デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Winter : 1990

こんにちは、『百人一緒』の続きです。 これをまとめるのに 3ヶ月しかかかりませんでした(初刊は、一年以上かかりました)。これからは、一年に 4回の発行になりそうです。この企画にかかわりのある、職人の紹介や版画製作のいろいろな面についての説明をしていきたいと思います。もしこれが、その和訳をするのに私の妻をあまりうんざりさせなければね。彼女は、時々不平を言いますが、私が英語の説明文を彼女の机の上におくと、いつでも彼女の医学の翻訳の仕事をわきにおしやり、私の仕事をしてくれます。彼女の協力なしで、自分でこのささいなニューズレターを発行することはできないので、彼女の助けを感謝しています。

今回は、私の彫刻刃を作ってくださる方に会う為の新潟への旅、このページの紙の縁のまわりの数字にどうして特別の順序で丸がついていくかについての説明、版画収集家の紹介、及びこの企画がいかに始ったかについてです。

初刊についての親切なご意見ありがとうございました。 このニューズレターが、あなた方の少しづつ増えていく版画の収集に興味をそえるようにがんばります。 あなた方からのおたより楽しみにしています。

その2:春章の本

春章の原本を見に出かけました ... 東洋文庫は、わかりやすい場所で、東京本駒込の有名な六義園の近くにあります。 私は、その本を見せてもらえるだろうとはあまり期待していませんでした。 というのは、以前、他で版画のコレクションを見せてもらうことができなかったからです。 シカゴの Art Institute、 カナダの Royal Ontario Museum、 又 太田美術館及び東京の国立美術館でも、そこにしまってある版画のいくつかを見せてほしいと思いましたが、許可されませんでした。 彼らは、同じことを私に質問しました...『あなたの大学はどこですか』。 そして、私に学位がないのがわかると、そそくさと会見は終わりました。

東洋文庫では、そのような問題はありませんでした。 スタッフの方が私の希望に耳をかたむけ、地方の図書館長からの手紙を見てくださいました。身分証書用紙にいろいろ書き込み、私は中に入りました! 私は、そこのカタログシステムに慣れていなかったので、小山さんが、必要なカタログ番号等を見つけるのに時間をさいてくださいました。 私の研究の為にその本を持ってきて下さり、テーブルに本を置くと、それを勉強する為に一人にしてくださいました。

そう、やっとたどりつきました。 長年本でいろいろな浮世絵版画の複製の研究をしたり、展示会で遠くからじっと見たりしましたが、今『本物』を手にしているのです。 そしてそれはとても美しく、江戸時代の版画を、本の挿絵でしかみたことのない人や、どこかの屋根裏で見つけたぼろぼろの古い版画を調べたりしている人には、それらがどんなに美しいか、想像できないでしょう。 それは版画の表面に単に芸術家のデザインを見ているというのではなく、それを作るのに手をくだした全部の職人の専門技術の蓄積を手に持っているのだということです。 紙のやわらかさ、摺り師の手のひらで圧迫されてできた浮き出し、やわらかい色のとけあい...これらのほとんどがどの版画についての本にも表われてはいません。 私の版画や、今日作られている他の版画が古い版画の美にちかずくことは出来るが、古い版画の渋みを持つにはあまりにもぱりぱりで新しい。 新しい版画の紙のドーサがやわらかくなり、そのようなフィーリングが出るまで十分にやわらかくなるにはかなり年月がかかるでしょう。(あなたよりも、お孫さんの方がより版画を楽しむでしょう)

私は、数時間その本のページをめくるのに費し、だんだんと春章の作品に親しんでいきました。 前に図書館で小さな挿絵を見た時に感じたと同じ思いにうたれました。 それは、あたかも春章が、一人一人の歌人の性格のちがいを出そうとしているかにみえました。 これは、私が見なれているほとんどの浮世絵の顔がその個人的表情にとぼしいのに対して正反対です。 誰もが有名な春信、歌麻呂、北斎、等は、知っていますが、春章については専門家以外はあまり知らないようです。

あまりにも早く家へ帰る時間がきて、最後にもう一度ページを繰ってから、残念ながら本を返して、その場を離れました。 家に戻って、羽村図書館から借りた本をみながら春章の本の最初のページ、天智天皇の複製を作ろうと決心しました。 この時点では、これらの版画シリーズを作ろうという考えはまったくなく、単に私がおもしろいと思った版画を作りたいと思っただけでした。私は、その本から版下を準備し、版木に貼りつけて彫り始めました。それは、1988年の一月で、一年後の1989年の一月に出来あがりました...

