デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。

ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。

41号から最新号まで

1号から40号まで



Categories:

'Hyakunin Issho'
Newsletter for fans of David Bull's printmaking activities
Autumn : 2010

前回は、発刊20周年を記念する号でしたが、今回はもっと重要な意味を持つ節目についてお伝えすることになります。

このニュースレターは(日本国内だけですが)11月1日までに皆様のお手元に届くよう手配しました。この日が特別だという理由は?答えは、「一里塚」に記載してあります!

そこをお読み頂く前に、今号の最初の話は「職人を訪ねて」となっています。以前、このコーナーは年に2回ほど掲載していましたが、最近は私の都合で休みがちになっていました。毎号に載せるというお約束はできませんが、ま、とにかく再起動したところをご覧ください。

3番目は、このコーナーと重複する感のある話です。現在も活躍している職人を訪ねるのではなく、「版木を巡る」と題して、職人の「功績」について書いています。

そして最後は、いつもの「貞子のコーナー」で締めくくります。今回も楽しくお読みいただけますように!

職人を訪ねて

木版画の摺師に、仕事をする上で一番大事な物を尋ねたら、決まってこう答えることでしょう。「私のバレンです!」演奏家が、楽譜を音にして表現する道具としてバイオリンを使うのとまったく同じように、バレンは摺師が頭に思い浮かべることを具体化させる手段なのです。また、安物のバイオリンとストラディヴァリウスとでは、奏でられた音楽が違ってくるように、熟練職人によって作られたバレンで摺ると、品質の劣る道具を使うよりも遥かに満足できる作品になるのです。

木版画の世界には、ストラディヴァリウスのような存在はありませんが(木版画職人は、いつも無名のまま仕事をしてきましたから)、自分たちの使う道具の品質はすぐ分かります。摺師は、仕事をする日には朝から晩までバレンを握っていますから、ちょっとした欠点や不安定さがあると、我慢ができないのです。バレンの品質は、私たちが妥協を許さない―できない―物のひとつです。

伝統工芸に類する事柄について記述するとき、私たちは「古き良き時代をしのぶ」ような不満を、もらしがちです。でも、バレンの入手に関する限りそのようなことはないとお伝えでき、とても嬉しく思います。本バレンを作る技術は、後藤英彦さんがしっかり継承しているからです。神奈川県大磯にある彼の自宅には、必要な道具で周囲がびっしり囲まれているため、かろうじて座るところを残す、というほど小さな工房があります。私は、先週彼を訪ねてきました。

これから書く内容は、バレンの作り方ではありませんが、2段落を費やして紹介するその「レシピ」をお読みになれば、彼の仕事の意味を理解していただけることでしょう。

バレン作りの土台となるのは、厚さ数センチの円盤で、その上にとても薄い(本当に薄い)円形の和紙を軽く貼付けます。翌日、その上に再び、土台の縁を覆うように和紙を貼付けます。次の日にまた1枚。作りたい形になるよう、直径を変化させて1日1枚を重ねていき、およそ50日続けます。更にこの上に、キメの細かい絹地を重ね、最後に純粋な漆を何層にも重ね塗りします。最後に土台から切り離して仕上げをすると、当て皮(バレンの覆いの部分)の完成です。

でも、労力のほとんどを占めるのは、この道具の「実働」部分となる芯を作る作業です。使えるのは、選び抜かれた竹の皮の、ほんの小さな部分です。それを湿らせて、幅1ミリ程のとても細い紐状に裂きます。この紐を何千本も使って撚りながら繋げ、それを更に撚りという風にして、長い綱のような状態にします。この「綱」をきっちり巻いて糸で固定し、すでに作ってある当て皮の内側にはめ込みます。こうしてできたものを、竹の皮1枚を使って包むと、やっと摺れる状態になります。

