デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

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'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 1990

はじめまして、百人一首版画シリーズ通信『百人一緒』の初刊です。 特にこの版画シリーズの企画を始めてから、このように仕事について書いた、ちょっとしたものを出そうと考えていました。 今まで 9年間、版画製作について学んできて、真におどろくべき分野であるということがわかりました。そして、私が発見したいくつかの事を、皆様方と分ち合いたいと思います。

もちろん、版画そのものの実際の製作方法が主な話題となりますが、もう少し手をのばして、あなた方が集められている版画製作に関係している20人ばかりの人々を紹介してみたいと思います。 それは、バレンのあて皮にする竹皮を集める人。 彫刻刀を作る刀鍛治、桜の版木にカンナをあてる人(手で削る方が電動カンナよりもすべすべになる)、バレンを作る人、そしてもちろん和紙を漉くご家族の方々です。 漁師、石工、木の皮をはぐ人、ゼラチンを混合する方々についてもふれてみたいど思います。 又 215年ばかりさかのぼって、春章の原本である『錦百人一首あづまおり』が創作された当時の状況をいくらか調べてみたいと思います。

実際、これらのこと全部を考えてみますと、これらの話を紙に書くことは実際に 100枚の版画を作るのと同じほど長くかかるということに気がつきました。私は版画製作の能力には確信をもっていますが、その背後にある話をまとめてあらわすということに関しては、あまり定かではありません。 どうであるにせよやってみようと思います。私の書き方がエレガントでなかったり、又説明がどこかへそれてしまってもがまんして下さい。 私にはワープロを使うよりも彫刻刀を使う方がむいています。 さて、それでは始めましょう。

その1:初めてのカルタ

さて、どのようにこの版画の企画が始まったのでしょうか。

私はこの問いに答えることから始めたいと思います。というのは、私が会うほとんどの方々に聞かれることだからです。さいわいなことに、これに答えるのは簡単です。というのは、 2年前この企画が始まろうとしていた頃、同時にいろんなことをうまくまとめていく為に日記をつけ始めました。心配しないで下さい、私の日記を読んで下さいというわけではありませんから。しかし、私の考えをまとめるのに参考になります。

この企画の種子は、1988年の一月に、私の妻の三千代が、私達の小さな娘二人を祖父母のいる三重県に連れて行った時に蒔かれました。 羽村町の私達の友人である坂崎さん一家が、『正月バチェラー』をあわれんて、夕食に招待してくださいました。 (実際は平和と静けさを味うのもよかったのですが、夕食への招待は魅力的です)。 その夕べ、彼らは、カルタをもち出して、その遊びを教えて下さいました。カルタについては、聞いたことも、見たこともありましたが、やってみたことはありませんでした。 カルタのゲームはとてもおもしろく、隆義さんや、久美子さんに負けたり、小学一年生のアヤネチャンに負けたのは、はずかしくありませんでしたが、保育園児のゆうきちゃんとはどうであったかは聞かないで下さい。

その週未、三千代と娘たちが三重県から帰って来て、又カルタ遊びをするのに坂崎さんを訪ねました。 三千代は、歌を思い出すのにちょっと真剣になりました (学生時代はよくおぼえていた)。 そこで、私は近くの図書館から資料を借りてきました。 何冊かのすばらしい本で、平凡社の『歌留多』という本も含まれていました、この『歌留多』には、有名な尾形光琳のも合めて、たくさんの百人一首の挿し絵のセットがのっていました。 私の目をうばったのは、勝川春章の挿し絵による版画本のシリーズでした。 この版画は非常に小さくのっており、はっきりと見るのはむつかしかったけれど、そのうちの一枚は天智天皇で、これはページいっぱいにその挿し絵がのっていました。 それはとてもすばらしく、これらの絵をもっと調べてみようと決めました。 図書館員の方々はとても親切で、東京都内の研究図書館である東洋文庫という所に、春章による原本があるということを見つけて下さいました。 図書館長であった下田氏が私の為に紹介状を書いて下さり、このとても興味深い本を手にとって見る為に出かけました。

... 続く ...