... 続く ...

山下巌さん

私の版画を集めて下さっているある方々は、一年のセット10枚で満足だと言われます。 又、他の方々は、 100枚のシリーズを集めるのに熱心なばかりでなく、私が作り終わるのを持ちかねています。 私達の隣町青梅市の山下巌さんは、そのうちの一人です。 彼は本棚の空っぽの大きなスペースを見て、いつになったらいっぱいになるのだろうと思っておられます。

日本美術界では、版画はつねに絵画の後に位置し、私のお客さんの中にも日本画の収集家がたくさんいらっしゃるでしょう。 山下さんも、松下紀久雄、川合玉堂、田渕俊夫 といった有名な人の絵を壁にかざっているといった収集家の一人です。 時々、私が山下さんご夫妻を訪ねると、最も新しく手に入れられた作品を見せて下さり、私は、彼らのプライベートなホームギャラリーを楽しみます。 私の版画が、彼らのコレクションに加える価値があると認めて下さるのをとてもうれしく思います。 そして、私の版画がそのような有名な絵にまじっているのは心があたたまります。

山下さんは、単に私の版画のお客様ではなく、版画をあなた方の所へ届ける一役をもになってくださっています。彼は、輸送用コンテナーを作っている会社の社長さんで、毎月私があなた方の所へ送る包装用材料は彼の所から購入します。 通常、少量必要とする客とはとりひきをされませんが、山下さんのスタッフの方々は、ご親切にも私の為にダンボールを用意してくださいます。

私達一家は、一年以上も援助してくださっていることにたいして山下さんご夫妻に感謝します。 彼らは又、より形に現れない方法で助けてくださっています。 彫り台にすわっている時、出来あがった作品を検討されている鋭い眼をした山下さんのような収集家の存在を意識しています。 そのようなお客さんでは、いかなる不注意な仕事もできないし、私ができうる限り高い水準に保たなければなりません。 私達皆は、彼の眼から利益をうけます。

山下さんご夫妻に対して今までのご援助感謝します。  100枚になるまで一緒に行きましょう。

刃物職人 - 碓氷金三郎さん

国境の長いトンネルをぬけると...まさに川端氏が見たよりずっと長いトンネルで、又 彼が乗ったのよりずっと速い列車であった。 私の彫刻刀を作って下さる職人さんである碓氷金三郎さんの仕事場を訪ねるのに上越新幹線に乗りました。 小説と同じであると確認するには、残念なことに季節は五月の下旬でした。 町について、バスからおり、彼の仕事場へと歩き出しました。 私が雪国にいるのだと知らせてくれるものは、店の前の歩道を覆っている屋根と冬に連続的に働いて雪がつもらないようにする道の真ん中のスプレーのノズルでした。

版木をけずる職人である東京下町の島野さんを 2ヶ月ほど前に訪ねたのは、タイムマシーンで過去への旅でした。若いグリーンの稲が浅い水の上に顔を出している有名な新潟米の田んぼに囲まれたここ新潟では、何を見つけるでしょうか。