この「大仕事」を、たった2つの段落にまとめてしまい、後藤さんが気を悪くしないといいのですが!でも、彼がここまで到達するのにどれほど膨大な研究と練習を重ねてきたか、皆さんは理解してくださることでしょう。実際彼は、何年もかけてこの技術を身に付けたのです。後藤さんがバレンについて習ったのは、摺師の訓練を受けていた頃で、伝統に習い、自分でバレンを作るよう言われたからです。それが引き金となったのでしょうか、道具を作るということが彼の興味を引き、私(他の摺師たちも)にはとても有難い結果となりました。

もしも私が本職のレポーターとしてこの記事を書くのなら、自分の意見や感情を入れることは許されないのですが、幸い違うので自由に記述できます。彼の工房に入り込んで部屋を見回すと、必要な道具などが見事なまでに整然と配置されています。長くて複雑なバレンの制作行程のひとつひとつを、どれほど慎重に行っているかが見て取れ、心底感動してしまいました。私は、あちこち触ってみたい気持をなんとか押さえましたが、自分を囲む素晴らしい道具や材料を使って、私もバレン作りを始めたくなったほどです。ここが気に入ってしまいました!

嬉しいことに後藤さんは私と同じ意見を持ち、知り得た情報はできる限り公開したいと考えます。そして今年の夏、バレンとその制作方法についての本を出版しました。制作行程は、細部にわたって実に緻密に説明されています。そのため、秘伝の技として残したい他の職人から批判されもしました。職人同士が競争相手であった昔なら、それも一理あるでしょうが、貴重な技が失われつつある現代に同じ事をするのは愚かなことです。

私が訪ねている間も、「秘密にしない」利点をお互いに確認し合いました。私は自分のホームページに掲載してある、明治時代のバレンの写真を彼に見せたのです。このバレンは外国の博物館に寄贈されたもので、1894年にアメリカで出版された本にあった写真をスキャンしたものです。丁寧に観察すると、制作者の名前と当て皮の重さが書かれていました。これはとても重要な情報で、明治時代に使われた道具の写真は現在日本に残っていないため、とても貴重な資料として後藤さんの研究に大いに役立ちます。もう疑う余地などありません。情報は公開して、分かち合うのが一番です!

彼の工房には、出番を待つ竹の皮が、いたるところに積み重ねられています。撚ってバレンの芯として使用したり、包み皮として使ったりするためです。良質の竹の皮を手に入れること、これは後藤さんの悩みの種です。竹が生長する季節の気候が供給量を決める大きな要因になるためですが、それ以上に、最近は竹の皮を利用する人が極端に少ないため(バレン用であれ、昔の食品包装用であれ)、もう集めようとする人などなく、落ちて腐るままに放っておかれるからです。

このジレンマを解決する唯一の道は、もっと多くの人が木版画を楽しむようになることです。そうすれば、より多くの人が版画を制作するようになり、道具も、より良い品質へと需要が高まるからです。最近後藤さんは、外国からもバレンの注文を受けています。彼の作る素晴らしい道具を使う版画家が、ドイツ、イギリス、アメリカなどの国にいるからです。(後藤さんは、包み皮用の竹の皮などの版画用具も販売しています。)

後藤さんが継承している伝統が、少しずつ世界に広まっているので、私たちはとても嬉しく思っています。いつか、彼と私の双方に時間のゆとりが出たら、バレンを総合的に解説した彼の本を英訳して出版したいと思っています。ベストセラーになるような事はないでしょうが、掛け替えの無い貴重な知識の宝庫ですから、ロングセラーになること請け合いです!

後藤さん、伝統工芸への献身的な態度に感謝です!これからも、その調子で続けてください!

一里塚

最初のページで、11月1日が特別な日と書きましたね。その訳を、ご説明しましょう!

この日の朝9時頃、私の契約銀行が、指定の口座から自動引き落としをします。きっかり10年前に始まった引き落とし、今回が最終回です!そうです、青梅にあるこの家のローンの支払が完了します。遂に開放されました!

