デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Spring : 1992

一月の展示会やマスコミ関係をして、もちろん彫りと摺りで大変いそがしい早春となりました。今やこの企画も数年を経て、より広い注目を浴びてきており、実際に仕事をするよりも仕事について人々に話すのに時間を費やす傾向になってきています。そこで毎月作品を待っていてくださる収集家の方々がいることはとてもいいことです。仕事のことを忘れるわけにはいきませんからね。

今月のゲストは、職人さんではなく、お店です。 それも私が今まで見たうちでもっとも特殊な場所です。東京下町の真ん中、竹の皮だけを売っているお店で、そこを訪ねて、少しばかり『竹』について学んでみましょう。

今回のニューズレターは元のスタイルにもどって、いつもの事柄についてです。前回のニューズレターでは皆様方を混乱させてしまったようで、今回はそれについても少し説明しなければならないようです

その6:松崎さん

版下の準備や版木を手に入れることがなかなかうまくいきませんが、この仕事の他の面でいそがしくしていました。版画のホルダーや、収集家の方々が版画をしまっておく布を張ったケースのデザインをしました。ホルダー(和紙で作られている)は自分で作ることができるのですが、ケースの方は時間がかかりすぎるので、いろいろなケースを作る会社をあたってみました。 東京周辺のいろんな会社を訪ねてみましたが、私の場合はオーダーが少なすぎるということに問題がありました。そんなおり佐伯さんが 又 助けてくださいました。 彼は、彼の版画セットのケースを作っている会社をおしえてくださり、そこの戸田正孝さんを訪ねることになりました。彼は、即座に私の要求を理解して、いくつでもたとえ一個でも作ってくださるということでした。値段も適当で、私はサンプルとしてブルーの布張りのケースを20個注文しました。まだ、次の版画を彫る版木が手に入りませんでしたし、次の版画を彫る為の版下の方法もまだみつけられずにいました。皆さんに見せるほどの版画を作ることすらまだできませんでしたが、私はひたすら前に進み、どこまでいけるかみてみようと決心しました。

3月初め、大きなきっかけがやってきました。英語の生徒の一人が、木版画の実演をする『カルチャーセミナー』案内がのっている『毎日ディリニューズ』の切り抜きをくれました。幸いなことに、それは英語のクラスのない月曜日に行われ、私は出席することができました。講義そのものはたいくつで、典型的な日本の大学タイプの講演者が不可解な名前の一連の芸術家の誕生日についてどうでもいいような調子でものうげに話していました。浮世絵の歴史は、実際にその文化と芸に発展したり衰退したりする芸術家の大変おもしろ話しがあるのですが、そのようなことは一言も聞かれませんでした。しかしながら、話が終わって実演が始まると、違ってきました。彫り師の方は伊藤進さんでした。彼については将来このニューズレターに書かせていただきたいと思います。摺り師の方は? それは夏号で紹介させていただきました松崎啓三郎さんでした。

彼の仕事を見ることは、天の啓示のようなものでした。このことに先だって私の最初の来日は 7年前でしたが、私の版画製作についての知識は当時初歩的で、何を見ているか本当には理解できなく、ほとんど何も学ぶことはできませんでした。カナダにもどってからの何年間かは、まったく一人でやってみました。それは、試みと失敗というくり返しで、いくらかの成功と多くの失敗でした。私の小さな娘は『自分でできる』とよくいいました。新しい分野にとりくんだり、新しい技術を開発するのはこのやり方がうまくいきますが、伝統的な技術については、自分でやってみて技術を上げていくというやり方は無理なことです。私はこの出会いを待っていました。

その夜に書きとめた日誌が語っています...『無駄な動きなし、静けさ、穏やかに加える力、緊張しない』...この時までの私の経験は版画製作過程の機械的なこと...どれぐらい糊や水を使うか...に焦点を合わせていました。もちろんこれらのことは重要ですが、職人さんの『精神的』な状態とは比べものになりません。そしてその日は短い時間でしたが、次の週、彼の家を訪ねて一日すごすことにより、本当のことについて松崎さんから垣間見ることが始まりました。レッスンは続けられていきます...

私は版木がどうなっているか知る為に島野さんを訪ねました。そしてちょっと...  彼の親方が仕事をやめて、島野さん一人で仕事をすることになりました。二人分の仕事量ではないが、一人でするには多すぎる仕事量とのことで、いつ版木を届けてくださるかについての私の問いには、彼は肩をすくめるだけでした。もちろん彼の長年の顧客は優先し、新しい客は、待たなければなりません...そう、待ちました。

... 続く ...