長文さん

いろいろな人生を歩いている方々が、私の版画に興味をもって下さるということが少しづつわかってきました。 そこでこの小さな通信を出す毎に、その方々の一人を紹介したいと思います。

どなたをまず選ぶかということは明白で、それは、最初のお客様である、ここ羽村町の寿屋ベーカリーのオーナー長夫妻です。 私達は、二年ほど彼らのお店で買い物をしてきましたが、1989年 6月の読売新聞の地方版にのった私の新しい百人一首シリーズの記事を読むまでは、私が版画家であるとはご存じありませんでした。 ご夫妻は、私の版画を見たこともないのに定期購買者になってくださいました。

日本に来て以来、私は『日本の働きバチ』になったようで、三つの仕事、(版画製作、英語教師、リライター)を抱えて、一日12〜16時間働いていますが、このご夫妻に比べると、私はまったくのなまけもののように思えます。彼らのベーカリーには、24時間明りがついているかのようです。 早朝から夜遅くまでどんな時間に通りかかっても、彼らはいつでもをそこにいて、私の家族の為に食べ物を準備してくださっています。 長さんは、パンは神様の贈り物だけれど、仕事は悪魔の贈り物だと言われます。

長さんのご家族は、私の版画ばかりでなく、この地方の芸術家の絵や書を、ベーカリーにかざって、小さなギャラリーのようにしています。 彼らの自由な時間は、とても限られているので、芸術を楽しむには仕事場にかざっておくのが一番なのだと思います。

私の仕事を支えて下さることに対して、長夫妻に深く感謝致します。 そしてベーカリーのカウンターごしばかりでなく、個人的にも話し合うことが出来ればいいなと思っています。 もしも羽村を訪ねられることがありましたら、彼らのベーカリーに寄って、グラハム食パンを試してみて下さい。 私の二人の娘は、それを食べて育っています。

版木職人 - 島野慎太郎さん

今春、ある晴れわたった日、妻と私は、私達自身の仕事をはなれて、私の版画製作に必要な桜の版木を作ってくださっている島野慎太郎氏を訪ねてみました。 島野氏は、とても忙しい方ですが、ご親切にも、いくつか質問に答えてくださったり、仕事を見せてくださるのに時間をさいて下さいました。

島野さんの仕事場に一歩入ることは、何か違った世界へ入っていくようです。小さな部屋の中は、カールしたカンナくずや、桜の端材が腰の高さまで積みあげられています。 2ヶ月程前の一年のうちでもっとも寒い日にはこの部屋は桜を燃やす匂いで満ちていたにちがいありません、というのは、毎日、山のように木の切れはしを作っている人が、他にどのような暖房用燃料を必要とするでしょうか。 古い鋳鉄のストーブは、今は冷く、戸は春の空気の中に開けはなたれています。 この部屋の真ん中のほんの小さなスペースだけがそんなにちらかってなく、ここに彼のでっかくて、厚い桜の『あて台』が置いてあり、その上には、カンナでなめられかに削る為の桜の板がのっています。 彼はこの『祭壇』の前の薄い座布団の上にあぐらをかき、よくといだカンナを繰り返し動かして、徐々にいらない粗い部分が削られ、人が想像出来得るよりももっとなめらかな面が出来あがります。 電動カンナは、このやっかいな木に対して、そのように正確な仕事を成し得ないし、又、サンドペーパーも必要とする堅い表面になるような仕上げはできません。

各版木が、五つの違ったカンナにかけられるにつれて、カンナくずはだんだんと薄くなっていきます。 私はよく見る為にこれらのいくつかを手にとってみました。 そのカンナくずは透明に近く、実際にそれを通して新聞を読むことが出来ました。

島野さんは、今53才で、世界中でこの仕事をやっているたった二人の人間のうちの一人です。 もう一人の職人さんは80才台で、島野さんは、将来ある時点でたった一人の伝統を受け継ぐ者となるでしょう。 彼はまさに、浮世絵製作者という『危機に頻している種』の時のゆがみの中で立ち住生している男達のグループ、機械印刷が日本に入って来た 100年あまり前に滅びでしまうべきであった職人の一人である。どうして彼は今なおその仕事をしているのでしょうか。

