デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
41号から最新号まで
1号から40号まで
Categories:
このニューズレターの発行は 9月、12月、3月、6月に予定していますが、今回は、少しおくれています。夏に田舎に行った時、過去何年間かで入念に集めた本を持っていきました。 彫りと書くことが首尾よく終わった時に何かすることがあった方がいいと考えたからです。私は、しなければならないことの順序をまちがえたようです。 8月の終わりには、本の入ったダンボール箱はからになり、ニューズレターは書き始めてさえいませんでした。
家に戻る途中、このニューズレターで紹介させていただきます和紙を漉いてくださっている山口さんを訪ねました。私達にとって非常に重要なご夫妻の紹介がおそくなったことをはずかしく思います。ご紹介する方々や話があまりにもたくさんあります...
(前回からの続き)
最初の版画がうまく出来あがり、大きな城を空中に描くのに没頭していましたが、実際は次の二ヶ月ばかりはいらいらさせられることになりました。主な問題は、次の版画を彫る為の版下を手に入れるのが難しいことにありました。白黒写真(ブロマイド)が、東洋文庫の仕事をしているマイクロフィルム会社からとどきましたが、それは不適切なものでした。赤や茶色のような強い色は強く再建され、墨の線との見分けがつかなくなりました。そのうえ、カメラに何か欠点があり、白い汚れがそれぞれの写真についており、その汚れの一つは小野小町の目をおおっていました。これがワンストライク。
前に版木を作っておられる島野さんを訪ねたおりに、彫り師の石井さんにお目にかかっていましたので、三千代と私は、もしかして彼から版下作りについて何かいい情報が得られるかもしれないと思って訪ねてみることにしました。彼は、ストリップフィルムをすすめて下さいました。それは、薄い写真フィルムを透明なプラスチックにくっつけて、拡大して現像後、薄いフィルムを版木に貼りつけます。石井さんは、その作業によくなれている印刷会社を紹介して下さいました。印刷屋さんは、ストリップフィルムを作るのに小野小町のカラーのネガを持ってくるようにと言われました。
そのネガを注文する為に東洋文庫に戻りました。今回は、私が直接マイクロイルム会社の代理人と話し、その方法を検討し、何も問題がないことを確かめました。うまくいきそうな感じです。英語クラスに戻り、待ちました。山口さんからの和紙と、島野さんからの版木とそしてネガを待ちました。
一週間後、郵便でネガが届きました。そして又、失望することになりました。それらは他の会社がやったもので、私の要求を理解してなく、ハーフサイズで写しており、いい拡大写真を得るのは不可能でした。二つの会社が東洋文庫の仕事をしており、 1日おきにかわりばんこに注文をとっているようでした。私の注文はちがった会社にいってしまったのでした。拡大してもらって、印刷屋さんがストリップフィルムを作りはじめました。四週間後、ついに彼から連絡が入りました。そしてその結果、それはまったく役にたたないものでした。細かい所はぼやけ、赤と黒は見分けがつきませんでした。ツーストライク...
何年か前、このシリーズの企画が始まる前に、三千代と私は、練馬区の木版画の版元の佐伯さんを訪ねて、何枚かの版画を購入したことがありました。その時彼はとても親切にして下さいましたので、彼にお目にかかって版下の問題について何かアドバイスをいただけないかと思いました。私達は、そこでとても楽しい時間をすごしました。彼は、明治と大正時代の信じられないほど細かく彫られた版画を見せて下さいました。それらの版画を見ることは、本当に目を開かされる思いがしました。そしてそれは、私がいかに長い旅に乗り出したかということを思いしらせてくれました。 佐伯さんのアドバイスは、もっと大きなネガ(4x5インチ)を手に入れることでした。これによって非常に鮮明な像を版木に再生することができるでしょう。翌日、このようなネガが出来るかどうか、マイクロフィルム会社にたずねました。会社は、やってくれるということですがちょっとした問題がありました。一枚 13、000円かかるのです。私達にはその時点ではそれはまったく無理なことでした。スリーストライク。
全部が全部悪いニューズというわけではありませんでした。 2月の終わり福井県から荷物が届きました。山口さんからの 100枚の美しい手漉の越前奉書でした。今は、彫る為のデザインと、板があればいいだけです。これからどうしたらいいでしょう...
... 続く ...