有城重良さん

1964年 6月26日、大阪から屈強な17才の少年が旅立とうとしています。彼の年頃の他の少年達のほとんどは、机に向かって勉強していますが、有城重良さんにはもうたくさんでした。 彼の目的地は...大阪。 乗り物は...ツアー用自転車『ワンダーフォーゲル』。これに乗って73日以上かけた、8000kmにわたる大阪から大阪まで本土、北海道、九州を完全にまわる旅にでようとしていました。

私は、重良さんの旅の日記を読んだことがあります。そしてそれはあなた方が想像できる事柄でうまっています。晴れの日、雨の日、名所旧跡、ジャリ道、ダンプカー、そして日々の出費。 しかしそれには、全ページにわたって他のことも書かれています... いろんな人々との出会いです。彼はいたるところで助けられました。寝る場所、食物の提供、そして温かいはげましでした。日記には彼が見た場所よりもこれらの人々のことがより多く書かれています。これらの出会いが10代の若者に永久的な影響をおよぼしたと思います。というのは、彼が大人になった時に、私がかつて出会った人の中で、もっとも陽気な人間の一人になっていたからです。

去年の夏、三重県南部の私の妻の故郷にいった時、私は有城さんと奥さんの千賀子さんと過ごす機会がありました。彼らはそこに少しの土地をもっていて、自分達でログハウスを作っています(カナダからのキットではなくて始めからです)。どうやって作るかをどこで学んだのでしょう? 彼はやってみることによって学んでいます。私が何かを学びたい時にするのと同じやり方です。これは日本人のやり方とはまったく違っています。家を造るのは、二人にとって大変な仕事で、何年もかかるでしょうが、仕事の大変さにおどろいているという風には見えません。有城さんは17才の時に、自転車の上で貴重なことを学びました。もし、一歩づつ、少しづつやっていくとしたらとりくむのに大きすぎる仕事などありません。礎石の上に丸太をのせるのに格闘している彼を見ていると長くかかりそうですが、いつの日か彼の作りあげた木の部屋にすわって彼の仕事を感心してながめる日のくるのはうたがいのないことです。

有城さんの例は、私の仕事に少なからず励ましとなっています。彼と私は長い旅に乗り出しています。しかし、なあ!目的への過程は楽しいもんだね重良さん...

金子商店

最初に金子商店を見つけたのはまったくの偶然でした。私は版木屋の島野さんを訪ねる途中でした。そしていつものように道にまよってしまいました。東京の元浅草は単純な格子模様の道になっており、曲がりくねっはていませんが、通りや店がまったく同じように並んでいるから目的場所が見つけやすいということにはなりません。毎回この場所を訪ねる時は混乱してしまい、目印をさがしてぐるぐる回り、徐々に目的地に近づくということになります。私は東京に竹皮の店のあることは聞いていましたが、さがしてみたことはありませんでした。幸いなことに、この日はたまたま行き当たり、時間があったので何があるのか見に入りました。

それはもちろん古い店で、私は店という言葉を用いていますが、あまり店のようには見えません。通りから一歩で倉庫に入るような、竹皮の束の山にかこまれてしまいます。ここの人達はどうやって生計をたてているのだろう?そんなにもたくさんの版画職人が仕事をしているのだろうか? そうではありません。 版画職人は、彼らの商売のうちのほんの一部にすぎません。これらのほとんどの竹皮は食物を包むのに使われます。おにぎり、洋かん、その他の食物がラップが開発されるよりも何百年も前からこれらのしなやかで強い竹皮で包まれてきました。そしていくつかの古いスタイルの店では今なお竹皮を用いるのを好んでいます。

近代の日本語の使用は、動物と植物の皮の違いをなくしてしまいました。そして漢字でも両方共通に使われていますが、金子商店の名札は竹の皮の廃語(◆)を堂々とかかげています。この商売は安政(あんせい)時代(1850年代)から続けられ、この現在の場所では明治17年(1884年)から続いています。今世紀になってから 2回火事に遭っており 1度は関東大震災で、 2度目は第二次世界大戦中です。現在の経営者は、金子泰夫さんと金子満夫さんのご兄弟で、お店と97才の母親をみておられます。このちょっとした話を書く為の情報集めに訪れた時、彼らの祖先がいつ生きて、いつ死んだかについてあれこれ議論するのを聞きながら彼らの長い歴史と私自身のそれが非常に短いのとを比べてみました。(私は祖父母が何をして、どこに住んで又どこに埋葬されているか知りませんし、名前さえ知らない人もいます)。