それは、12時前で、仕事場の入り口で『ごめんください』と言ったけど誰も答えません。 私の声が聞えたとは思いません。 地面そのものが震えており巨大な機械のハンマーが薄暗がりの中で白熱した金属板をたたいている。私は、前に進みます、そして碓氷さんが炉の口と巨大なハンマーがくり返し落ちている金床(かなとこ)の間に立っているのが見えます。 彼は、白熱した鋼鉄の板を炉の火の中から一つ一つひき出して、子供が粘土をこねるように彼の好みの形にする為に金床の上に置いている。 機械のドシンと落ちる力がすべてを支配している。 それは変わらぬリズムで打ち続け、まるでひどい機械のドラマーが、地中深く打ち続けようと決心したかのようです。 碓氷さんが顔をあげ、私にうなずいてから、彼の仕事を続けます。 この騒音を、彼はいかにしてがまんしているのだろうか。 ついに最後の金属板が炉から出て、ハンマーの下に置かれ、それから冷やすために前のと一緒に床に積みあげられる、ハンマーは止まる。私達は話すことが不可能です。 私の目は、その部屋が静かになったことをつげるが、私の脳は信じないようで、話が出来るようになるまで、いくらか時間がかかりました。

私達は、仕事場を通って、小さな応接室へと行きます。 私達二人を小人にしてしまうような巨大な機械がならんでいるそばを通ります。 私は、炉や金属仕事の基本的なことは知っていますが、そこにあるほとんどの道具が何であるかわかりません。 それらは、コントロールパネルやボタン、ビデオスクリーンで、明らかに日本の工場の、自動化テクノロジーの最新のものです。この日の午後に従業員の一人が、これらの機械を操作して、完全に自動的に、まるで私の妻がよくできたダイコンでも切るように、かたい鋼鉄をつかんで、動かして、切り、削るのを見せていただくことになるのですが。 私は、まさに又タイムマシーンに乗ったようですが、今回は、未来へのボタンを押したようです!

碓氷さんは、非常に親切で、私達はすぐにスチール炭素量、焼き戻し温度、鍛え方について深い話に入っていきます。 彼はこの仕事の三代目で金属の鍛え方について長年研究しています。彼は、いろいろなタイプの鉄やスチールの顕微鏡写真をひき出し来て、なぜある特定量の炭素が金属にまじっていなければならないか、又 特別の温度で鍛えなければならないかについて説明をしてくださいました。 何も『秘密』はなくあるのは長年の手による経験によって得られた深い知識です。 昨年彼が、私に送ってくださった刀は他のメーカーから得たものと、比べものにならないほどすばらしいものでした。 浮世絵の仕事では、細い線を彫るのに可能な限り刀がよく切れなければならなく結果として昨年の六枚の刀は小さく減ってしまいました。 碓氷さんは、小さな包みをあけ、もう12枚の刀を取り出します。 彼は、これらを私が欲しかった二本の大きなノミと一緒に私に下さいました。 彼は、お金を受け取ろうとはしない。 支払いをしょうとすると、これらは通常の仕事ではなく、このような道具を作るのを仕事にしょうとは、もう思っていないと話されます。 この国の他のビジネスと同じように、絶対的に労働者が足りません。 これらの刀を作る仕事は、労力がいり、小さな市場が必要とする製品を作るには時間がありません。

労働力の問題は、仕事場に見られるたくさんの巨大な電動機械の使用になりますが、残念なことに、彫師の仕事用の器具はこれらを生産するのにそのようなテクノロジーを用いる為のプロセスを開発するにはあまりにも市場が小さすぎます。

私は、このことをずっと考えていました。 そして、将来ここに戻ってきて、私自身、炉の中をのぞき込み、桜色のスチールの温度を見積もって、碓氷さんの監督下に、私の好みの形や厚さにたたきたい。 碓氷さんどう思われますか。 私がどうやって刀を作るかを学ぶことが出来ると思われますか。もし碓氷さんに時間がおありでしたら、私はやってみたいと思います。

その日の午後おそく、碓氷さんからのお土産と彼の親切なもてなしの思いを抱いて駅へ戻り、飛ぶように東京へ向かいます。 私が、持ち帰ろうとしているこれらの貴重な刀は、4〜5年中にその一生を終り、そしてあなた方が受け取られている版画が生まれます。これらの版画の持つ魅力の大部分は、繊細な彫りにより生まれます...繊細な彫りは、刀の切れ味や弾力性によります... これは、碓氷さんの職人としての深い知識によります。

碓氷さん、どうもありがとうございます。

10人組の歌人のマーチ ...