親から譲り受けた家に住み続けてきた人たちにとって、このようなことは特別ではないかもしれません。でも私の場合、40年ほど前に親元を離れてからはずうっと、「家賃」(後には「ローンの返済」)の支払は、毎月欠かさず私が直面する課題でした。

ですから、みなさんお分かりになるでしょう。月々の支払から開放されると同時に、私は「一国一城の主」となったのですから、気分は爽快です。

でも、だからといって御安泰と錯覚などはしていません。今まで目をつぶってきている要修理箇所がたくさんあるのですから。外階段はかなり錆び付いているので、大規模な塗装が必要ですし、屋根まで登るに任せていた藤のツルで樋が歪んでしまっています。また外壁パネルは、継ぎ目にできた隙間を塞いで再塗装が必要です。今は、かなりの額であった月々の支払が終わったので、これからはその一部をそういった補修に当てる予定です。(地元の塗装屋さんは歓迎ですね!)

これを読まれた方々のほとんどは、おめでとうと言ってくださることでしょう。(ありがとう!)このニュースレターの読者は、日本のみでなく海外にも多いので、この家が私の所有物となることの意味をちょっと説明したいと思います。

まず、私の両親の家と比較することから始めましょう。バンクーバーにある彼らの分譲マンションは、ゆったりした2DKで、比較的近代的なビルです。(バンクーバーに行ったことのある人は、スタンレーパークをご存知でしょう。両親の住まいは、そこから歩いてすぐのところです。)その住まいの現在価値がどの程度のものか、市場価格は上下動するので、私にはまるで分かりませんが、彼らが非常に「現金化」の可能な物件を所有しているということは、間違いないでしょう。もしも彼らが、住まいを売ってヨットで暮らすことを選ぶとしたら(これは、家族内でよく言う冗談ですが)、まったく問題なく実行できるはずです。このマンションに住みたいと思う人はたくさんいるでしょうし、価値相応の価格で売るのも簡単でしょう。

ここで、海外の読者が聞いて驚くことと思いますが、日本では事情が違います。私の家は、この辺り一帯の数件と一緒に1995年に建築され、3,600万円で販売されました。ところがほんの数か月前、たまたまここから数件離れた家が(所有者が高齢で亡くなったために)、300万円で売られたのです。ここ20年ほどは、日本中の土地価格は下がり続けていますが、この価格差が起きたのはそれだけが理由ではありません。

海外の人が当然知っていることですが、新車を購入したとき、その車を運転して販売所から出た瞬間から、価値は急激に落ちて行き、その後は日に日に下がり続けます。これと同じ事が、一般の日本の家屋に起きるのです。家の価値は下がりこそすれ、上がることはありません。私の家の場合、耐用年数は30年で、そのうちすでに15年が過ぎていますから、上物無しにでもなっていなければ、購入を考える人などいないでしょう。これが、数件離れた例の家に起きたのです。家は不動産業者によって買い取られた後ブルドーザーでなぎ倒され、そこに新たに家が建てられました。ローンを組んでその家を2,400万円くらいで購入した人は、新たなサイクルの振出し立つことになったのです。

こういった背景を知って、海外の友人はこう聞きくことでしょう。「ほとんど価値無しになることが分かっていながら、一体どうしてその家を買ったんだい?」

それには、いくつかの理由があります。まず、私が購入する時には最初の価格のほぼ半分という1,800万円で、月々の支払は当時払っていた家賃に少し上乗せする程度だったこと。二つ目の理由は、延べ面積がそれまで住んでいたアパートよりもずっと広かったこと。それから、当然のことながら、仕事場を持てますし、周囲には緑が広がり、近くには川もあり……という、経済的な条件以上に魅力ずくめでした。

さて、ここから先はどうなるのでしょうか。いくつかの「将来の可能性」について書いてみましょう。

もしも私の身に何かが起きて、娘達が早く家を処分したいと考えれば、手にする額はせいぜい数百万円でしょう。(私がお話した例と同じ状況です。)