◆についてはこの二人の知らないことはそんなにあるはずがありません。彼らは、どの地方をとっても、版画家に最上の*がどこからみつけられるかを言うことができます..千葉のある特定の場所、大阪近くの場所、群馬の特別な丘でさえ... 竹の構造、厚さや強さは、明らかにそれが育つ土の性質やそれを囲む微妙な気候によって決まります。

関東地方では、◆は 7月に集められます。集められましたというべきでしょう。これは伝統的に子供の仕事でした。村の子供達は落ちた◆を 求めて竹林をさがし、集めた*は束ねて金子商店に送られました。何十年も前のそのような場面を想像するのはたやすいことです...継ぎあてされた夏の着物を着て、わらぞうりをはいた子供達が◆を集めて、いくらかの小銭にかえる為、村に持ち帰ります。今の子供達ではそれは想像しがたいことです。

もしそんなことをしないにしても、宿題やビデオゲームにいそがしくしています。もちろん今日の日本の子供達は、ポケットマネーをかせぐのに丘を狩り歩く必要はありません。だから金子さんが日本で◆を手に入れるのはむつかしく、他に供給源を求めています。それは台湾からです。(もしあなた方がこの青い目の版画家が日本の版画を作るのに日本のではない材料を使わざるをえないことを不思議に思われるとしたら和紙はどうでしょう。いずれ和紙にづいて書く日を待っていて下さい..) 日本全国の美しい◆はその落ちた所にとどまっています。

金子商店の将来はどうなるのでしょう? そうですね、彼らにとっての未来は、彼らが今までずっと続けてきたことを単に続けていくだけのことです...得られるかぎりの最上の◆を購入し、現代の代用品は用をなさないと考えている人々に供給し、それは版画製作者のバレンを包むか、又は伝統的な食物の素朴な包装となるかです。もちろん印刷機はバレンよりも『いい』し、プラスチックは◆よりも『いい』、そして、それらがとって代ることも正当なことです。しかしもし我々の社会が、効率と利益にそんなにも魅せられるとしたら、『ローテク』だけれども『ハイタッチ』(手ごたえ)な◆のような産物はその時にはまさに悲しみの日となるでしょう。

金子さん達は、古い伝統の守護者です。私の版画製作への助力やアドバイスを感謝致します。 そして何よりも、その奇跡の産物である◆を定期的に供給して下さいましてありがとうございます。 そして今からは私も廃語になってしまった古い漢字を使うことにします。(ただ画数がもうちょっと少ないといいのですが...)

Odds and Ends ...

最近ニューズレターを読まれて少しばかり混乱されたであろういくつかのことについて説明する時がきたと思います...

彫り師井上さん  前回のニューズレターは彫り師井上新七郎さんの仕事場を訪ねた時のことだけを書きました。そのことについては最後の章で『説明した』と思ったのですが、その後、あなた方の何人かと話しているうちに、説明が足りなかったとわかりました。井上さんは江戸時代の人で、私が複製をしている原本の彫り師(親方)でした。彼の仕事場への訪問は完全に想像上のものです。

江戸時代の仕事の状況についての記録はほとんどありませんので、私の説明がどれくらい確実でしょうか? その当時の出版社(文字どうり数百ありました)のいくつかは、私が記述したような職人部屋を持っていたことは知られています。一方他の職人は自宅で仕事をしました。井上さんがどこで仕事をしたか私にはまったくわかりません。

春章の本は、私が記述した伝通院の前の『雁屋』から出版されました。その本の春章の序文には1774年 1月にあたる日付がついています。出版社の情報ページには1775年末と記述されています。この本を作るのに 2年も本当にかかったのでしょうか? その当時の職人は非常に早く仕事をしましたから、そんなに長くかかったとは考えられないのですが、年の変わり目には、たくさんの本が出され、これは、 1月カルタのシーズンに特別の感心がもたれます。たぶん1775年の新年には間に合わなかったので、版木はしばししまっておき、次の新年に間に合うように1775年末に作り終えるように又とり出したのでしょう。 私達には知るよしのないことです。

