デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」の一冊の内容です。
ここに、バックナンバーがすべて集めてありますので、号数あるいはテーマ別分類から、選んでお読みください。
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旧暦ではもう立秋を過ぎていますが、ここ青梅は蒸し暑い日が続いています。まだ8月ですから、実際これを夏号と呼ぶのは自然ですね。
このページにある作品は、「自然の中に心を遊ばせて」シリーズの最新作です。企画は、のろのろでも着実に進行していて、すでに10作が完成して残るは2作品となりました!
今号で中心となる記事は、ドキュメンタリー形式で連載中の話です。ここ20年間に制作してきた作品を見渡しているので、長年購読してくださっている方たちはデジャブーを体験している気分になるかも知れません。でも、最近収集を始められた方たちには、私をよりよく知っていただく助けとなることでしょう。
また、長い間お休みしていた「収集家の紹介」があり、いつも通り貞子のコーナーもありますが、最後のページは絶対に見逃さないでください。私の娘たちが展開している、目下急成長中のビジネスについての紹介記事ですから!
「ビデオドキュメンタリー」を想定して書き始めたこのシリーズ、3話まではデービッドがなぜそれほど日本の伝統木版画の虜になったか、について説明してきました。今回は、このことがどの様な形で彼の作品に反映されているかを追求していくことにしましょう。
[カメラ] 私たちは薄暗い講堂にいます。ステージの一か所にスポットライトが当たっています。誰もいません。でもカメラが近づいていくと見えてきます。ステージの上に広がっているのは、展示パネルに取り付けられた一連の作品です。大写しにしていくと、それが木版画だということが分かります。貴族の衣装を身に付けた男女の絵で、それぞれの版画には歌が筆で書かれています。作品を見ながら、インタビューをする人とデービッドが話をしています。
[インタビュー] 「何枚あるのですか。本当にデービッドさんが全部を制作したのですか。どれくらいの時間がかかったのですか。」
[デービッド] 「ええ、百人一首ですから百枚あります。はい、全て自分で作りました。アシスタントもなしです。1枚1枚を版木に彫って、どの色も自分で摺りました。実際、時間は掛かりましたよ。当初、全作品を作るのに10年かかると思いましたが、まったくその通りでした。1989年1月から1998年の12月まで要したのです。」
[インタビュー] 「この企画を始めた時はおいくつでしたか」。
[デービッド] 「37才でした。次の質問は、想像できますよ。10年もかかる企画をどうして始めたのかって思っているでしょう。答えは簡単です。この企画が『大規模過ぎ』て『困難過ぎる』からです! この年齢に達して、そろそろこんな風に思っていましたから。『デービッド、もしも何かを成し遂げようと思うのなら、正念場だぞ。時は止まってくれないのだから!』と。僕は運動が得意ではないから、エベレストに挑戦するようなことはしません。だから、僕なりのエベレスト登頂を編み出したのです。『制覇の標的はここにあり、取り組め!』ってね。」
[インタビュー] 「そんなに長い間、企画への意欲を継続することができたのですか。」
[デービッド] 「できましたとも! 僕が選んだ企画は、とても奥深い内容のものでしたから。(1775年、勝川春章作)人物の表情は豊かですし、着物の模様も実に様々、それに毛筆で書かれた昔の書を読むのはなかなか大変でした。
「百人一首は日本の古典文学を代表するものの一つですから、この作品を制作するということは、日本の文化と歴史について修士号を取得するのに匹敵するほどの課題でした。」
[インタビュー] 「これだけ大規模の企画ですから、何か補助金のようなものを受けたのですか。」