私自身がここを売ってどこかに移ることにしたら、自分が支払った額のかなりの部分を取り戻せることでしょう。これは、すぐに決断した場合の事ですが。(思い出してください、30年の「期限」は刻々と迫っています。)それに、川辺に建つ「一風変わった」家に惹き付けられる、私のような「物好き」が見つかるかも知れません。でも、その場合は、かなりの努力をしなくてはならないでしょう。カワセミや早朝に出没する狐の写真を撮って宣伝したり、近くの森を散策することが気に入るような人を見つけたり、などなど。おまけに販売は、気候が温暖な春や秋に限り可能でしょう。11月になって「凍り付くような寒さ」がやってきたら……。

家の「価値」は心配せずここに住み、生活と仕事のための場所として使い続けること。時が過ぎるにつれて、家のあちこちにガタが来始めれば、維持費が嵩む事は避けられないでしょう。でも私は結構器用なので、少なくとも今後10年かそこらは、なんとか住める状態に保つことはできるでしょう。その先は……、分かりませんね。

当然のことながら、目下のところ現実的なのは3番目の案です。私はここに満足していますし、自分の仕事も気に入っています。それに、こうして経済的な圧迫感がかなり軽減されたのですから、(ローンの支払は私の総収入の4分の1を占めていました)今後のメンテナンスに掛かる費用を別枠に貯金し始めたいと思っています。正直、この家の価値など私にとってはほとんど興味のないところです。今まで、毎月末の数日前になると毎朝通帳を眺めて、収集家たちからの振込額がローンの支払額に足りるだろうかと、気をもむ必要がなくなったのですから!請求書が来ても、蓄えのある日がやっときたと願って……。

みなさんの祝福して下さる声が聞こえてくるようです。この10年間に私の作品を購入して下さった方々全てに、感謝申し上げます。バレンの力で家を自分の物にできる人はまれな現状ですから、私はとても満足しています。でも、このために為してきた仕事のことを考えると……、1枚毎に1色ずつ……1枚1枚、そしてまた1枚……その紙が形を変えて……私の家に。信じられないほど凄いことです。折紙の妙技のようです!

みなさんの応援に感謝!

版木を巡って

私が日本に移ったのは1986年ですから、もうかれこれ24年になります。日本に来たのは、それが初めてではありませんでした。2ヶ月の日程で2回滞在しています。当時はカナダの楽器店に勤めていましたが、次第に日本という国と日本の版画への興味が増していきました。その2回は、ほとんどが日本の概略を知るための旅でしたが、当時の妻と一緒に随分あちこち動き回りました。もちろん田舎にあった彼女の里で、かなりの日数を過ごしもしました。

そんな滞在でしたが、版画について「研究」する時間もなんとか滑り込ませていたのです。版画に関する内容ならどんな本でも欲しくて、足繁く古本屋にも通いました。最初の訪問の時には、文房具専門店で初級レベルの版画道具も見付けています。また、頂戴した品もいくつかあります。彼女と一緒に版元を2件ほど尋ねて、何枚かの作品を購入したのですが、どちらの店でも、私が日本の伝統木版画を作りたいという話をすると、在庫の中から小さめでしたが新品の版木を2枚下さったのです。カナダに戻って頂戴した版木で練習してみると、きちんとした版木を使用するのはいかに大事なことか実感しました。それで、2度目に訪日したときには、カナダに送ってもらう版木を注文することを、滞在予定中の「日程」リストの最初に書いたのです。

そして訪ねた版元で、東京に1件だけ残っている「板金」という版木店を紹介してもらい、版木について話を聞くためにそこを訪ねました。島野さん一家が営業している店でした。

伝統木版画用の版木を購入する時には、どのような作品を作るかを念頭におき、それに合った物を注文します。絵の輪郭や細かな髪の毛を彫る主版(おもはん)には、堅くて高密度の板が必要ですし、単色を均一に色付けしたい場合は柔らかく木目の目立たない木が必要です。当時の私はそういったことを良く知らなかったのですが、盲滅法に彫っていたわけではありません。日本に来る以前に作った作品を見ると、様々な実験していたことが分かります。墨摺りだけのものや多色摺りのもの、輪郭線のあるものとないもの、浮世絵の複製と(つたない)オリジナル。暗中模索の試みでしたが、それでも少しずつ腕を上げていきました。