井上さんの仕事に対しての態度と私の記述は、もちろん推測です。それは今日そのような男達の間に見い出される基本的な態度で、私は江戸中期の職人は彼らの仕事に対しもっとひた向きだったと想像され、娯楽や、気晴らし(教育、旅行、メディア等)もずっと少なかったでしょう。

鮫皮  何刊か前のニューズレターで、風呂の中に浸している鮫皮の写真を見られたと思います。そしてたぶんどうしてかなと思われらたと思います。このことについてはまだ教えませんよ。 私は、いろんな話を書こうとしています...木版画作り、過去の職人の生活、百人一首の歴史... これらのどれもが始まりと終わりがあるようなわけにはいきません。この企画が行われていく年月とともにこれらのニューズレターも書いていくから、それらのことについては少しづつ少しづつ私に可能なかぎり書いていきます。細部が埋めこまれるにつれて徐々に明らかになっていく全体像のある大きなモザイクを作っているようなものです。これは私が何かを学ぶときのやり方で、それが次へ伝えていく唯一のやり方です。どうぞがまんして下さい、終わりにはすべて明らかになります。そして、少くともめちゃくちゃなぬかるみではなくなるでしょう...

百人一緒  どうしてこの名前を選んだのでしょう?それは単なる語呂合わせとそれ以上の意味合いがあります。この企画の初めの頃、これによって実際に生活していけるか、又はこれでは完全に経済的に支えていけないかについて考えざるをえませんでした。版画作りは極端に時間のかかるもので、大家さんは家賃を待ってはくれません。

私は大きな紙をとり出した(悲しいかなコンピュータ用紙ではありません)。そしていろいろ計算してみました。私は、版木、和紙、及び他の材料費を合計しました。これらの材料は大変高価で、一枚の和紙が 500円以上、各版木が一万円以上、バレンは五万円です。私はホルダー作り、包装、郵送を手伝って下さるパートタイムの方の賃金も計算にいれました。写真のひきのばし、展示会や宣伝費その他考えられるこれらのすべてをミックスし、それにもちろん日々の生活費、部屋代、食物、その他を加えました。 私は私のやり方で計算して、それぞれの版画を毎月 100枚づつ作り、 1枚一万円で販売するとしたら、版画材料費、税金及び基本的な生活費を出して、少しばかり貯金もできるとわかりました。

私は、そんなに時間におわれないで 1年に10枚の版画を作ることができると計算しました。彫りに約 3週間かかり、 100枚摺るのに、色の数にもよりますが、 4日〜 1週間位かかります。そこで 100はマジックナンバーのようでした。 そしてそれが私のゴールです。 100人の収集家...百人一緒。

私は毎月 100枚の版画を作ります。二人のパートさんが 100枚全部のホルダーを作り、包装し目下の収集家の方々の分を郵送します。後から収集に加わって、毎月 2枚づつ集めて下さっている方々にも同様です。残りは私の仕事場に保管します(毎月少しづつ少くなっています!)。最初の年の終わりには15人の収集家の方々がいました。  翌年は25人。 そして昨年は38人になり 6人はやめられ、 9人が 1月の展示会の際に加わってくださいました。このシリーズを終わるまでに 100人に達するでしょうか? どうでしょうね。せめて一ヶ月の部屋代ぐらいは前の月に用意できるといいのですが、しかしそんなことはまあそんなに重要なことではないですね。私は仕事を楽しんでいるし、子供達は元気に成長しています。その他に何がありますか?

バンクーバーの 2月、木々は芽を出し、クロッカスや水仙も咲き、春の訪れです。

幼い子供達を日本に残してここカナダでの大学も、もうすぐ一年生が終わりです。 4月半ばには夏休みに入り 8月末まで続きます。(カナダの学生にとっては学資と生活費のかせぎどき) 子供達やデービッドに会える日を指おり数えています。私のここでの生活は 1日 7時間の睡眠と16時間の勉強と朝の1000メートルの水泳ということに要約できます。子供達やデービッドが支えてくれているからどんなことにも耐えられるのではないかと自分にいいきかせています。家族への思いと学ぶことへの思いで引き裂かれそうですが、子供達やデービッドがしっかりしていてくれるかぎり私はここにとどまれます。子供達やデービッドは毎週土曜日に電話をしてくれて、子供達が毎日書いた日誌を 1週間に 1回送ってくれます。

デービッドの版画やニューズレターを楽しんで下さい。私は彼の心を皆様に伝えられるように翻訳致します。

三千代  1992年 2月22日