[デービッド] 「えっ、とんでもない! そういった補助はまるで受けませんでした。最初の頃は、まだ英語を教えていましたから、予備の時間を使って制作していたのです。でも企画内容が確立してくると、語学教材を片付けて版画制作だけで暮らせるようになりました。それに、当初私の企画に賛同してくださった方たちの中には、現在も共に歩んで、私の全作品を収集してくださっている方がいるんですよ! マスコミの注目を集めたことも手伝って、その頃はテレビにも頻繁に出演しました。道を歩いていると呼び止められてサインを求められることもよくあったのです。近頃はまったく起きない話ですがね!」(笑い)
[インタビュー] 「その頃のことですが、版画家としての活動を続ける上で、どんなことが強く記憶に残っていますか。」
[デービッド] 「ちょっとしたジェットコースターのようでしたね。10年もあれば、たくさんのことが起きますよ! 最初の頃は経済的にきつかったです。企画を遂行して満足な結果を出せる、という技術面での自信もありませんでした。でも年を経るにつれて腕が上がってゆき、それに連れて自信も付いてきました。最終段階に入る頃には、終わってしまうことが悲しくなってきました。」
[インタビュー] 「それからどうなりましたか。エベレスト登頂を果たした後の登山家が、その次に何を目指したかということです。」
[デービッド] 「エベレストから戻ってきた登山家は、達成したことについて講演をしてまわったりします。彼の冒険について本を書くかもしれませんね。私の場合も、そういったことが一つの選択肢でした。マスコミの注目度は高かったので、注文は限界まで増えていましたし、この人物とその『業績』についてもっと知りたい人はたくさんいました。
「でも、自分がいつまでも『百人一首の人』と思われるのは避けたかったのです。まだ47才でしたし、ライフワークがこの年で完成しちゃうなんて思う人はいませんよ。
「ですから、企画の最終段階で集中したマスコミの注目はありがたかったのですが、私は次の『摺物アルバム』という企画を発表したのです。そして、百人一首シリーズ完成展示会が終了してひと月も経たないうちに、次の作品を作りました。」
[インタビュー] 「もうひとつのエベレストですか。」
[デービッド] 「う〜ん、イエスでありノーですね。再び10年企画を立ち上げたわけではありませんから。これは、終わりを設定しない企画でした。結果としては、5年間に50枚の作品を完成しました。」
[インタビュー] 「そのシリーズのテーマは何でしたか。」
[デービッド] 「開始した頃の基本構想は、『繊細で細部を詳細に表現した作品を、経済性を無視して制作する』ということでした。昔『摺物』というジャンルの木版画があり、ほぼそれと同じ狙いの作品です。でも、企画が進行するに連れて、また別の注目点が明らかになってきたのです。このシリーズの御陰で、修士卒業後の5年間も続けて修行することになりました。
「『百人一首シリーズ』を手がけていた10年間は、どれも同じ形式の作品だったので、様々な木版画の技法を試すことができないという点で、前進を阻まれたような部分があったのです。春章の作品ができた1775年に閉じこめられてしまったような感じでした。ですから『摺物アルバム』の制作をすることで、300年間に開拓された様々な彫や摺の技法に思う存分挑戦することができたのです。
「私は50枚の作品を、それぞれこんな気持で選んできました。『一体どうやって摺ったのだろうか。』とか『これ、僕に彫れるだろうか。摺れるだろうか。』
「安全対策はまるでない状態で仕事を進めていましたから、どの作品に取り組むときにも背水の陣でしたよ! 収集家の方たちは、送られてくる作品を知らずに10枚分の予約をしていましたから、毎回届く包みの中にどんな作品が入っているか楽しみにしてくださっていました。その方たちを失望させるか否かは、すべて私の腕にかかっていたのです!」
[インタビュー] 「その企画はどんな結果になりましたか。」
[デービッド] 「私が答えるのはちょっと無理ですね。答えが分からないからではなく、謙虚であろうとするからですよ!
