デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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版木を巡って

私が日本に移ったのは1986年ですから、もうかれこれ24年になります。日本に来たのは、それが初めてではありませんでした。2ヶ月の日程で2回滞在しています。当時はカナダの楽器店に勤めていましたが、次第に日本という国と日本の版画への興味が増していきました。その2回は、ほとんどが日本の概略を知るための旅でしたが、当時の妻と一緒に随分あちこち動き回りました。もちろん田舎にあった彼女の里で、かなりの日数を過ごしもしました。

そんな滞在でしたが、版画について「研究」する時間もなんとか滑り込ませていたのです。版画に関する内容ならどんな本でも欲しくて、足繁く古本屋にも通いました。最初の訪問の時には、文房具専門店で初級レベルの版画道具も見付けています。また、頂戴した品もいくつかあります。彼女と一緒に版元を2件ほど尋ねて、何枚かの作品を購入したのですが、どちらの店でも、私が日本の伝統木版画を作りたいという話をすると、在庫の中から小さめでしたが新品の版木を2枚下さったのです。カナダに戻って頂戴した版木で練習してみると、きちんとした版木を使用するのはいかに大事なことか実感しました。それで、2度目に訪日したときには、カナダに送ってもらう版木を注文することを、滞在予定中の「日程」リストの最初に書いたのです。

そして訪ねた版元で、東京に1件だけ残っている「板金」という版木店を紹介してもらい、版木について話を聞くためにそこを訪ねました。島野さん一家が営業している店でした。

伝統木版画用の版木を購入する時には、どのような作品を作るかを念頭におき、それに合った物を注文します。絵の輪郭や細かな髪の毛を彫る主版(おもはん)には、堅くて高密度の板が必要ですし、単色を均一に色付けしたい場合は柔らかく木目の目立たない木が必要です。当時の私はそういったことを良く知らなかったのですが、盲滅法に彫っていたわけではありません。日本に来る以前に作った作品を見ると、様々な実験していたことが分かります。墨摺りだけのものや多色摺りのもの、輪郭線のあるものとないもの、浮世絵の複製と(つたない)オリジナル。暗中模索の試みでしたが、それでも少しずつ腕を上げていきました。

そして、教えてもらった版木店を訪ねる頃には、将来を見据えて売り物になりそうな作品のことも考えるようになっていました。自分の腕がそこまで達するにはほど遠いことを承知でしたが、どこかで目標を定めなければ、そこに辿り着く事は決してできないと思い、ある企画を考えたのです。頭に浮かんだのは、初期の浮世絵を復刻するという案で、菱川師宣による「吉原の堤」という12枚からなる作品でした。吉原界隈の様子を描写したものです。(吉原と言っても卑猥さなどまるでなく、少しも見苦しいところのない種類の絵です。)

そういう訳で、2度目に訪日した時(1984年の1月でした)には、最高級の山桜を使った無垢の版木を6枚、寸法を指定して島野さんに注文したのです。他にも数枚追加して、船便でカナダに送ってもらうよう頼みました。その頃はまだ、ほんとうに初歩的な日本語しか話せなかったので、どのような会話をしたか記憶がありませんし、私の計画について島野さんたちがどのように思ったのかも分かりませんでした。それでも、彼らはきちんと対応してくれて、版木は無事カナダに届いたのです。

でも、私はそれに手を付けませんでした。

素晴らしい版木でした。ベテランの職人がかんな仕上げをし、表面は鏡のようでした。そこで、私は試しました。2枚の版木の面と面を合わせてみたのです。すると、ピタリとくっついてしまい、横にずらすように動かしてやっと離すことができました。私は、この版木に彫刻刀を入れることは、どうしてもできませんでした。自分の腕は、まだ初歩段階にあることを認識していましたから、この版木を無駄にしてしまうことに罪悪感があったのです。丁寧に包んで、「見合う腕」を身につける日を待つことにしました。 

それから2年が経ち、私は楽器店を辞めて、家族を連れて日本に来ました。そして、東京の西方に位置する羽村町にアパートを見つけたのです。持ってきたのはリュックに詰め込めるだけの衣類(それと、娘達が一番好きなおもちゃをひとつずつ)、他の所有物は全てバンクーバーの貸し倉庫に残してきました。大切な版木も、その中に入れました。

私は生活のために英語を教え始め、合間を見付けて少しずつ版画制作をしました。必要な版木を注文して、何とか少しずつ版画の腕を上げ、やがて長期に渡る企画を開始するようになると、毎月新しい版木を注文するようになったのです。私は島野さんの常客になりました。

それから、何年かが過ぎました。子供達の母親とは離婚をし、その後数年すると、二人の娘達は学校の関係でカナダに戻りました。私の版画制作は、過ぎ去る月も迎える月も、行く年も来る年も続きました。ある夏、私は娘達に会うためバンクーバーに行きましたが、そこに滞在している間に、長年使っていた貸し倉庫を整理し、必要な物を日本に送りました。その時、15年前に海を渡った6枚の版木も「故郷」に戻ってきたのです。

私はまだ、その版木に手を付けませんでした。

時折は、箱を開けて一番上にある1枚を取り出しました。手の平で面を返し、美しくすべすべな表面に感動します。そして、使おうかと思います。でも毎回、同じ結論に達するのです。まだ。まだ「見合う腕」は身に付いていない。

青梅の家を購入したときには、もちろん、その版木も私と一緒に引っ越しました。そして、湿気やカビを防げるよう、換気状態のいい場所を慎重に選んで保存しました。「四季の美人」シリーズを企画した2004年には、高品質の版木が必要となり、私は再び版木の包みを開きましたが、結局は同じ結論に達してしまいました。まだ早い。そして、その企画用に新たな版木を注文しました。私が最初に購入を始めた頃に比べると、手に入る版木の質はずっと劣るようになっていたのですが、それでも注文しました。この事実は、保存している版木の「価値」を、更に一層高めたのです。保存している版木は「高品質」というだけでなく、文字通り「代わりなき」存在になっていました。

ここまでお読みになると、この話の先が見えてきたことでしょう。

そうです、私のために用意されて26年、版木はまだ私の手元にあります。そして今、私は怯えさえしています。

冷静な立場で誇張せずに、はっきりと言えることですが、私の腕は現役彫師のトップクラスに達していると自負できます。誰が「最高」か、を知る人はいませんが、そんなことは無意味です。私が強調したいのは、この版木に彫刻刀を入れる資格のある人間、そして、この版木を損なうことなく仕事ができる人間がこの地球上にいるとしたら、それは私だということです。

そこまで分かっていても、手出しができない。自分の腕は十分な域に達していると思いはするものの、静かに腰を下ろして、彫の技術が最高レベルに達していた昔の「仕事」を見つめていると、年期の入った彫師の声が聞こえてくるのです。「おまえさんは見込みがある!続けるんだ。そうすればいつか、この版木に見合う仕事ができるようになって……」

私は来年還暦を迎えます。60才です!この歳になった彫師に、「続ける」とか「いつか」とはどういう意味なのでしょうか。しかも、(穏便な言い回しをすれば)若い頃の視力は失せた者に向かって。

私は、かなり納得のできる人生を生きています。「臆せず機を掴む」ようにしてきましたから、その決断が私に大きな影響を及ぼす結果にもなりました。私は、優柔不断な人間ではありません。でも、この事になると、全身が麻痺してしまうのです。

一体全体、この版木をどうしたものでしょうか?

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