カナダに住んでいた時、私は日本についてたくさんの本を読み、この国についてたくさん『知っている』と思っていました。あれやこれや少しづつ情報を得て、日本人について学びました。例えば典型的な父親像としては、会社につくして、朝早く電車に乗り、一週間に 8日も遅く家に帰り、家族は二の次にし、仕事の為に生きる...皆んな知ってることですね。日本にきて住むようになってからこのことがそんなにひどくないということがわかりました。最近、他の面も知ることになりました。私はもっとよく知る為に、私の版画を集めて下さっている鎌田さんご一家を訪ねました。
座って鎌田業継さんと話している間中、娘の朱美ちゃんが宝物を次々に見せにきます。そのうちだんだん、鏡に向かって話しているような気がしてきます。彼は、田舎に住んで、家を建て、無意味に仕事と家族生活が離れているのではなく、生産的な仕事が家族の生活にまぜあっているような生活がしたいと話されます。私は、前にそんなことを日本人から聞いたことがありません。新聞にはいろいろ書いてありますが日本人もカナダ人も、人生において同じような目標をもっています。そんなにもよく似ていることに私は少しおどろきました。
鎌田さんと好美さんは一緒に小さな塾を経営しています。もちろん生徒の多くは単に次の試験の準備をしているのですが、彼は、単に来週の試験にパスする為に勉強するのではなく、生涯教育や、個人的に何かを成しとげる為の学校を作りたいと夢みています。鎌田さん御夫妻は、合気道をやっています。私は格闘技はやったことがありませんが、そのうしろにある哲学 ...外界の騒音をたちきって、注意を集中し将来忙しく働くことに堪える為の深い力をもたらす...と説明してくださいましたが、それはたぶん、私が摺り師の松崎さんの摺りを見せてもらって、そこに何を見い出すかについての違った説明の仕方のようです。
私は、この若い御家族を知る機会を得たのをうれしく思います。いつの日か山間のとなりどうしの村に住み、一週間に一度自転車で習字を習いにいくかもしれません。鎌田さん、ほんの数年後のことですよ。がんばりましょうね...
10年前に来日した時に、何年か前に聖作された木版画を吉田遠志氏から買いました。それは、福井県の大滝にある大きな朱塗の鳥居をあらわしたものです。吉田氏は、この町の紙漉きをしている方を訪ねられたおりにスケッチされたものにちがいありません。というのは、ここは、昔から紙漉きで有名な所だからです。何百年もの間、ここの住人の主な職業は、江戸時代のこの地方の呼び名である『越前』からつけられた、越前和紙を作ることでした。
8月の終わりのある朝、私の家族がこの村を通ってゆるやかな坂を登っていた時に、吉田氏の版画にでてくる風景に出会いました。そのながめはそんなには変わってなく、石の燈龍が守護し、わらぶき屋根は道路をまたいで立っている、大きな鳥居のそばに立っています。年の流れによる変化は、舗装された道路、ファミリーストアー、そして古い仕事場にとってかわって、工場からの紙の束をつんだトラックがこの鳥居をぬけて走っていくことに表れています。
私達は、朝早くホテルを出ましたが、仕事場についた時にはその日の仕事はかなりすすんでいました。山口和夫御夫妻は、木の皮をその芸術的作品であるすばらしい和紙に変える仕事で忙しくしています。彼らは、実際の紙漉きの仕事の前の最後の準備をしていました。和夫さんは細かくした楮『こうぞ』の繊維の山を洗っており、絹子さんは、木の皮の黒い不要な部分をとり除いています。
この部屋で、15才の和夫さんが初めてこの仕事をしたのは、終戦後数ヶ月たった時で、この工芸職人の 7代目になりました。その時から彼は、楮繊維の入った桶にかがみこみ、竹の大きなスクリーンを持ち、つけてはゆすり、つけてはゆすり、一枚の紙が形づくられるまで一週間に 7日ここですごしてきました。45年後の今、彼の傍に立って見ているうちに、彼の仕事がどんなにきびしいものかと言うことにびっくりしました。木枠をゆっくりと前後に動かしている間、彼の目は出来上がってくる紙のすみずみまで目をはしらせて、ゴミ等問題になるものに注意を払います。何気なく木枠の角を持ちあげて繊維のかたまりを木枠の外にほうり出します。少しだけ強くゆすって厚い部分をなめらかにします。彼は、出来上がってくる紙を完全にコントロールしています。
だんだんと時間が過ぎ日の光は部屋の中まで伸び、桶の中の楮の繊維をてらし、それを不透明な液体のシルクに変えます。和夫さんの動きにつれてその液体も生き物のように動きます。紙はだんだん高く積み重ねられ、日が沈み、仕事が終わる頃には 100〜150枚の紙がてきあがるでしょう。2~3日のうちに、水が切られ、古い圧搾機にかけられ、広い板の上でかわかされ、ついには、待ち切れないでいる日本の、又カナダやヨーロッパの版画家のもとに送られるでしょう。
かってこの場所は、山口さんのような人々の仕事場でにぎわっていましたが、長い間に、一人二人と、パルプを用いた機械作りに変わったり又、若い後継者がないためにやめていきました。今日では、父親のあとをつごうという若者は非常に少いのです。特にその仕事が一ヶ所に立って、古いやり方と同じことをくり返す場合はなおさらです。山口さんの作るような紙の需要は高いので、注文をことわらざるえません。一人の人間が桶に手をつっこんで立ってられる時間は限られています。