そして、教えてもらった版木店を訪ねる頃には、将来を見据えて売り物になりそうな作品のことも考えるようになっていました。自分の腕がそこまで達するにはほど遠いことを承知でしたが、どこかで目標を定めなければ、そこに辿り着く事は決してできないと思い、ある企画を考えたのです。頭に浮かんだのは、初期の浮世絵を復刻するという案で、菱川師宣による「吉原の堤」という12枚からなる作品でした。吉原界隈の様子を描写したものです。(吉原と言っても卑猥さなどまるでなく、少しも見苦しいところのない種類の絵です。)

そういう訳で、2度目に訪日した時(1984年の1月でした)には、最高級の山桜を使った無垢の版木を6枚、寸法を指定して島野さんに注文したのです。他にも数枚追加して、船便でカナダに送ってもらうよう頼みました。その頃はまだ、ほんとうに初歩的な日本語しか話せなかったので、どのような会話をしたか記憶がありませんし、私の計画について島野さんたちがどのように思ったのかも分かりませんでした。それでも、彼らはきちんと対応してくれて、版木は無事カナダに届いたのです。

でも、私はそれに手を付けませんでした。

素晴らしい版木でした。ベテランの職人がかんな仕上げをし、表面は鏡のようでした。そこで、私は試しました。2枚の版木の面と面を合わせてみたのです。すると、ピタリとくっついてしまい、横にずらすように動かしてやっと離すことができました。私は、この版木に彫刻刀を入れることは、どうしてもできませんでした。自分の腕は、まだ初歩段階にあることを認識していましたから、この版木を無駄にしてしまうことに罪悪感があったのです。丁寧に包んで、「見合う腕」を身につける日を待つことにしました。 

それから2年が経ち、私は楽器店を辞めて、家族を連れて日本に来ました。そして、東京の西方に位置する羽村町にアパートを見つけたのです。持ってきたのはリュックに詰め込めるだけの衣類(それと、娘達が一番好きなおもちゃをひとつずつ)、他の所有物は全てバンクーバーの貸し倉庫に残してきました。大切な版木も、その中に入れました。

私は生活のために英語を教え始め、合間を見付けて少しずつ版画制作をしました。必要な版木を注文して、何とか少しずつ版画の腕を上げ、やがて長期に渡る企画を開始するようになると、毎月新しい版木を注文するようになったのです。私は島野さんの常客になりました。

それから、何年かが過ぎました。子供達の母親とは離婚をし、その後数年すると、二人の娘達は学校の関係でカナダに戻りました。私の版画制作は、過ぎ去る月も迎える月も、行く年も来る年も続きました。ある夏、私は娘達に会うためバンクーバーに行きましたが、そこに滞在している間に、長年使っていた貸し倉庫を整理し、必要な物を日本に送りました。その時、15年前に海を渡った6枚の版木も「故郷」に戻ってきたのです。

私はまだ、その版木に手を付けませんでした。

時折は、箱を開けて一番上にある1枚を取り出しました。手の平で面を返し、美しくすべすべな表面に感動します。そして、使おうかと思います。でも毎回、同じ結論に達するのです。まだ。まだ「見合う腕」は身に付いていない。

青梅の家を購入したときには、もちろん、その版木も私と一緒に引っ越しました。そして、湿気やカビを防げるよう、換気状態のいい場所を慎重に選んで保存しました。「四季の美人」シリーズを企画した2004年には、高品質の版木が必要となり、私は再び版木の包みを開きましたが、結局は同じ結論に達してしまいました。まだ早い。そして、その企画用に新たな版木を注文しました。私が最初に購入を始めた頃に比べると、手に入る版木の質はずっと劣るようになっていたのですが、それでも注文しました。この事実は、保存している版木の「価値」を、更に一層高めたのです。保存している版木は「高品質」というだけでなく、文字通り「代わりなき」存在になっていました。