私の版画を集めてくださっている多くの方々にどんな順番に作っているのか、又 何故伝統的な百人一首の順番を変えたのかと聞かれます。 私は伝統的に一番である天智天皇から始めて順徳院で後るつもりですが、その間は ...?

伝統的百人一首の順番は基本的に年代順で 600年半ばから1200年の初期まで 6世紀にわたっています。 この順番は、百人一首が完成した時(1200年代)からなのか、又はそれ以後なのかはわかりませんが、今ではその順番は確固たるものです。 しかし、残念なことに、私の計画からするとおもしろくありません。 たとえば、56番から62番までは女性歌人が続き、他の部分では、 3人の僧侶が続いております。又 8人の天皇のうち二人は始めに、他の二人は終りにきています。 この企画を計画していた時、 7人の女性歌人を 7ヶ月つづけてお客さんに送るという考えはばかげていると思いました。

そこで、私は百人一首を調べてみました。 21人の女性歌人と79人の男性、細かく分けて 20人の女官、8人の天皇(一人は女性)、13人の僧侶、59人のいろいろな男性(参議、天皇の大臣、他)だとわかりました。 100人の歌人を10のグループに分け、バランスよく魅力的にし、各10枚のセットをその年の版画製作にしようと決めました。 各版画の小さなコピーを作り、床に広げて仕事にかかりました。 そしてそれは、うまくおさまりました。 20の女官を二人づつ各セットに入れました。春章は、11人を立ち姿に、 9人を座り姿に描いたので、興をそそるように分けるのは容易でした。 各セットに僧侶を一人入れました。  8セットに天皇が入り、残りの 2セットに僧侶が二人づつはいりました。 おもしろいことに、59人の男性(残りの僧侶も含めて60人)は又 バランスよく30人が座わり、30人が立っていました。

バランスのよいセットにし、基本的に男性、女性、立っているの、座っているのに加えていろいろなポイントを研究してパズルを解くのは、おもしろかったです。 左を向き、右を向き、明るい色、暗い色の着物、いろいろな季節の色、幸福な表情や悲しみの表情、同じような着物のもようを避けること、又、それぞれの雰囲気(愛、孤独、季節、等)の歌を含めるようにしました。全部をバランスよくするのは不可能ですが、わりあいとおもしろい10枚づつのセットが出来ました。 その結果には、わりと満足しています。 この10セットのサンプルを仕事場に置いています。

そこで、私の仕事は平成10年(1998)の終り頃まで、完全に準備されています。 あなたの一番好きな歌人を次に作るという要求に応えられなってごめんなさい。 (最近一人の女性にたのまれましたが)、しかししんぼう強く待っていてくださるとおそかれ早かれ作ります。 さいわいなことに、 1年は12ヶ月ですが、10枚の版画だけ作りますので、何か不測の出来事が生じた場会にそれを処理する余裕があります。一方、すべてうまくいった場会には休暇がとれます。

百人一首を作るのにまだあきないかという質問に対しては、単に笑わざるを得ません。 毎月が新しい挑戦で、毎回進歩していると感じられるかぎりは興味を失ってしまうことなどありえません。  100枚仕上った時には、私自身を職人と呼べるレベルに達したいと思います。

私は、1998年の12月に大きなパーテイ開きあなた方全部を招待するのを夢みています。 その時までどうぞ版画を楽しんで、コメントや批判を送って下さい。 そして近くにいらした時はどうぞおより下さい。

印刷屋さんが遅れなかったら、これがあなた方に郵送される頃には、私達はまだカナダにいます。 ロスアンジェルスとバンクーバーでの版画製作実演を終え、古い友人を訪ねたりしてから、翌週羽村町へ向かいます。 新年のあわただしさが終ると 1月の展覧会の準備が始まります。 すべて準備がととのうと、又 材料や道具を集めてこの版画シリーズの三年目の仕事にかかります。 20枚終りました...たった80枚残っています。

それでは、又...