島野さんは、父親のあとを継いでこの仕事につきました。 彼はこの部屋の中でカンナをかける仕事をする家系の三代目で、そして最後の代となるであろうと想像されます。 島野さん自身仕事を止めることなどありえません。それは彼の仕事であり、彼の出来得る最上の仕事にほこりをもっています。又浮世絵の世界に対しての責任という問題もあります。 50〜60人以上の彫り師、摺り師、及び版元が、それぞれの仕事を続ける為に完全に彼にたよっています。 もし島野さんが仕事をやめようと決めると彼らは(私も合めて)仕事が出来なくなってしまい、 300年前に生まれた浮世絵は、その最後のおじぎをすることになります。

島野さんは、彼の仕事に対して何ら栄誉を受けていないし、人間国宝でもありません。 浮世絵がかって栄えたまさにその他(北済の墓はすく近くの角にあり、春章のは少し歩いた所にあります)に、彼の仕事場は植えつけられ、毎日、毎日、彼はカンナで、これらの堅い版木の上で際限なく働きます。島野さんの友人で、隣人の彫り師石井さんがおしゃべりをするのに立ち寄ります。 版元は版木の注文の電話をかけてきます。 通りでは、学生時代の友人であり、竹皮職人の金子さんに出会います。 これらのすべての人々が島野さんが元気に仕事されることを願っています。 そして私も、又あなた方もそうすべきです。 彼の献身なくしては私達はすべてを失ってしまいます。

島野さんどうもありがとうごさいます。

版下準備

この仕事でもう一つよく聞かれることは、私の版画と原画との類似です。私の版画はまったく同じでしょうか。実際どのようにするのでしょうか。

私は原本を持っておりません。初刊の本(私が複製しているもの)は、ほとんどありません。私が見つけたのは、たった二冊で、一冊はロンドンの大英博物館にあり、もう一冊は、東京の東洋文庫にあります。後で出された本(絵は同じですが、歌は春章のすばらしい書ではありません)はもっと出まわっており、東京や、ロンドンの、めずらしい本の店で、時として買うことができます。東洋文庫の援助により、私は、その本の各ページの写真をとらせていただきました。そしてその写真フィルムから東京の写真技術社に拡大写真をたのみます。私の版画の大きさが、上下 366ミリになるように拡大します。これは原本の1.68倍の大きさです。

次のステップは、この写真を版木にうつすのに適した、大変薄い紙にコピーすることです。 大変薄い、デリケートな和紙を普通のコピー用紙に貼りつけます。 この紙を用いて、非常に性能のよいコピー機で、大きな写真のコピーをとります。 それから和紙(写真がコピーされている)をコピー用紙からはがし、版木に、面を下にして注意深く貼りつけます。 この過程により、江戸時代の版画が、私の版木に反対に貼りつけられ、彫るばかりとなります。


江戸時代の彫り師が、コピー機を使わないで、いかに彫ったかと不思議に思ってられる方は、その当時の彫り師は、複製をしていたのではないということを思いおこして下さい。春章は、非常に薄くて、強い和紙に原画を描き、それが元の芸術作品でありますが、これを版木に貼りつけました。それはまさに薄い紙で、最も上手な彫り師だけが、版木に貼りつけることが出来ました。もし彼らがその仕事をやり損なうと(私は数回やり損ないました)その芸術家は、始めからデサインをやり直さなければなりません。

だから墨のアウトラインと書は原画に非常に近いです。色については、又話が別で、次に話したいと思います。

さて、今回はこれまでにしておきます。 次の発行はいつになるかわかりませんが、そんなにおそくならないようにと思っています。 私は、あなた方のコメント、批判、寄稿を待っております。 というのは、あなた方からのフィドバックを通してのみ、私の仕事がいかに受け入れられているか、はかることができます。 もし何か版画製作、又はこの全企画についてお聞きになりたいことがありましたらどうぞご遠慮なくお知らせ下さい。 仕事中に『じゃまをする』などとはご心配なさらないで下さい。 彫りも摺りも非常に『孤独』な仕事なので、気晴らしはいつも歓迎です。 近くに住んでおられる方は、仕事の進み具合を見るのに、いつでも私達のアパートにお立ち寄り下さい。 東京から遠くに住んでおられる方は、電話で予定をお知らせ下さって、こちらにいらした時にどうぞお訪ね下さい。

私達の所へいつでもどうぞ!!