカワは動物の骨からとるからです。(それは、バイオリンやギターを作るのに使われる西洋の『hide glue』によく似ています)。
私は、彼が大きなはけを使うのを座ってじっと見ていました。仕事のリズムが、版木屋さんの島野さん、摺り師の松崎さん、刃物鍛治の碓氷さん、紙漉の山口さんのと似ていることに気がつきました... 腕はつねに動いているにもかかわらず、体の部分でいそがしいのは目だけのようです。 目はたえず紙の上を動き、ドーサの弱すぎたり、強すぎたりする部分がないかさがします。ストレスも、力まかせにやることも苦闘もありません。 紙は、彼の手の下で...一枚...一枚...一枚...と動いていきます。とてもたいくつな仕事のようですか? それはちがいます。 このような仕事をしたことのない人は決して理解できないでしょう。車工場の流れ作業の容赦のないリズムとはちがって、職人のリズムは、彼ら自身の中から出てきます。美澤さんは仕事台の前に立ち、はけを握り...つけて...おとし...ひいて...かえして...つけて...おとし...ひいて...かえして...
後で話しをした時にわかったのですが、彼の仕事は食生活にさえ影響を及ぼしています。もし油の跡が紙につくと、ドーサがきちんとしみこまず、できあがりの版画の色にむらができます。その為に、紙には、ほんの痕跡程度の皮膚の油さえつかないようにします。 美澤さん御夫妻はてんぷらを食べません。
私の出来上がりの版画一枚あたりにかかる費用はかなり違いがあります。 和紙...一枚500円+、パッケージ...300円+、アルバイト料...500円+、送料...500円+、版木...200円+(版木一枚...10、000円+)、他... それらのうちで、美澤さんが請求される金額が紙一枚あたり60円で、一番安いです。 美澤さん自身彼の仕事が『一番下』だといわれます。しかしなめらかな版木や、いい刃なくしては、彫ることができません。いいバレンや、すばらしい和紙、そしてもちろんきちんとドーサがかかってないと摺ることができません。これらの職人さんのうちで誰が一番上で、誰が一番下ですか? 私の答えは、皆様おわかりですよね。
美澤さんが紙漉職人の山口さんに会われたことがないと聞いてびっくりしました。何10年も共同で仕事をしてきて、山口さんについて知っていることといえば数カ月前の『百人一緒』に書いてあったことだけです。お金ができしだい、それはたぶん半分出来上がる平成6年の一月の展示会になると思いますが、私はこれらの職人さん達に一堂に集まっていただけたらと思っています。(『百人一緒』で、すでに皆様御存知の職人さん達、そしてこれから書かせていただきます方々です。) 私の作品の前に並んでいただいて、日本中の人々に木版画とは本当に何なのかということを知っていただきたいと思います。それは春章や歌麿や広重ではありません。 それは職人です。 心おだやかに、しかし仕事には全注意を集めて、一枚の紙(又は、*をよじったもの、鋼鉄の塊...)が職人の手で一定の自信に満ちたリズムでもって、形をなし、次の職人に手渡され、そして次の人へ...次の人...次の人...それから終わりには、皆様方の手もとへと渡されていきます。
美澤さん宅を辞してバス停への道を歩いていきました。美澤さんはたぶんもう二階の仕事台にもどり、私に話すのにとられてしまった時間をとりかえそうとしてられるであろうとわかっていました。しかし又,どんなに遅くなったとしても、仕事のリズムは変わらないということもわかっていました。一枚一枚の紙に十分な注意を注ぐでしょう。ドーサは適切にひかれるでしょう。 次の版画を受けとられた時によく見て下さい。しばし美澤さんのことを思い、彼の『鰐皮のスープ』のことを思い出して下さい。彼が紙にひいたドーサは、私の摺り台の上にあるほんの短い間だけ必要で、何10年間のうちに除々に紙から消えていきます。しかしドーサなしには、版画は存在しません。
美澤さん御夫妻に深く感謝いたします。
小さな看板が私の仕事場の入り口に掛けてあります。それには『東京木版画工芸組合員』と書かれています。私は、昨年の春からこの組合に属しています。以前から組合の集まりには時々出席しており、組合に入ったらということになりました。私が一番新しいメンバーです。
名称からおわかりのように、組合員は、伝統的な版画製作に携わっている職人達で、仕事はこれらの人々の間で分業になっています。 約10人の彫り師(摺りはしない)と少し多くの摺り師(彫りはしない)、それに加えて、版木職人の島野さんや、ドーサ職人の美澤さんです。言う必要がないことですが、新しくメンバーに加わる人はまれです。組合員は年々減少し、若い弟子はほとんどなく、年令が離れています。組合の集まりの時にまわりを見まわしてみて、私は又、若くなったような気になります。(実際には、一番若いメンバーは私ではなく、松崎さんの息子さんの浩繁さんで、彼は20代です) 組合員のほとんどは、その仕事について何世代も家系をさかのぼることができます。彼らは誰から代々技術を受けついできたかということを、かなり意識しています。昔は、たぶん違った流派の間で競争したに違いありません。 そしていくつかの秘密の手法を他の人には教えないようにしたでしょう。しかし今ではそのようなことはないと思います。
私が6年前に日本に来たのは、この職人グループとコンタクトをとる為でした。せっかく日本に来たのに実際にはこのグループのどなたともほとんど一緒に過ごしたことがありません。それは、単に生計を立てる為に忙しかっただけではなく、これらの職人さん達は働らかなければならず、時々はよろこんで私を手伝ってくださろうとしますが、頻繁に仕事のじゃまをされるのは好まないからです。 とくに彫り師はそうです。私の経験からわかりますが、仕事場への訪問客は、時として集中を乱します。それは、私が最も細かい部分の彫りを夜に行う一つの理由です。これらの職人さん達の仕事場へは近いのに遠いということは時として欲求不満にさせられます。
私の日本語は、職人さんを訪ねる機会がある時、私に話してくれる重要な部分を把握出来るレベルに除々に近ずいています。そしてこの企画が続く間、私はかれらの歴史や活動について書いていきます。おもしろい話が沢山あり、もし私が掘り出さなかったら誰がするでしょう。
少し前、私のお客さんの一人が電話してきました。前にこのニューズレターに紹介した職人さんの住所を尋ねられました。彼女は手紙を書いて彼の仕事に対して感謝を表明したいということでした。もしどなたか同じようにされたい方はどうぞご遠慮なくおっしゃってください。通常、職人さんが接触する外部の人間は私のように『私の注文はどうなってますか?』と絶えず聞いてくる人々だけだからです。どの方も、ほとんど見ることのない最終段階の仕事の象徴である収集家の方々の言葉はとてもうれしいと思います。
このことについては少しばかり罪の意識をおぼえます。というのは私がちょっとかわっていて、難しいことをしているから、新聞や雑誌やテレビ等の注意をひくようです。しかしこれらの職人さん達は黒い髪に茶色の目だから、めだたないで仕事をすることになります。しかし彼らの仕事も同じようにめずらしくて、難しいもので、そして私よりもずっとずっとうまいのです。私は彼らに囲まれて、そして仕事を助けられていることをうれしく、又誇りに思います。たぶんいつの日か、彼らのすばらしい道具や材料に価する版画が作れるでしょう。