「でも正直に言えば、50枚の作品は僕の成長ぶりを如実に示していて、その前の百人一首を凌ぐ素晴らしい出来だったと思います。『摺物アルバム』の中には、過去に作られた版画の中で、その繊細さが最たる特徴とも言える作品があり、味のある線を克明に彫ってあります。しかも私は、言わばパートタイマーの彫師ですよ。摺の方も自分でしていますからね。
「今当時を振り返ると、『ひとりでこんなにやったなんて、信じられない』という表現が頭に浮かびます。このシリーズ自体が、日本の伝統木版画の百科事典とも言えるほどですから。毎年10枚の作品を選び、そのほとんどはかなりの多色摺でしたが、どれも200枚ずつ摺りました。今こう言うのは時期尚早かもしれませんが、あんな限界知らずの体力を要する仕事は二度とできない気がします。」
[インタビュー] 「お聞きしていいものか、ちょっと迷うのですが、もう次のエベレストには登りませんでしたよね。」
[デービッド] 「おっしゃる通りで、その表現を使うのはそこで終わりにした方がいいでしょう。その次のシリーズは『四季の美人』というテーマで、簡単に言えば摺物アルバムの延長線上のような作品集と言えます。違いは作品の大きさでした。
「版画の大きさが増すと、摺は急に難しくなります。摺物アルバムのように比較的小さな作品の場合は、それなりに摺をこなすことが出来たので、もっと大きな作品を手がける時が来ていると感じたのです。四季を代表する4人女性は、異なる時代から選びました。選択の基準は、挑戦を要する作品であること、芸術的な魅力のある作品であること、そして収集家の方たちに好まれる絵であること、でした。
「なんだか壊れたレコードみたいですが、この企画もまた私の要求をかなえてくれるものでした。私がこの『四季の美人』集に寄せる思いを端的に表現すれば、こんな風になるかも知れません。もしも突然仕事場が火事になって、たったひとつしか持ち出せないとしたら......。」
[インタビュー] 「分かりました。このことは、他の『お子さん』たちには内緒にしておきますから。お話を始めたときに、毎年新しい作品集を制作してきたとおっしゃっておられましたが、ちょっと詳しく説明していただけますか。」
[デービッド] 「ここまでお話してきた企画はそうでした。百人一首は毎年10枚ずつ、摺物アルバムも同じです。こうしてきたのは、ふたつの理由からでした。まず、それまで私は毎年1月に展示会を開いて前年に制作した10作品を紹介してきたからです。ふたつ目の理由は、集める方の立場を考え、1年間に作る作品をほど良いまとまりにしたかったからです。私は、作品を単体で販売することはしませんから。
「そして、その次も『版画玉手箱』という1年間の企画でした。これは、それこそ冒険でした! 4作ではなく、10作でもなく、24作品だったからです!」
[インタビュー] 「1年間にですか。ちょうど2週間に1作品のペースですよ!」
[デービッド] 「その通りです。きっかりその通り予定し、収集家の方たちには隔週の月曜日に『プレゼント』が郵便受けに届くと約束をし、実行しました。」
[インタビュー] 「きっと小さめの版画だったのでしょうね。」
[デービッド] 「それはそうです。葉書版でした。それでも、私のことですから、大きさこそ小さいですが、内容も小規模という訳ではなかったのです。作品全体であらゆるジャンルを網羅していますし、細部を観察すると見応えのある部分がたくさんあります。実り多い1年でしたが、お分かりのように2週間毎の締め切りは大変なプレッシャーでした。ですから、次の企画を考えるときには、何が起きたか想像できますよね。」
[インタビュー] 「年に10作品のパターンに戻ったのですか。」
[デービッド] 「いいえ、過剰反応し過ぎて、1枚だけのシリーズを提案してしまいました。1700年代に懐月堂安度が画いた素晴らしい絵を、掛軸に仕立てる案です。」
[インタビュー] 「どうして過剰反応し過ぎなんですか。」
[デービッド] 「その絵を彫って摺り、掛軸として表装し、お客様にお届けするという全行程を1年でするのですから、並大抵の仕事量ではありません。実際、1年半かかってしまいました。ですから、1年に1シリーズという方針は、ここでうまくいかなくなり、まだその調整がつかない状態です!」
[インタビュー] 「今現在の企画について伺う前に、デービッドさんの作品を集めていらっしゃる方たちについてお聞きしたいと思います。『収集家』とう言葉を使っていらっしゃいますが、その方たちは『美術収集家』ですか。」
[デービッド] 「それが、違うのです。そう自称する方はきっと少ないでしょう。ほとんどは、ごく普通の人たちです。おひとりずつ動機は違うと思いますが、みなさんが私のしていることに社会的意味を感じ、活動を助けるに値すると思ってくださっています。
「私は欲張りではなく、自分の作品は手頃な価格にしていますから、参加しやすいのです!」
(次回第5話では、今まで数多くされてきた質問を取り上げます。「一塊の職人でしかないということに、なぜ満足できるのですか?」という問いです。)
この季刊紙の編集内容について、暫く身勝手が過ぎていたようです。長年の読者なら記憶されていると思いますが、毎年2回ほどこのコーナーを設けていました。ところが、最後にご紹介したのはいつだったでしょうか、軌道修正の時ですね!