材料の仕入れも又問題です。楮の栽培も、刈り入れも、人手を要し、基本的に報いられない仕事で、充分な原材料の供給がだんだん難しくなってきています。毎年毎年栽培者が減っていきそして皆同じように言います...年とった人にかわって働く人がいないんです。心配になって将来の紙の供給について彼にたずねますと、笑って心配しないようにと言います。彼は私の版画シリーズが完成するまで 7~8年は確実に紙を作ることができるでしょう。しかしその先は...彼は肩をすくめるだけです。
このあとのニューズレターで山口さんのことをもっと書くつもりです。和紙は、私の仕事で大変重要な部分をしめています。版画には、他の紙を使うことは絶対にできません。摺りの過程でしめった紙の裏をくり返しこすれば西洋紙や弱い和紙のほとんどはだめになってしまいます。楮が材料です...山口さんがそれを紙にします。彼の紙を使って版画を作り始めてから、完成した版画を山口さんの所に送り続けています。私は、彼がどんなに重要な役を演じているかということを十分に意識してほしいと思います。通常は、ひとたび紙が山口さんの手を離れると二度と見ることはありません。しかし私は、山口さんが桶の前に立っている時に最終作品を心の中に描いてほしいのです。この版画シリーズの企画の一つの大きな楽しみは、木の皮、鉄のかたまり、土のかたまり、鮫の皮、竹の皮、とあげていけばきりがありませんが、これらから作られていくものの全課程を見ることです。
次に版画を受けとられた時に紙の右端を見て下さい。和紙山口和夫という言葉がすべてを語っています。
もっとも古い伝統への献身に対して山口さん御夫妻に心から感謝いたします。
『百人一緒』の春号(#3)で、私は、絵の描かれた薄い紙である版下を貼ってそれぞれの版木の準備過程について述べました。今回は、彫りに使う道具そのものについてみていきたいと思います。
現代のやり方で彫りをしている人は、驚くほどいろいろな刃やノミを用いますが、過去に生きることを選んだ(少くとも過去の仕事をする)私達少数の者は一般に、より限られた道具を用います。サイズがいろいろあり、仕事の進み具合における細かさに応じて選びます。 もっとも重要で、彫りの心となるのは、刃です。歴史書によると、その昔、大刃と一緒につけた小刃にさかのぼり、まさに年とった彫り師のうちにはそれを『こがたな』と呼ぶ人がいます。実際、日本の刃のある道具はすべて二層の鋼鉄を合わせて作られています。炭素の含量がそれぞれ違っており、一層は特に刃の切れを出し(しかしもろい)、もう一層はそれを助けて、強さと、弾性を与えます。もちろん、日本の金属仕事の技術は、何百年の間に一段と進歩しました。そのもっとも有名な例はかたな作りですが、日々使われる木彫り用の刃でさえも、基本的には同じ過程を経て作られます。
刃は信頼できる道具で、彫り師自信が毎回研ぎ、石のようにかたい桜の木にシャープな切り入みを入れることができます。考え方は単純で、『黒い線のとうりに彫る』ですが、数え切れないほどのコツやテクニックがありそのほとんどは、自分で発見することによって得ましたが、又何人かの彫り師の方にも教えていただきました。私は少しづつ、私の使う刃は木をひっかく金属の一片ではなく、字や線を書く書道の筆のように考えるようになってきました。
全部の輪郭に刃を入れ(これには何週間もかかります)それから周りのいらない部分を『丸ノミ』を小槌『コヅチ』でたたきながらけずっていきます。床はたちまち木くずでいっぱいになります。彫り職人の伊藤さん(将来このニューズレターで紹介させていただくと思います)の仕事を見せていただいた時のことを思い出します。彼は、広い丸ノミと巨大な小槌を用いて、細かく彫った部分に数mmの所まで版木を削っていきます。仕事をしながら私と話し、時として、ノミがどこにいくか見てさえいませんでした。
この段階が終わると、彫り師は『間い透き』又は『平ノミ』を用いて、彫った線の間に残っているいらない部分や、丸ノミで削った部分をきれいにしていきます。私の間い透きは巾が 3mmから0.5mmのものまであります。時として、非常に広い部分は、『相合ノミ』を用います。摺り師が『見当ノミ』で、紙をあてるガイドマークをつけますが、伝統的な彫り師にはここに述べた 3種類の道具で十分です。これらのシンプルな道具の手入れ方法や使い方を学ぶのはとても楽しいことです。そして私が伊藤さんの年令に達した時には、これらの道具に慣れ親しんでいるでしょう。その時まで、よく見て、練習して、長年の間には伝統的な彫り師の技術を獲得するようにつとめます。そんなに長く生きられるでしょうか。
このニューズレターの発行がおそくなった理由がもう一つあります。日本語への翻訳は今回はカナダで行われました。 9月の始め、妻の三千代がバンクーバーのブリティシュ・コロンビア大学に学生として入学したからです。二人の娘と私はここ羽村にとどまります。三千代は、いつも私に対して二番目の存在であるよりも何かを成しとげたいと思っていました。そして今、私達の娘は少しばかり独立できる年令になりましたので彼女は又、始めることにしました。彼女にとって、カナダ人の学生と一緒に勉強するのは大変なことですが、それをやってみようとしています。そして彼女には私達という強い味方がついています。(しかし、今度の電話とfaxの料金を見るのがこわいな...)