ここまでお読みになると、この話の先が見えてきたことでしょう。

そうです、私のために用意されて26年、版木はまだ私の手元にあります。そして今、私は怯えさえしています。

冷静な立場で誇張せずに、はっきりと言えることですが、私の腕は現役彫師のトップクラスに達していると自負できます。誰が「最高」か、を知る人はいませんが、そんなことは無意味です。私が強調したいのは、この版木に彫刻刀を入れる資格のある人間、そして、この版木を損なうことなく仕事ができる人間がこの地球上にいるとしたら、それは私だということです。

そこまで分かっていても、手出しができない。自分の腕は十分な域に達していると思いはするものの、静かに腰を下ろして、彫の技術が最高レベルに達していた昔の「仕事」を見つめていると、年期の入った彫師の声が聞こえてくるのです。「おまえさんは見込みがある!続けるんだ。そうすればいつか、この版木に見合う仕事ができるようになって……」

私は来年還暦を迎えます。60才です!この歳になった彫師に、「続ける」とか「いつか」とはどういう意味なのでしょうか。しかも、(穏便な言い回しをすれば)若い頃の視力は失せた者に向かって。

私は、かなり納得のできる人生を生きています。「臆せず機を掴む」ようにしてきましたから、その決断が私に大きな影響を及ぼす結果にもなりました。私は、優柔不断な人間ではありません。でも、この事になると、全身が麻痺してしまうのです。

一体全体、この版木をどうしたものでしょうか?

必殺技

部屋の中にハエが侵入、あるいはゴキブリ発見。さあどうする?私は数年前に身に付けた必殺技で対処している。

それはニュージーランドにいる友人を訪ねた時だった。ダイニングにハエが多い。一様客人なので、最初は遠慮していたのだが、どうも気になる。住人に聞くと「そうなのよ、外から入ってくるの」と広く開け放ったバルコニーへ続くドアーを見つめる。初夏の心地よい風が流れてきていた。

「この人なにも対処しないんだ〜」と思った私は、我慢ができなくなって近くにあった古新聞を丸めて、ガラスに止まっているヤツをポンと叩いてみた。すると、失神したらしくポトリと落ちた。そこをすかさずティッシュでつまんでポイ。これに味を占めて、次々と止まっているヤツをやっつけた。失神とまでいかずに、動転して落下したまま足をバタバタやっていることもあるが、この状態なら処理は簡単である。強すぎず弱すぎず、相手が飛べなくなる程度に叩いて衝撃を与えるのが極意。

こうして身に付けた「技」はゴキブリにも応用できる。ゴキブリはどんなに清潔を心がけても外から侵入してくるので、私は家中のあちこちにホウ酸ダンゴを置いている。だから、見つかるヤツはたいてい動きが鈍っているのだ。「殺さず生かさず、失神させる!」と唱えて、一撃に全神経を集中させて隠れた場所を襲撃すれば、90パーセントは固い。

かく言う私だが、以前はこんなこと、とてもできなかった。歓迎しないムシどもの侵入に遭遇すると、悲鳴を上げて助けを求めるだけだった。ゴキブリなど見付けようものなら体中に鳥肌が立ち、手が震えたものである。だが、頼る術がなくなったその日から私は強くなった。逃げから攻めの姿勢に変身し、背水の陣と構えて「必死」の覚悟でやっつけようと敵を追いかけた。ほとんどは、逃げられたが。

目下私はこの技を娘に伝授すべきと、張り切っている。だが、人間というものは、頼るもののなくなる時まで心の切り替えはできないものらしい。出産後、頻繁に孫と来ている娘が、ゴキブリを見付けて大声で私を呼んだ。もちろん「機動隊」は即任務を果たしたが、実演したところで娘は自ら手出しする気は毛頭ない。自宅ではどうしているかと聞くと、夫のいないときは見過ごすそうだ。

技の伝授はそれを求める相手あってのことと実感するが、はて、デービッドは磨いた腕の伝授をどう考えているのだろうか。