今回ご紹介するのは、埼玉県東松山市にお住まいの田内陽子様です。私の収集家であるというだけでなく、私の協同制作者と言ってもいいほどの存在です。田内さんが初めて私の展示会に来てくださり、名刺をくださったそのとき、私は彼女が将来共に何かをなしうる存在であるということを直感しました。
その名刺は、手漉きの和紙に印刷ではなく毛筆でしたためられたものでした。私自身はまったく書が出来ませんが、優れた書を丹念に観察した(彫った)経験が長いので、一目で一流と分かったのです。その勘は当たっていました。田内さんは、仮名文字の特別指導をするだけでなく、出版社や印刷業会やテレビ局などの人材ファイルに筆耕家として登録されていて、必要な時に即対応できる貴重な存在です。そのため、いつ何時緊急の依頼が来るか分からない状態ですが、芸術性の高いプロの書家として、忙しい毎日を送っていらっしゃいます。
田内家で芸術性や文学の才能を発揮しているのは、彼女だけではありません。ご主人は大学教授ですが、作家として賞を受ける才の持ち主。ふたりのご子息は、ベストセラー作品で知られる翻訳家と曼荼羅をテーマにオリジナル作品を展開するアーティスト。お嫁さんは料理の本を出版する、という顔ぶれです。ですからご自宅には、ご家族の趣味がしっかり反映されています。ご想像通り、どの部屋にも絵画や写真や書が飾られ、どちらを向いても本棚が列をなしています。
田内さんが私の作品制作に協力してくださっている旨を書きましたが、ここにある版画はほんの一例です。歌の書された版画を作りたいと考えて田内さんにお願いすると、快く引き受けてくださったのです。お送り頂いた書には大変満足し、その文字を彫って摺る作業はとても心地よく進めることができました。ですからそれ以降も甘えて、色々お願いをし続けています。現在の「自然の中で心を遊ばせて」シリーズで制作している和綴じ本の表紙も田内さんの書ですし、以前制作した掛軸を収納する桐箱には、直接筆で書いていただきました。大変なお願いをしてしまったものです!
今回の訪問では、田内さんのお仕事についてもっとお聞きする予定で、最初のうちはそれができそうだったのです。まず、彼女の美しい書でしたためられた万葉集や百人一首のアルバムを拝見しました。でも話の途中で、そこに使われているちょっと変わったきれいな紙について質問してから、話が脱線してしまいました。田内さんはすぐに立ち上がって納戸に行くと、大きな箱をいくつか抱えて戻ってきました。中には、すごい宝物が入っていたのです!
それは西陣帯の横糸として装飾加工された「引箔(ひきばく)」という和紙でした。長年営業していた織物工房が閉鎖されるとき、捨てられそうになるところを彼女が引き取ったのです。田内さんがたくさんの引箔を箱から取り出すと、金箔や銀箔や漆で加工された和紙が畳の上にどんどん広がっていきました。彼女は最初、引箔に毛筆で書くことに興味を持ったのですが、かつては珍しくなかったものでも、現在は希少なものなので大切に保存しなくては、と悟ったそうです。(田内さんがご自分の展示会を開く折、この紙も紹介してくださる日を楽しみにしています。この紙の存在すら知らない人がたくさんいるのですから!)
時間はこんな風に過ぎてしまい、部屋の中は掛軸やら書やら本でいっぱいになっていました! 私は常々、自分の作品を集める方たちのほとんどがごく普通の人たちで、作品を日常生活の一部にしていただいて嬉しいと書いてきましたが、こうして素晴らしい芸術品の数々の間に自分の作品も飾られているのを目の当たりするのも、なかなかいいものでした。
次回お尋ねするときには、実際の筆さばきを拝見しなくては!
7月の初め、いつもの美容室に行くときに、不注意から転んで左肘下を骨折した。霧雨が降っていたので滑り易いと用心し、車を降りると慎重に歩いて無事入り口に着いたのに、ドアーを開ける最後の一歩がいけなかった。玄関マットの直ぐ手前のタイル上に軽く着地した左足が前方に勢い良く滑り、一瞬体が宙に浮いて仰向けに着地した。その時左肘のあたりでなんとも澄んだ音がしたのでいやな予感はしたのだが、起こされて立ち上がってみるとどこも悪くない。一様医者に見せた方がいいというとで、最寄りの整骨院に歩いて行くと、途中でガラスに映った肘の皮膚が折れた骨に押されて出っ張っているのを見て青くなった。美容室に戻ってご主人のお世話になり、手術のできる病院に駆け込んだ。もちろんそのまま入院、全身麻酔での手術となった。
問題はその後である。何しろ体を良く動かす生活をしている私が、毎日ベッドに横たわりロクに歩かない状態が続くと、次第に食欲がなくなり気も滅入ってくる。もちろん熟睡もできない。ベッドの上での軽いストレッチや病院内にある階段の上がり下りは意識的にしていたのだが、心が萎えるというのだろうか、体中の力が日に日に抜けて、訳も分からず悲しい気分になってきた。
やっと退院の許可をもらって、友人に送られて自宅に戻ると、2週間ほったらかしになっていた庭は見事なまでに草丈が伸びている。荒れ野の中に、トマトやオクラの苗が垣間見えている状態。だが生活し慣れた生活環境に戻ると、心も体も直ぐに通常のリズムへと回転し始めた。窓を開け放って部屋に外気を入れ、汚れ物を洗濯機に放り込み、左手を三角巾で吊ったまま庭に出動し、汗だくになって動き始める。幸い私は右利きである。左肘が不自由なだけなので、丈の伸びた草を引き抜く作業は問題なく続けることができた。何と単純なことだろう、その晩から食欲は快復して何日振りかで深く眠ることもできてしまった。
現在はまだ骨を繋げるワイヤーが入っているし、毎日リハビリに通っているものの、まだ完全には左腕の曲げ伸ばしができない。思うように運動もできないため、雨の日が続いたりすると気持が塞ぎがちだが、腕に負担の掛からないクラスを見つけては近くのスポーツクラブに通っている。一般の方たちはどうなのか分からないが、私にとっては体を動かす事が健全な精神を維持するために必須の条件なのだ。
最後に一言加えると、この失敗に懲りて、さすがに家の中で走り回ることはなくなった。失敗をしたら、そこから学ばなくては!
もう1年ほどになりますが、以前このニュースレターで娘の日実がバッグを作ってインターネット販売していることをお伝えしました。
あれからその事業はどんどん発展していたのですが、私の怠慢から経過報告を怠ってしまっていました。現在は妹の富実も加わって、趣味から始めたオリジナル作品が、いっぱしのビジネスに発展しています。
ふたりが作る魅力的なデザインのバッグは、インターネット上で世界に販売するだけでなく、バンクーバーとその近在の都市で開催されるファッション関連の展示会などで紹介しています。
このブランドの商品は、新聞記事などのマスコミに取り上げられ、ファッションに敏感な人たちが意見を交わすブログでも話題となり、ファッションショーへの参加を求められ、テレビ出演もするようになっています。
この先どうなるのか、親の私にはさっぱり分かりませんが、日実と富実は「Davie & Chiyo」を有名なファッションブランドにのし上げるつもりのようです。
彼女たちのホームページをぜひ覗いてやってください。